それは毎朝の変わらない光景。
彼女は長い巻き毛を片側に寄せてゆるく束ね、歩きながら解いたエプロンを片手に、ベッドを出てから朝食ができるまでの一時をリヴィングのソファで微睡んで過ごす俺を起こしに来る。
完全には眠っていないくせになかなかダイニングに向かわない俺を、最終手段のキスで目覚めさせようとしてくれるのを・・・ついつい待ってしまうんだ。
「ん・・・?」
けれどもその日はそこからが違った。
まだ彼女の唇までたどりつかないうちに、キッチンから漂ってくるその香りのせいで体が記憶に呼び覚まされてしまった。
扉が開くと、カカオの濃厚な香りは存在感を増す。
ひざのあたりに重みがかかり、次に彼女の吐息が耳元にかかるのを感じて俺は手を伸ばす。
「ロザリア・・・俺の奥さんは・・・今日もとても素敵だ。」
「・・・あら、寝言は寝ながら言うものですわよ?もうお目覚めでしたのね。」
まだメイクの施されていない俺を見つめる彼女の顔・・・それは出会ったときさながらの愛らしさが残っている。
目鼻立ちのはっきりしている彼女は、ほんの少し乗せるだけのメイクだけでもひどく大人びてしまうのだ。
それを嬉しく思う時もあれば、なぜかとても残念に感じることもあった。
「ああ、何だか甘い香がしたからな。」
「・・・やっぱりがっかりなさった?今朝はホットチョコレートなの・・・。」
彼女はそれまで俺の背中の後ろに絡めていた指を解くと胸の前で組み合わせ、そして何か言いづらそうに視線を彷徨わせた。
「・・・ごめんなさい。うっかりして豆を切らしてしまって。」
俯き加減で申し訳無げに言う。自然にカーブした長いまつげが伏し目がちな瞼を飾った。
まったく・・・我ながら呆れたものだな。
君と結婚してもうひと月近くになるというのに、俺は毎日君の新しい表情を発見して少年のように心をときめかせている。
「・・・いや・・・そんなことは構わないさ。何かと忙しい君に任せきりにしていた俺が悪かったんだから。ただ・・・。」
「ただ・・・?」
俺はロザリアの腕を引いた。虚を突かれた彼女は警戒するようにビクリと肩を竦める。
「君の作ってくれた朝食を疎かにするつもりじゃないんだが・・・。」
すると彼女は「仕方ないわね・・・」と言いたげな微笑を向け、胸に体を預けてきた。
「ええ・・・でもまだお腹が空かないっておっしゃりたいの?」
「・・・そういう意味でもない・・・ただ・・・。」
俺はそっと彼女の腰に手を回す。
目に映るのは口紅をひく前の桜の花弁を思わせるような唇と、頬紅を差す前の陶器のような真っ白な頬。そして・・・俺の一番好きな・・・。
「・・・ただ・・・?」
ああロザリア・・・君の瞳のように・・・心を安らがせる温かなブルーもあるんだな・・・。
「・・・あ・・・きゃっ・・・。」
―俺はその時、掬われるようにソファに押し付けられた彼女の表情が途惑いのために変わってゆくのを楽しんでいたのか、それとも言いかけてしまった言葉をつづけるのを躊躇っていたのか、どちらとも応えようがない。
ただじっとその彼女の澄み切った青い瞳に魅入られたまま、しばらくその先に進むことができなかった。
まるで胸の奥深くにしまい込んでいた遠い遠い過去の記憶が、ふとした心の綻びから勝手に漏れ出てしまうのを恐れるかのように。
「ロザリア・・・君に・・・話しておきたいことがあるんだ。」
☆☆☆
そもそも、俺はまたヤツと一緒の視察でいい加減うんざりしていた。
調査に訪れることになったのは予想していた通りの辺境の殺伐とした惑星。
紛争、貧困、飢餓、窃盗、殺人、ハイテク犯罪・・・さまざまな悪行の発生源、そして違法ドラッグから人間まであらゆる密輸品取引のネットワークの拠点。
無事に手足が残った状態で聖地に帰れるかどうかも怪しいもんだった。
今度こそはオリヴィエと当たるんじゃないかと踏んでいたのだが・・・どうやら俺の不遜な腹積もりはジュリアス様にはとっくにお見通しだったらしい。
お目付け役のような立場で同行させられたリュミエールは、目的地に到着した直後から何かというと俺とは真逆の行動を取りたがり、俺までをスケジュールに雁字搦めにしようとした。
「・・・ですから何度も申し上げているように、安易に市中を歩き回るのは止めて頂きたいのです。
あなたの身勝手な行動のおかげで調査にどれくらい余計な時間をとられているか、分かっておいでなのですか?」
・・・冗談じゃない。
いくら仕事とはいえ既に滞在期間はこっちの時間でほぼ三月に相当していた。
まだ守護聖としての経験の浅い俺たちにとって、サクリアなんていう非科学的な力をコントロールすること自体恐ろしく気力と体力を消耗するのだ。
しかもこう度々、聖地から遠い劣悪な惑星の調査の任務にばかり就かさせられては・・・少しくらいの気晴らしなら必要経費というヤツだ。
「・・・オスカー、あなたはすっかりここの悪習に感化されてしまったようですね。」
ヤツは大げさにため息をつくと、ホテルに備え付けられていたデスクで研究院への中間報告をまとめながら、ジャケットを羽織り出かけようとする俺を非難がましく見上げた。
「ああ、悪いか?ま、これも視察の内だ・・・なぁリュミエール・・・たまにはお前も付き合えよ。溜めすぎは体に悪いぜ。」
リュミエールは首に絡みついた俺の手を力任せに撥ね退けた。
「わたくしは御免蒙ります・・・とにかく、あなたはただでさえ目立ってしかたがないのですから少しは自重してください。
もとよりわたくしたちは、カジノや娼館で豪遊するためにこの星に来たのではないんですよ!」
くっそ、これだからコイツと相部屋は嫌だったんだ・・・まるで独房の看守じゃないか。
「お前も少しは外に出て新鮮な空気に触れたらどうだ・・・その湿っぽい体にカビが生えないうちにな。」
「・・・あなたこそ聖地に怪しげな病気を持ち込まないでくださいね。」
・・・チッ・・・取り澄ましやがって、・・・そんな風だから不能だなんだと謗られるんだ。
「まあいいさ・・・抜きたくなったらいつでも言え。俺に任せればお前好みの純情そうな子を調達してきてやる・・・じゃあな。」
ふと背中に殺気を感じて慌てて廊下に出た直後、閉めた薄い扉の内側で何か固いものがぶつかったような音が響いた。
☆
その店は街の中心部からは大分外れた、その地域でも最下層の人々が暮らすスラムの路地裏にあった。
入ってくる客といえば、ほとんどがテーブルにはつかず馴染らしい娘たちと次々に二階・三階へと上がってゆく。
酒場のくせに酒での売り上げより娼館としての儲けの方が大きいようだった。
外観からは判断しにくいためかもともと無法地帯だからなのか、取り締まりもされていないらしい。
よく見ると娘たちの中にはまだ十二・三と思われるくらいの子どももいた。
実際・・・俺たちが初めてここに訪れたときも、もちろん飲むのが目的だったわけじゃなかった。
酒なら滞在先のホテルにもっと上等なのがいくらでもあったのだから。
ああ、だからといって遊ぶ為にここへ入ったのでないことも、誤解の無いように付け加えておくべきなのだろうな。
そのころ悪性の伝染病が蔓延していた貧民街の視察からの帰り道、俺たちは偶然その店から聴こえてきたピアノの透き通るような音色に驚かされ、互いに顔を見合わせて足を止めたのだった。
リュミエールは・・・普段のヤツなら絶対に入り込まないだろうその店の入り口を押し開け、音源を探し当てるとしばらく呆然と立ち尽くしていた。
ピアノの前の丸い椅子に腰かけていたのは、年の頃でいえば30を少し過ぎたくらいだろうか。
このあたりではあまり見かけない青みがかった長い黒髪と同じような漆黒の瞳をした女だった。
まるでその一角だけスポットライトが当てられたように、周囲の猥雑な雰囲気とは切り離された空間が広がっていた。
ピアニスト・・・と呼べば体裁はいいだろうが、実際はロクに譜面も読めない酔っぱらいの集うこんな場所では、彼女の腕が正当に評価されていたとは思えない・・・。
ところどころ破け、隅にうっすらと埃の積もった革張りのソファに浅く腰をおろし、リュミエールは美しい眉を顰めてそう言った。
「・・・きっと元は一廉の家庭でお育ちだったのでしょうね。どういった事情でこのような場所に・・・。」
「さあな、理由なんていくらでもあるだろう?没落した貴族の娘とか・・・破産した商家の生まれとか・・・。」
ヤツはそれっきり黙って傷ついた鳥が羽を休めるように、物静かな旋律に耳を傾けていた。
けれども俺は彼女の奏でるメロディよりも、彼女本人に興味をそそられた。
饐えた酒と煙草、化粧品と香水の交じり合ったような娼婦たちの独特の匂い。
こんな掃き溜めのような場所だから、年を重ねていてもどこか可憐さを失わない彼女の様子に、何となく心を惹かれたのかもしれない。
☆
「失礼ですが・・・お客さま方はこちらは初めてでいらっしゃいますか?・・・もしやどなたかのご紹介で・・・。」
ふと気が付くと、目の前に40半ばくらいの小男が立っていた。言葉遣いは丁寧だが、貧相なツラとギラつく目が不快な印象を与えた。
「一見の客はお断りというわけか・・・別に俺たちはただ彼女のピアノを聴きに入っただけさ。気に入らないならいつでも出て行ってやる。」
俺は数枚の紙幣を塗りの剥げたテーブルに置いて、リュミエールの腕を掴んだ。
立ち上がるときに視線を感じてピアノの方を振り向くと、こちらの様子を気にかけていたらしい彼女とほんの一瞬目が合った。
「いくぞ、リュミエール。」
「え?ええ、オスカー・・・。」
まだ熱心に聴いていたリュミエールは、虚ろな瞳をして言われるがままにのろのろと立ち上がった。
もしそのまま店を後にしていたら、彼女とはそれっきりになっていたのかもしれない。
ところが、その支配人らしい男は金払いのいい客と見込んだのか、突然手のひらを返したように俺たちを押し留め始めたのだ。
「・・・大変失礼いたしました。よく見ればどことなくご身分の高さを感じさせる出で立ちで・・・ぜひ遊んで行ってやってください。
今なら一番人気の娘も空いていますよ。ささ・・・どうぞこちらへ・・・。」
男に背を押されるようにしてカウンターの脇の扉を過ぎると、左手に十数人の娘たちがひしめく覗き穴つきの大部屋があり、右手に二階へ続くと思われる入り口があった。
階段が異常なまでに狭小なつくりであるところを見ると、客同士がすれ違わないように入口と出口を別にするという店側のある種の配慮なのだろう。
誰が一番人気なのかも分からないまま、俺たちは適当な娘を宛がわれてそれぞれ階上の個室に追いやれた。
そしてやっとそのやり取りの意味に気づいたリュミエールは、途中で激しく抵抗して出て行こうとした。
ところが俺がさっさと部屋に入ってしまったのを見届けると、さすがに一人きりでは帰れないことを覚ったのか三階の個室へと引っ張られて行ったようだった。
―ピアノの音はいつの間にか喧騒にかき消されていた。
☆
翌朝、ヤツは恐ろしく不機嫌そうなサクリアをじわじわと体から発しながら、店の前の石段に顔を半分手で覆うようにして腰かけていた。
「おやおや・・・まだ寝たりないのか?」
心なしか顔がいつも以上に青ざめて見える。
「あなたは・・・ここが娼館だと分かっていたのですか?」
押し殺した声が不気味に響いた。
「まあな。・・・酒場に女とくれば他に何があるって言うんだ。・・・こんな星じゃお前の好きそうな高尚な娯楽など望めないだろうが。
それにお前ももう十九なんだから少しは大人の世界を知っておくべきだろうと思って・・・。」
次の瞬間俺は出かかっていた笑顔が引っ込んでしまった。リュミエールが凄みを感じさせるような眼差しで俺を凝視していたからだ。
怒りに震えているヤツからコトの顛末を聞き出すのは容易じゃなかったが、辛うじて捉えられた数少ない返答から察するに、どうやらリュミエールは相手の娘にうかつにもその生業を侮蔑するような言葉を発してしまったらしい。
そのため怒った彼女に部屋を追い出され、気の毒にも廊下に座り込むようにして一夜を過ごしたのだと言う。
「わたくしは・・・年齢に限らず・・・あのような女性の振る舞いには感心いたしかねます。」
そう言ってリュミエールは苦しげに胸を押さえた。
「・・・まったく・・・お前は筋金入りの堅物だな・・・。」
俺はそんなリュミエールに憐れみと眩暈を覚えていた。
「あなたが無節操なだけです!女王陛下のお導きで彼女たちが救われるよう・・・わたくしには祈る事しかできません。」
瞳にうっすらと涙を浮かべて、ヤツは空を仰いだ。
「・・・・・・・・・お前な・・・。」
この一件以来、リュミエールはますます俺と衝突するようになり、調査以外では一切外に出ることなく部屋にひきこもるようになってしまったのだった。
☆
俺はそれからもしばらくの間足しげくその店に通い、およそ一ヶ月経つ頃には上客扱いされるようになってきていた。
そして店に立ち寄るたび気にかかっていたあのピアニストの女についてもある程度知れるまでになった。
詳しい経緯は不明だが、やはり彼女は元は羽振りのいい家の娘だったらしい。
「・・・申し訳ないのですがオスカー様。彼女は金で買われてこちらで働いているのではないんです。オーナーの旧知の娘だそうで・・・。
ですからもし口説きたければ店の外でお願いします。
・・・もっともウチの店には、若くて床あしらいのうまい娘たちがまだまだたくさんおりますからその必要もないでしょうがね・・・。」
なんとなく下心に釘をさされたようで腹が立ったが、その男に言われるまでもなく、実は彼女が仕事を終える頃を見計らって幾度となく声をかけていた。
だが、なぜかいつも素気なくかわされてしまってまだモノにできていなかったのだ。
彼女よりももっと身分の高い婦人たちでさえ簡単に靡かせてきたこの俺が・・・。
今になって考えるとまるで欲しい玩具を前に駄々をこねている子どものようで情けないが、まだ二十歳そこそこだったからだろうか、手に入らないと思うと逆に欲情を掻きたてられてしまうのだった。
☆
「今日こそ・・・必ず堕としてみせるさ。」
俺はそんなことを呟きながら日の昇り始める中、彼女が出てくるのを表で待っていた。
半ば意地になっていたといってもいい。
「お客さん・・・まだいらしたのね。」
実はその時、初めて彼女の声らしい声を聞いたので、最初誰なのか気づかなかった。
しかも髪の色と形、瞳の色までがまるで違っていたのだ。
「驚いた?・・・髪はウイッグで目はカラーコンタクトなのよ。あの方がどうしてかお客の受けがいいみたいなの・・・。明日は休みだから店に置いてきちゃった。」
そう言う彼女の地毛はブロンドで、瞳は鮮やかなブルーだった。
薄暗い店内と長い鬘の髪でよくわからなかったが、どちらかといえば子どもっぽい明るい顔立ちだったのだ。
「・・・ああ・・・驚いたよ。」
何だか声が拗ねたように響いて悔しかった。しかし彼女は微笑んで、もっと驚くようなことを言い出した。
「オスカーさん・・・っておっしゃったかしら。もしよかったら・・・今からわたしの家に来る?」
「・・・何だって?」
俺はそのあっけらかんとした物言いに正直度肝を抜かれた。
意外に好き者だったのだろうか・・・こんなに素人然としているのに。
それともまさか新手の美人局か・・・いや、ありえないことじゃないな・・・。
俺が返答に詰まっていると、彼女は焦れたように話し出した。
「あんなに熱心に誘っておいて、いざとなったら腰が引けちゃったのかしら・・・お坊っちゃん?・・・それともあなたも黒髪の方が好きだった?」
・・・おかしい・・・この俺がイニシアチブを完全に奪われるなんて。ありえない、この炎の守護聖が手玉に取られるなどあってはならないんだ。
「・・・そんなことはないさ。エスコートはされるよりするほうが好きだがな・・・。」
「・・・じゃあ、決まりね。」
彼女は俺の手を取って歩き出した。
迷路のように入り組んだ路地から路地をうねるように進む。
明るい時間帯だからこそ丸腰でも歩けるような場所だった。これが夜中で、しかも女一人なら道に迷う程度では済まないだろう。
もちろん護身用の簡易な武器くらいは常に所持していたが、集団で襲われたら一たまりもない。
俺は今頃になって自分の愚かしさを突きつけられたような気がした。
くどくどと俺に説教をたれていたリュミエールの顔が目に浮かんだ。
そんなことを考えている間にも、彼女はグイグイと引っ張るようにして俺をその何処へ繋がるとも知れない道へ引き込んでいった。
「もう少しよ・・・あの角を曲がった所に家があるわ。」
俺は彼女の指差す方を見て絶句した。
それは今にも崩れそうな石造りのビルの一階部分だった。
周りの建物もお世辞にも立派とは言えなかったが、彼女の「家」とよばれた場所は輪をかけて酷い有様だった。
立て付けが悪いらしく隙間風が通り抜ける二間続きの部屋で、手前の部屋にちゃんと水道が使えるのかどうかも怪しいキッチンと、簡素なテーブルに椅子が二脚、奥はさらにガランとして鉄製のパイプのベッドが一台あるきりだった。
一部ガラスの抜けてしまった窓にはカーテンすらかかっていない。
「次から次へと驚くことばかりみたいね・・・。」
彼女は唇に薄い微笑を浮かべた。
それは今思い出しても胸が悪くなるような数時間だった。
彼女は荷物をテーブルに置くと、すぐさま驚く俺の首に手を回し唇を重ねてきた。
最初から互いの舌を絡め取るような、噛み付くような激しい口付けが繰り返される。
それは相手への愛情や思いやり、労りといった心の交感などどこにもない、ただ情欲のみに発せられた行為の始まりだったのだ。
二人もつれ合うようになって歩きながら互いの衣服を剥ぎ取ってゆく。
俺はかろうじて残っていた理性で奥の部屋に辿り着くまで待ってから、彼女の背中のジッパーを力任せに引き下ろし、ベッドに押し倒した。
盛りを過ぎている肌を男の目の前に晒され、一瞬彼女が見せたその己を恥らう姿さえも許せない気がして、紅潮してゆく肌を罰するかのように痛みをギリギリ感じないくらいの愛撫を全身に施してゆく。
彼女は与えられるがままに欲し、そして俺のどんな要求にでもその全身で応えた。
幾度絶頂を迎えても飽き足らないように、いくらでも彼女は肉欲のままに呆れるほど俺を咥え込み、飲み干していったのだ。
・・・俺は目の前が真っ暗になったような気がした。
今目にしている彼女の痴態が信じられず、その違和感に吐き気を催すほどだった。
なぜという疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
ほんの少しでも、彼女を神聖視していた今朝方までの自分を呪いたいくらいだ。
初めて彼女にまみえたあの夜に感じた純粋さ、可憐さを完膚なきまでに覆され、裏切られたかのようなやり場のない怒りと悲しみが胸に押し寄せて、そしてそれらが別の種類の欲望に次々と火をつけていった。
目の前にいるのは一瞬たりとも自分の心を掴んだあの夜の女じゃないのだ。
だからどうとでもしてやれというように・・・。彼女の髪も、瞳も・・・あの時のものとは違うのだから―と。
俺たちは互いを責め合うようにいつまでも身体を重ねつづけた。
☆
疲れ果てて、泥のように寝込んでいた俺が目覚めたのは、空が夕闇に染められる頃だった。
ふと横を見ると彼女は居らず、脱ぎ捨てられ散らばっていたはずの俺の服はきちんと畳まれてベッドの足元に置かれていた。
外からもほとんど光の入ってこない薄暗い家の中、とりあえず手探りで身支度を整えた俺は、細いろうそくのような灯りがテーブルの置かれていたあたりに点っているのに気づき、ゆらゆらと近づいた。
「・・・・・・。」
そして彼女を呼ぼうとして、ふと名前さえ知らなかったことに驚いたのだった。
俺は気だるい身体を引きずるようにして、彼女が繕い物をしながら座る椅子の背に手を遣った。
「あら・・・お目覚め?」
「ああ・・・悪かったな、長居して。」
なぜだろう・・・ろうそくの儚げな炎に照らされた彼女は・・・ついさっきまで俺の腕の中で喘いでいた様子など微塵も感じさせないほどに愛らしく、清らかだった。
本当に・・・彼女という女はよく分からない。
「よかったらこれ飲んでちょうだい・・・。」
彼女の差し出したそれはドロッとしていかにも不味そうな飲み物だったが、仄かにチョコレートの香りがした。
「カプチーノは・・・ないだろうな。」
キッチンの脇に申し訳程度に備えられた作り付けの小さな食器棚には、食器と呼べるものもそれ以外の物もほとんど置かれていなかった。
「ごめんなさいね・・・お茶以外はそれしか置いてなくって。娘が好きだから。」
彼女はそう呟いてからハッとして、ホットチョコレートの入っていた缶を手に取って灯りに翳した。
するとずいぶん以前に賞味期限が過ぎていたようだった。
「あら・・・ごめんなさい。わたしこういうのあまり気にしない性質なの。・・・でもお客様にはよくないわね。今お茶を淹れるから待っていて。」
彼女は震える手を落ち着かせるようにして、注意深く俺の手からカップを受け取った。
「・・・君は・・・子どもがいるのか?」
するとしばらくカップを洗いながら俯いていた彼女が振り返った。
蝋燭の小さな灯りでもはっきりと分かるほどに、涙で頬がぐっしょりと濡れていた。
「ええ・・・5歳だった。でも少し前に病気で・・・死んでしまったわ。」
ずっと堪え続けていたのであろう涙がどっとあふれ出した。
堰が切れたように激しくしゃくりあげて泣き崩れる彼女に、俺は何一つ言葉をかけられなかった。
結局―俺はやはり彼女自身を碌に見ていなかったのだ。
心の支えになっていたのだろう子どもに先立たれ、この真っ暗な部屋で誰に縋ることもできずにいた
・・・そんな彼女の孤独に気づこうともしなかった俺には、彼女に言葉をかける資格などなかった。
「・・・ごめんなさいね・・・辛気臭い話になって。」
彼女は一しきり泣いて気が済んだように、そして思いを振り払うかのようにゴシゴシとそばにあった手ふきのタオルで涙を拭った。
「・・・すまない・・・。」
「・・・もう帰るでしょ?・・・送るわ。」
彼女は微笑とともに、その青い瞳を切なく煌かせた。
「今からじゃ君が危険だ。・・・俺なら一人でも帰れるから心配いらない。」
「だいじょうぶよ・・・わたしなんて誰も襲わないもの・・・どっちかっていえば貴方の方が心配なくらいよ。この辺りは悪い人が多いんだから。男も・・・女もね。」
今度はくすくすと小さな声をたてて笑った。
「・・・君もなのか?」
俺は彼女をそっと抱きしめた。
彼女も俺をぎゅっと抱き返した。
「さあ・・・どうかしらね。ね・・・・・・もう・・・帰るんでしょう?」
そう尋ねながら、俺を抱く彼女の腕に力がこもった。
「帰らなければならないが・・・・・・帰り道を忘れてしまったんだ。」
彼女の額に口付けをして、俺はそう答えた。
「それなら明日・・・送ってあげるわね。」
彼女は嬉しそうに笑って・・・そう言った。
☆☆☆
「・・・その方は・・・今どうしていらっしゃるのかしら・・・。」
少し心配だった・・・この話をして君がどんな反応をするのだろうかと。
「分からない・・・その後は一度も会っていないんだ。朝になったら彼女は姿を消していて、店に行ってもその前日に辞めると言い残して帰ったという話だった。」
・・・つまり・・・彼女は子どもとの思い出以外の何もかもを全て捨てるつもりであの日を過ごしていたのだろう。
ロザリアは俺の腕の中からスルリと抜け出して、しばらく考え込むように両手を握り合わせ、ソファに座ったままじっと虚空を眺めていた。
「すまないロザリア・・・俺は君の優しさに甘えてばかりだな・・・。こんな話すべきじゃなかった。」
沈黙に耐えかねて詫びると、彼女は鮮やかなサファイアブルーの瞳を俺に向けて言った。
「いいえ、オスカー。・・・わたくし今ね、その方との思い出の深さに負けないくらいの・・・あなたとの素敵な思い出を作ってゆきたい・・・って、そう思っていたんですわ。」
Fin