翌日、ロザリアは森の湖に来ていた。
晴天の湖は透んだ水面がまぶしく輝き、緑の葉がさらさらと自然の音楽を奏でている。
いつ来ても、美しい景色。
人気のスポットのはずなのに、今日はロザリア以外誰もいない。
きっと、これは神様がロザリアの背中を押しているのだ。
ロザリアは滝に向かい合い、そっと胸の上で指を組んで祈りを捧げた。
来てほしい人の姿を頭に思い浮かべて。
祈り始めて、どれくらい時が経ったのか。
カサカサと草の靡く音がして、聞き覚えのある足音が響いてくる。
「あ…やっぱり、あんただったんだね」
目を開き、振り向くと、そこには祈りをささげた人がいる。
「…呼ばれた気がしたんだ」
高いヒールが土を踏み、オリヴィエが近づいてくる。
ロザリアの長い巻き髪を、穏やかな風が攫って行った。
来てほしいと願ったのに、いざ、オリヴィエを前にすると、なかなか言葉が出ない。
ロザリアはぐっと拳を握りしめ、大きく息を吐き出した。
「チョコレート、ありがとうございました」
確信はなかったけれど、オリヴィエしかいないと思った。
するとオリヴィエはくすっと笑みを浮かべ、
「ん、あんたが好きだったのを思い出してさ。最近、女王試験で忙しいし、甘いものって疲れが取れるじゃない」
やっぱりそうだった。
そういえば、いつもオリヴィエはこうしてさりげなく、ロザリアを気遣ってくれた。
女王試験のころも、ロザリアが育成に煮詰まっていると、外へ連れ出してくれたり、新しいリボンやネイルで気分転換させてくれた。
そんな優しさが嬉しくて、いつのまにか惹かれてしまって。
「あのチョコレート、生家でも食べていましたの」
「あ、そういえば、あんたのお母さんもそう言ってたよ。薔薇のチョコが一番のお気に入りで、いっつも最後まで残してたって」
「母、が?」
たしかに、子供のころから薔薇のチョコレートを最後に食べていたけれど、なぜ、オリヴィエが母から、その話を聴いているのか。
会ったことなど、ないはずなのに。
「あ」
思わず声が出たのは、一つだけ、思い当ることがあったからだ。
『聖地からの使者』
「もしかして、両親を説得に来た聖地の使者という方は、あなただったんですの?」
咎める口調になってしまったロザリアにオリヴィエは肩をすくめてみせる。
「あ~、バレちゃった? あんたをどうしてもあのまま家に帰したくなかったからさ。説得ってほどじゃないよ。あんたのお父さんもたぶん最初っからそのつもりだったと思うから。補佐官になるのがロザリアの幸せだって、言ってくれたしね」
けれど、不器用な父のこと。
もしも、オリヴィエが使者として補佐官を勧めてくれなかったら、流れのまま、誰かと結婚させていたかもしれない。
心の内がどうあったとしても、貴族としての矜持だけで。
それを変えてくれたのは、やっぱりオリヴィエだ。
ロザリアにとって、かけがえのない人生の岐路を救ってくれた。
「あのね、あんたはすごーく大げさに捉えてるかもしれないけど、私があんたが補佐官になるようにしたのって、全部自分のためだからね」
オリヴィエはまるで悪戯が見つかった子供のように、目を細めている。
「私が、あんたともっと一緒にいたかったから。私が、あんたとのことを一度きりになんてしたくなかったから。ぜーんぶ、自分のため。だから、あんたはなにも気にする必要はないんだよ。…泣いたりしなくていいの」
オリヴィエの指がそっとロザリアの目尻に触れる。
バイオレットのネイルに雫がこぼれて、ロザリアは自分が泣いていることに気が付いた。
「わ、わたくしは…」
なにから話せばいいのか、わからなくて、ただ唇を噛む。
気持ちばかり焦って、やっぱり上手く言葉が出てこないロザリアを、オリヴィエは優しい瞳で見つめていた。
「なにもわかっていませんでしたわ。あなたの優しさも…」
「あー、それもね、違うから。私は全然優しくなんてないよ。むしろ、あんたがチャーリーと仲良くしてるの見て、あいつを聖地に来られないように、どうにかしてやろうか、とか思ってたし」
物騒なことを朗らかに言うオリヴィエに、ぎょっとすると
「私が優しいとしたら、それは下心が一杯だからだよ。あんたに好かれたいって、ヨコシマな気持ち」
「好かれたい?」
「そ。好きな女の子に好かれたいから、ってだけ。だから私の優しさは、あんた限定なの。あとね、私、好きじゃない女の子とは絶対、なにもしないから。どんなに頼まれたって、気持ちがない子とはしないからね」
なにげなく、告げられた言葉を理解するまでに、数秒かかった。
反芻していると、だんだん、ロザリアの顔が熱くなってくる。
「あ、あの…」
「ん?」
オリヴィエの顔が間近にあって、ロザリアの心臓が踊り始める。
長い睫毛の奥のダークブルーの瞳は、吸い込まれそうに綺麗で。
パールの乗った肌は、湖の輝きを受けて、キラキラと光をはじいていて。
見惚れる、とは、まさに、この状態。
「女王候補だから言えなかった。補佐官になってくれて、ありがとう。聖地に来てくれて、ありがとう…あのね、ずっと前から、私はあんたが好きなんだよ。遅くなってごめん」
両手を広げて待つオリヴィエに、ロザリアはたまらずに飛び込んでいた。
細身に見えて、しっかりした男性の胸が、ロザリアを優しく受け取めてくれる。
あの夜の暖かさは嘘ではなかった。
思い出なんかじゃ、なかった。
背中に回された確かな腕に、ロザリアはようやく、本当の居場所を見つけたような気がしていた。
土の曜日が来て、ロザリアは執務終わりに庭園を訪れていた。
この一週間、あまり執務に身が入っていなかったこともあって、今日はずいぶん遅くなってしまっている。
閉店ギリギリにお店に着くと、テーブルの上に空のカップが置いてある。
「いらっしゃ~い」
にこにこ顔のチャーリーが両手をぶんぶんと振って、ロザリアを出迎えてくれた。
「ちょうど片付け始めたとこですねん。お茶、用意しましょか?」
「いいえ、結構ですわ。もう遅いですもの」
「う~、残念やけど~~。そやな。風も冷たなってきてますしな」
聖地は常春だが、やはり夕暮れの風は冷たい。
補佐官のドレスは胸元が開いているせいか、ちょっとだけ肌寒さを感じてしまう。
「品物を見せていただきますわね」
「どうぞ、どうぞ!」
店先の品物をひやかすロザリアを、チャーリーはちらちらと横目で見ていた。
綺麗な横顔と優雅な所作。
聖地という特別な場所のせいもあるのか、まるで天女のように見える。
それに、今日のロザリアはなんだかいつもよりも、キラキラと輝いているような気がするのだ。
ロザリアが並んだ中から、一つを手に取った。
チャーリーがロザリアのために選んだ、薔薇のマスキングテープ。
薔薇好きのロザリアが好きそうだと思って並べておいたのだ。
他にも、付箋やタオルハンカチも薔薇柄を揃えている。
嬉しくなって、チャーリーが声をかけようとすると、
「あら~、それ、いいじゃない?」
明るい声がさえぎってきた。
「薔薇のマステ、私も買っちゃおうかな。あんたはブルー? そんなら私はこっちのピンクだね」
2つを手に取って、ロザリアにウインクを一つ。
チャーリーは内心、ちっと舌打ちをしていた。
以前、オリヴィエが来て、めちゃくちゃ気まずい空気になったことは忘れられない。
けれど、チャーリーの思いとは裏腹に、ロザリアは嬉しそうに
「おそろいになりますわね」
オリヴィエに微笑みかけている。
喜びで輝く青い瞳、ほんのりと薄紅に染まる頬。
チャーリーが今までに見たことのないような、華やかで美しい、ロザリアの笑顔。
美しい印象が強かったのに、全身から恋する気持ちが溢れているロザリアは、可愛らしいくらいだ。
そんなロザリアを見るオリヴィエの瞳も、愛おしさに満ちていて。
それで、チャーリーは全て納得してしまった。
「じゃ、コレ、二つね」
チャーリーは、オリヴィエが差し出した2つのマステを袋に入れ、ロザリアに手渡した。
「可愛い品物をありがとう」
嬉しそうなロザリアに、
「毎度おおきに!」
めいっぱいの明るい返事を返した。
『商人さん』仕様の笑顔はチャーリーの得意技だ。
会計をオリヴィエが支払うと、二人は並んで歩いていく。
夕方の長い影の伸びる、美男美女の後ろ姿。
ただ歩いているだけなのに、暖かなオーラがチャーリーのところまで流れてきて、二人が幸せなのがわかってしまう。
「はあ…」
チャーリーはため息を一つついて、ロザリアのためのカップを片付けた。
もう、彼女はここで寂しい目をしなくてもいいのだ。
儚い笑顔もとても美しかったけれど、幸せに輝く彼女の笑顔は、もっともっと美しかったのだから。
「…幸せに、なってよかったんや」
チャーリーはチョコレートの箱を、そっとリヤカーに積み上げたのだった。