オスカーが去ってから3日が経ち、ロザリアは邸でいつも通りに過ごしていた。
バイオリンを奏で、刺繍をしたり本を読んだり。
お茶の時間は紅茶を自らいれ、使用人たちにも振舞った。
ロザリアの育った上流階級では、主人が愛人を持つことは珍しくなかった。
おそらく、ロザリアの父と母にもそれぞれ恋人がいたと思う。
けれどそれはあくまで夫婦関係という礎の上に立っているもので、父にとっても母にとっても、お互いがパートナーとして最上という認識があった。
だから。
もしもオスカーが愛人を持ちたいと願うなら、それを認めるのもまた、妻の形なのかもしれない。
離婚したいとは言われなかった。
ロザリアを不要とも言わなかった。
そう思い込もうとして、それでもやはり、心が痛くて。
とうとうロザリアはひとつの決意を固めていた。
数日後の夕方、ロザリアは領主邸の裏門前に佇んでいた。
定時を告げる鐘の音が空に響くと、裏門からは次々と人が溢れだしてくる。
下層から働きに来ている人々が家路につくのだ。
皆、疲れた顔はしているけれど、足取りは軽く楽しげで、たいてい数人のグループを作っている。
ロザリアはその中に見知った顔を見つけると、そっと近づいた。
「奥方様……」
目の前に現われたロザリアに、ダリルは気まずそうに目を泳がせた。
おそらくここでのオスカーを一番よく知っているのが彼だ。
ダリルは小さく唇を噛んで、
「オスカー様なら、今日はいらっしゃいません。・・・休日です」
「かまいませんわ。今日はあなたにお会いしたかったんですもの」
ロザリアは気丈に微笑んで見せた。
立ち止まる二人を、通り過ぎる人々が意味ありげに見ていく。
なかには
「あ、あの方は近衛隊長の奥様では?」
「奥様、こんにちは」
などと声をかけて行くものもいる。
ロザリアはその声にいちいち丁寧に返事を返し、微笑んだ。
「ここではなんですから。・・・歩きませんか?」
ダリルに促され、二人は人波に従って歩く。
「・・・オスカーは今どこで暮らしているのかしら?」
「え、あの」
「女性と子供と一緒に?」
「・・・はい」
「そこに連れて行っていただけないかしら。彼がどうしているのか、一目だけでも見たいんですの」
ロザリアの申し出に、ダリルはぴたりと足を止めた。
後ろから歩いてきた人が、一瞬ぶつかりそうになって、舌打ちをして避けていく。
「本気、なんですか?」
「ええ。わたくしも頭では理解していますの。でも、どうしても実感がもてなくて・・・もしもわたくしを少しでも憐れだと思うのなら、どうか彼のところへ連れて行ってくださいませ」
ダリルはため息と共に橙に染まりつつある空を見上げた。
やつれてはいるけれど、ロザリアは美しい。
オスカーと並ぶ様はそれは一枚の絵画のように、しっくりとハマっていた。
人間に上下はない、というのはダリルの持論だが、彼ら二人はこの惑星の城下町の人間とはまるで違う。
別世界の二人。
それを壊してしまった責任の一端は、確実に自分にあるとダリルは感じていた。
「・・・行かない方がいいと思いますよ」
「そうね。わたくしもそう思いますわ。でも、知らなければ、前に進むこともできませんの。このまま、あの邸で、だんだんと酸素が減って行く魚のような暮らしを続けなければ行けなくなりますわ」
いつかはオスカーが戻ってきてくれるかもしれないという淡い期待を抱いて。
毎日が過ぎていくうちにゆっくりと諦めて、やがて朽ち果てていく。
そんな人生。
ロザリアの強い言葉に、ダリルは胸を突かれた。
これからオスカーとダリルが成そうとしている事が真に正しい事ならば、彼女の願いを無下にしてはいけない。
彼女の思いを踏みつけて、正義を語るなど許されない。
「案内します」
ダリルはロザリアを改めて見た。
華美なドレスではなく、ダークブラウンのお仕着せのようなワンピースに無難なトラッドシューズ。
美貌こそ隠せないが、目立つ髪はまとめてネットに包んでいる。
最初から彼女は下層へ行くつもりだったのだ。
壁を越え、少し歩くと、もう異臭がしてくる。
城下町とは違い、上下水道が整っていない下層は、つねにこの匂いが漂っているのだ。
生きることを諦めた人々が、道路の隅にたまり、淀んだ目でロザリアを見つめている。
ゴミためから這い出てくる、黒い虫。
城下町では見たことがない虫だが、ここではあちこちにいるのが見えた。
ただ、窓にずらりと並んだ洗濯物や、行き交う人々の会釈など、それほど荒んだ印象は受けない。
ぎゅうぎゅうに建てられた家もぼこぼこの石畳も、ある意味、庶民的な街といえるかもしれない。
「・・・この、奥に」
下層では、かなり立派な建物だが、全体的に古くすすけている。
「下層ができる前から建ってたらしいですが、中もキレイですよ」
ダリルが歩いて行く後ろを、ロザリアも黙ってついて行った。
どうやらオスカーはこの邸の一室にいるらしい。
こつこつと足音が響く廊下はたしかに古びているが、ある程度の清潔感が保たれている。
ロザリアは思っていた下層のイメージが、実際は少し違うと感じていた。
たしかに衛生状態はよくないが、それは改善できるし、きちんと生活している人々も多い。
なにかきっかけがあれば、この惑星は大きく変わることができる。
それは補佐官としての目だった。
「ほぎゃー」
赤ん坊の声が聞え、ロザリアは足を止めた。
「お、おむつか?」
聞き慣れた、よく通るバリトン。
「うんちかも」
女性にしては少しハスキーだが、キビキビとした声。
無防備に開いたドアの向こうに、オスカーと一人の女がいた。
女はブラウンの髪と瞳をした、ごく普通の顔立ちで、洗いざらしたシンプルなエプロンを着けている。
体幹のしっかりした動きは、何か武術をやっているのかもしれない。
どちらかといえば、大柄で働き者の自立した女性という印象だ。
ロザリアとはまるで違う。
そして、明るい窓際のベビーベッドには、手足をばたつかせて泣く赤ん坊がいた。
天井からカラフルなメリーが吊されていて、ベッドの周りにはいくつものぬいぐるみ。
木馬やガラガラといったおもちゃも散らばっている。
よくある、小さな子供のいる家庭の風景だ。
赤ん坊の髪はオスカーと同じ鮮やかな緋色をしていて、彼の子供らしい激しい泣き声をあげている。
「よしよし」
オスカーが大きな手のひらで赤ん坊の頭を撫で、手際よくおむつを替え始めた。
ぬれタオルでお尻を拭き、
「・・・いいうんちだ」
満足そうに微笑みかけている。
優しく細められた氷青の瞳に、赤ん坊もご機嫌がもどっているようだ。
「あうー」
楽しげな声が聞えてくる。
おむつを替えて、抱き上げて。
オスカーは身体を揺らして、赤ん坊を寝かしつけている。
全身から溢れる子供への愛。
オスカーと女性は、同じものを愛する家族としての暖かな空気に包まれている。
見たことのないオスカーの父の顔に、ロザリアは足元から震えていた。
そして、今度こそ、はっきりと理解した。
もう、彼がロザリアのところに戻ることはないのだ、と。
「・・・ありがとう」
ロザリアはダリルに微笑んだ。
微笑んだつもりだったが、実は違ったかもしれない。
ロザリアを見るダリルの瞳が、なにか悲しいものを見るように、切なく揺れていたから。
また同じ帰り道を辿っていると、
「あの人、俺の姉なんです」
ぽつり、とダリルが話し始めた。
「すいません。俺が、オスカー様を家に連れてったりしなければ」
ダリルはずっと、オスカーが本当の意味で自分の兄になったことを、心の奥で喜んでいた。
オスカーのようにカッコ良くて強くて、信念のある男は、今まで知らない。
自分たちのリーダーとして立つのは自然なことのように思えたし、男としても人間としても尊敬している。
もちろん、オスカーが既婚者で、ロザリアという妻が居ることは知っていた。
彼女とはなんどか顔を合わせたり、食事をごちそうになったこともある。
けれど、その時のロザリアの印象は、『美しいお嬢様』で、どちらかといえば、城下町よりの人間。
聞かせてくれたバイオリンも淹れてくれたお茶も、上流階級の匂いがして、ダリルにとっては、好きになれない人種だった。
ロザリアよりも、自分たちの仲間として活動する姉の方が、オスカーにふさわしい。
漠然とそう思っていたのだ。
今日、ロザリアのあの顔を見るまでは。
「あなたが謝ることはありませんわ。彼女と会わせたのが、あなたであったとしても、わたくしたちにはいくつもの道があったんですもの。彼が選んだ道が、・・・そちらだったというだけですわ」
なぜ、ロザリアではいけなかったのか。
なぜ、彼女を選んだのか。
理解はできないけれど、彼がこの惑星で、未来を共に歩みたいと思う女性はロザリアではなかった、ということなのだろう。
「送っていただいてありがとう。明日、彼に会ったら、伝えていただきたい事があるんですけれど、よろしいかしら」
ダリルに拒否権はなかった。
ダリルも姉もオスカーも、今の幸せがロザリアの犠牲の上に立っていることを覚悟するべきなのだ。
「来週、この邸を出て行きますわ。わたくしができない、あとの整理を彼にお願いしたいんですの」
黙って出て行くだけでは、オスカーの後々に汚点を残すかもしれない。
この惑星で離婚は多くないけれど、自分達はしょせん、『よそ者』。
人の噂もあっという間に忘れ去られるに違いない。
ロザリアは一週間かけて、バイオリン教室の生徒達を他の先生方に紹介したり、ダンスのレッスンの後任を探したりと奔走した。
生徒達にはかなり引き留められたが、『実家の父の介護のため』と嘘をついてなんとか押し切った。
「どうしても帰らなければならなくて」
しおらしくロザリアが言うと、生徒やその母達も同情して、励ましてくれるほどだった。
オスカーはまだ近衛の仕事を続けているし、あまり大事にはしたくなかったからちょうどいい。
あくまで、ここを去るのはロザリアの事情。
実家に帰っていた妻とすれ違いが多くなって・・・という、自然な筋書きがあれば、彼の身辺にも影響は小さいはずだ。
迷惑をかけずに出て行くことが、ロザリアの最後のプライドだった。
もともと荷物はそれほど多くなかったし、オスカーに買ってもらったものは置いていくことにしたので、片付けもあっという間に済んだ。
真新しい帽子の箱も、デートの時に着ようと思って買っておいたワンピースも、新品のまま、クローゼットに残しておいた。
メイク道具とわずかな衣服、生家から持ってきたアクセサリー。
トランク一つ分ほどが、ロザリアの私物だった。
「3年もいましたのに」
ペアで揃えた食器を見ると、じわりと目頭が熱くなる。
ティーカップもワイングラスも、全て二人で選んだもの。
あの時は、こんな日が来るなんて思いもしなくて。
むしろ、この先、家族のために買い足していくことを信じて疑わなかった。
当日、テーブルの上に指輪をおいて、ロザリアは邸を出た。
主星の実家は代替わりしていて、今更、老親を失望させるような真似はできない。
となれば、行くあてはひとつ。
ロザリアは胸に下げたペンダントを握りしめ、各惑星に一つは設置されている王立研究院に足を向けた。