今日、建物の数で10個の差がついた。
主星の自宅から持ち込んだ豪奢なソファに深く腰を下し、ロザリアはため息をついた。
硬めのスプリングはしっかりと身体を支え、存分に羽毛を詰め込んだクッションは抱き心地がいい。
なじんだ感触は心を落ち着かせるけれど、いいようのない焦燥感は消えるはずもない。
試験開始当初は、圧倒的にロザリアがリードしていた。
肥沃な大地と順調な文明の発展。
ロザリアの望む通りの成長をとげるフェリシア。
このままいけば、必ずロザリアが女王になる。
飛空都市中の誰もが、そう思っていたはずだし、ロザリア自身も信じて疑ってはいなかった。
それがどうだろう。
あっという間に並ばれ、気が付けば逆転され、今日、とうとうエリューシオンの建物はフェリシアよりも10多くなった。
圧倒的な差。
残り3つで中央の島へたどり着いてしまう今、この差は広がることはあっても縮まることはないに違いない。
「もう、おしまいですわね」
女王試験開始から、いや、物心ついてからずっと、女王になることだけを夢見て、すべてを犠牲にしてきた。
お稽古事や勉強を優先して、深い付き合いの友人もつくらず、恋もせず。
女王になるのだから、普通の人間のような生活を求めてはいけない。
女王になるのだから、大変なのも当たり前。
当たり前だと思ってきた乗り越えてきた全てが、空っぽになってしまった。
ロザリアは部屋から抜け出すと、誰にも会わないように祈りつつ、夜道を駆けた。
満点の星が輝き、風さえも息を潜めるように凪いでいる静寂。
冴えざえとした月明かりがロザリアを照らし、薄い影だけが密やかに後を追いかけてくる。
祈りが通じたのか、飛空都市には人っ子一人おらず、ロザリアは難なく目的地までたどり着いた。
いかにもという洒落た外観の私邸は、日の曜日になんども訪れた場所。
もちろん、その時は昼間で彼に招待されて、のことだが。
震える指で呼び鈴を鳴らすと、奥からかすかな足音が聞こえてくる。
大きく息を吸い込んだロザリアは、屋敷の主が出てくるのを待った。
「どうしたの? こんな時間に」
ドアからひょっこり顔をのぞかせたオリヴィエは、怪訝そうに眉をひそめている。
すでにシャワーを浴びた後だったのか、メイクを落とし、ゆったりした部屋着を着ている彼は、豪華な執務服に身を包んでいるときに比べて男らしい。
ただ視線はいつのものように柔らかく、ロザリアの言葉を待っていてくれているようだ。
「あの…」
それきり、ロザリアがなにも言えずに立ちすくんでいると、オリヴィエは彼女の背中に手を添え、中に入るように促した。
オリヴィエが用意してくれたのは、暖かいココア。
両手でマグカップを抱え持って、ロザリアはふうふうと湯気を散らす。
ここまで来たというのに、なかなか言い出せない弱い自分が情けなかった。
「わたくし……」
なにか言いかけて顔を上げて、また黙り込んで。
そんなロザリアをせかすことなく、オリヴィエはゆったりとワイングラスを傾けている。
グラスの柄を持つ、細く長い指。
ワインが通るたびにこくりと動く喉。
なにもかもが見惚れるほどに綺麗で、目が離せない。
「あの、オリヴィエ様。…今夜、わたくしをおそばにおいてくださいませんか?」
どう言えばいいのか、結局、考えがまとまらず、ロザリアはまっすぐに伝えることにした。
「…それって…どういう意味?」
グラスをテーブルに置いたオリヴィエは、訝しげに目を細めてロザリアを見つめている。
綺麗なダークブルーの瞳に浮かんでいるのは、明らかな困惑。
ロザリアは、にっこりと笑みを作ると、まっすぐに彼を見つめ返した。
「そのままの意味ですわ。もうすぐ女王試験が終わること、オリヴィエ様もわかっていらっしゃいますでしょう? ですから、その前に、一度、思い出を作っておきたいんですの」
わざとなんでもない口ぶりで言えば、オリヴィエは呆れたように肩をすくめて見せた。
「思い出ってなにさ」
「試験に負ければ、わたくしは下界に戻ってカタルヘナの正当な血筋を繋げれいかなければいけませんわ。きっと顔も知らない相手と結婚させられることでしょう。それは仕方がないと受け入れていますの。でも、せっかくこんなところまで来て、素敵な守護聖様方とお知り合いになれたんですから、一度くらい、男女の交わりを楽しんでもいいのではないかと思ったんですわ。どうせ主星に戻るのですから、後腐れもなくて良いでしょう?」
ツンと顎を上げて、一気に語るロザリアに、オリヴィエは瞳を眇めて、鼻を鳴らした。
「男女の交わりって…あんた、意味わかってんの? オマケに守護聖だったら誰でもいいって聞こえるけど?」
「ええ。皆様、とても素敵で、下界ではお目にかかれない美形な方ばかりですもの。…と言っても、ジュリアス様やクラヴィス様は、ちょっとお願しづらいですし、ランディ様やゼフェル様、マルセル様では、あまり女性の扱いには慣れていらっしゃらないでしょう」
「上手くなさそうってこと?」
「正直に申し上げましたら。ルヴァ様もあまり女性に興味がなさそうですし、リュミエール様も清らかすぎて、こんなことをお願いするのは…」
「ふうん、それで私ってことか」
「オスカー様と迷ったのですけれど、オリヴィエ様のお宅にはなんどか遊びに来たことがありましたから」
理路整然と、一切の感情を入れずに、上手く説明できているだろうか。
女王試験が終わる前に、一度だけ遊びたい。
美形な守護聖なら誰でもいい。
ただの遊びだから、オリヴィエも気楽に付き合ってくれたらいい。
そんな雰囲気を作るために、ロザリアは頭の中でなんどもシミュレーションを繰り返した。
もしも、本当の想いを告げて、『抱いてほしい』と懇願すれば、オリヴィエは願いをかなえてくれるだろう。
彼は一見、自分勝手でマイペースなようだけれど、その実、とても心優しい人だから。
泣いて縋るロザリアを見捨てることはしないはずだ。
けれど、同情や憐みで一夜を過ごしても、ロザリアにとっては惨めな思い出になるだけ。
オリヴィエと対等な立場で一夜を過ごしたい。
たとえ、それが遊びであったとしても、お互いに楽しんだのだと思いたい。
「…私が断ったら?」
「その時はオスカー様にでもお願いしてみますわ」
何気ない風を装って、微笑んで見せると、オリヴィエは髪を無造作にかき上げて、グラスを一気に開けた。
ふう、と長い溜息の後、
「私を選んでくれてありがとう、って言うべきなのかな?」
くすっと上目づかいでロザリアを見つめる瞳のツヤっぽさに、どきりと胸が騒いだ。
オリヴィエがこんな表情を見せたのは初めてではないだろうか。
ダークブルーの瞳の肉食獣のような輝き。
オリヴィエの中のオトコの部分をはっきりと意識させられた。
ぺろりと舌で上唇を舐め、ロザリアの隣に腰を下したオリヴィエは、さっきまでグラスの柄を持っていた細い指でロザリアの顎を軽く持ち上げた。
ネイルストーンの輝きがきらりと目を射る。
「…目、閉じないの?」
笑うオリヴィエに、ロザリアも微笑み返した。
目を閉じてしまうなんて、もったいなくてできない。
彼のこの瞳を一生、忘れずにいたいから。
そう思ったのに、オリヴィエの口づけは甘すぎて、いつの間にか、ロザリアは目を閉じて全てを受け入れてしまっていた。
気が付けば、夜明けが近い。
まだ夜の気配が濃厚な今なら、また誰にも会わずに候補寮へ戻ることができるだろう。
眠っているオリヴィエの腕からするりと抜け出して、ロザリアは屋敷を出た。
目覚め切っていない朝方の空気はひんやりと凍っていて、ロザリアの身体はぶるりと震える。
泣きたくなるのをぐっと堪え、ロザリアは冷えた自分のベッドにもぐりこんだ。
さっきまでの暖かな腕がもう恋しくてたまらない。
オリヴィエの優しい声。
ロザリアの身体をなぞった唇。
秘密を暴く指。
そして、痛みと、まだそこに残っているかのような硬い彼自身の感触。
この思い出があれば、きっとこの先、どんな辛いことがあっても生きていける。
ロザリアは、声を潜めて、静かに涙をこぼしていた。