戴冠式から2か月余り。
アンジェリークは女王として、立派に務めを果たしているし、それには補佐官のロザリアの力が大きいことも、聖地の人間なら誰でも知っている。
補佐官になってよかった。
聖殿の中庭のベンチに腰を下ろしたロザリアは、ほっと小さく息を吐き出した。
話に聞いていた通り、聖地はとても美しい場所だ。
特に前緑の守護聖が整備した中庭の小さなガーデンは、野の花と薔薇の調和が素晴らしく、人工的なのに自然の香りを感じるところが気に入って、毎日のように訪れている。
ここでする深呼吸は、ロザリアの中の黒い気持ちを、吐き出させてくれるのだ。
聖地とはいえ、人間の集まる場所に悪意がないはずがない。
女王候補時代のロザリアを知る人々からの冷たい視線を、全てスルー出来るほど、まだ強くはなれなかった。
ベンチに座るロザリアのベールを柔らかな風が通り抜ける。
心地よい風は、宇宙の平和の証。
ちょっとした休憩のつもりでぼんやりしていると、カツカツと聞き覚えのある足音が聞こえてきた。
どうしよう。
ロザリアはあたりをきょろきょろと見まわして、隠れる場所を探したが、この中庭にそんな都合のいい場所があるはずもない。
走れば、あの東屋の影に間に合うかもしれないが…万が一、隠れるところを見られた場合の方が恥ずかしい。
すうっと大きく息を吸い込んだロザリアは、結局、その場から動かずにいた。
彼がここまで来るとは限らないし、今日まで何事もなく過ごせてきたのだ。
たとえ、出会っても、ごく当たり前の補佐官の笑みで、「ごきげんよう」と言えばいい。
ドキドキ鳴る心臓とカツカツと響くヒールの音が重なり合って、ロザリアはぎゅっとスカートを握りしめた。
「おや、ロザリアじゃないか。こんなところで休憩?」
ロザリアの姿を認めたオリヴィエは、ごく普通の微笑みを浮かべて、ひらひらと手を振っている。
きらびやかでキラキラした姿は、女王試験の時と変わらないけれど、新しい執務服はよりカラフルで天女のようだ。
男性に天女はおかしいかもしれないけれど、彼の美貌は人間離れしていると思うほどだから、間違いでもないだろう。
「ええ。ちょっと新鮮な空気が吸いたくなりましたの」
「ふうん、ま、ここはすごく綺麗だからね。私も時々、ここに花を眺めに来るんだよ」
オリヴィエはまっすぐにロザリアの隣に座ると、大きく伸びをした。
失礼にならない程度の距離をきちんとあけるのも、オリヴィエの心遣いだろう。
補佐官と守護聖としての、適切な距離。
「あっちに薔薇園もあるんだよ。知ってる?」
「薔薇園の薔薇は本当に見事ですわね。手入れがよく行き届いていますし」
「ホント、あっちは箱入りの令嬢ってカンジで、それもいいけどね。私はこっちも結構気に入ってるんだ」
「…そうですの」
オリヴィエがそんなあてこすりをいうような人ではないとわかっているのに、ロザリアは頬が熱くなるのを感じた。
箱入りの令嬢のような薔薇よりも、野の花の方が。
ロザリアよりも……。
自分の考えが卑屈になっているだけなのに、どうしてもいたたまれなくなった。
「失礼しますわ」
さっと席を立って、そのまま走り去ろうとしたのに、ふいに伸びてきたオリヴィエの手に掴まれて、逃げられなくなってしまう。
「泣いてるの? なんで?」
「泣いてなんていませんわ」
「嘘」
オリヴィエの指がロザリアの目じりに触れて、そこにあった雫を掬い取った。
「…目にゴミが入っただけですわ」
言い訳にしか聞こえなくても、泣いていると認めたくない。
ロザリアはぎゅっと涙を堪えると、オリヴィエの手から逃れようと身をよじった。
「…ごめん。そんな嫌だったんだ」
ふとオリヴィエの手から力が抜け、逆にロザリアは申し訳なくて、その場から動けなくなる。
オリヴィエにしてみれば、優しさから、ロザリアを心配してくれただけだろう。
女王候補時代から、オリヴィエはロザリアのちょっとした異変にも気がついてくれて、さりげない励ましの手を差し伸べてくれる人だったのだから。
そもそもロザリアがオリヴィエに対して気まずい気持ちを抱えているのは、もちろんあの夜の出来事のせいだ。
だから、補佐官になってからずっと、オリヴィエを避けるように過ごしてきた。
オリヴィエの方からも特別近づいてこなかったから、二人きりになることもなかった。
補佐官になったことを喜んでくれるかもしれない、と期待したりもしたが、なんの言葉もなく、日々だけが過ぎてしまった。
期待した分だけがっかりして、ますます近づきにくくなって。
もしも補佐官になるとわかっていたら、あんなことをしなかったのに。
姿を見かけたり、時々話をしたりするだけで幸せだったのに。
それすらも出来なくなってしまった。
今、こうして向かい合っていても、オリヴィエからはなんの不自然さも気まずさも感じない。
オリヴィエにとっては、一夜の情事など良くあることで、ロザリアとのあの夜も、たくさんの夜の中の一つにすぎないのだ。
彼ほどの人に女性が惹かれないはずはないのだから。
そう考えて、愕然とした。
今の今まで、ロザリアは補佐官になったことで、オリヴィエのそばに一緒にいられると思っていた。
ただただ、それは嬉しいことで。
けれど、近くにいることで、この先、彼が恋人を作ったりするところを間近で見なければならないのかもしれない。
好きになってもらえないなら。
それならもう、いっそ、嫌われてしまいたい。
「…わたくしにかまわないでくださいませ」
「泣いてるコをほっとけって言うの?私はそんな冷たいオトコじゃないよ。それに私は…」
「女王試験の時のことは全部忘れてほしいのです」
オリヴィエの言葉を抑え込むように、ぴしゃりと言い放つ。
「負けてしまった女王試験のことなんて思い出したくもありませんわ。あのころとはもう変わりたいんですの。一からやり直して、ロザリア・デ・カタルヘナではない、補佐官のロザリアとして生きていくと決めたんですもの」
その気持ちは嘘ではない。
女王候補までのロザリアは、生家に置いてきたつもりで、今、ここにいるのだから。
「…あの、夜のことも? 忘れるの?」
「あの時は、わたくしも試験の負けが目に見えて動揺してしまっていたんですわ。だから、なにかここで思い出を作らなければと焦って。読んだばかりの恋愛小説の影響で、あんなことを…。守護聖だったら誰でもいいなんてどうかしていたんですわ」
自分の言葉に、ズキズキと痛む胸。
オリヴィエは顔色ひとつ変えずにロザリアの言葉を聞いている。
「後悔してるの?」
「ええ、後悔していますわ! なぜ、あなたとあんなことをしてしまったのかと!!」
後悔しているのは本当だけれど、理由は違う。
嘘をついて願いをかなえようとしたから、本当の事が言えなくなった。
いまさら、好きだなんて、言えない。
オリヴィエの口から長い長いため息が零れ落ちる。
「わかった。もう二度、あのことは言わない。お互いに夢でも見たと思って忘れよう」
カツカツと冷めたヒールの音が遠ざかっていく。
ロザリアは息をするのも苦しくて、ぎゅっと胸の飾りを握りしめていた。