「ロザリア!」
知らせを受けて飛んで来た女王陛下はロザリアを見た瞬間アンジェリークに戻った。
ぽろぽろと涙がベッドにこぼれる。
「どこに行っていたの?わたし・・・。心配したんだから!」
「アンジェ・・・。」
ロザリアは抱きついてきたアンジェリークの背中をなでた。
「一年もどうしてたの?」
「わかりませんの。事故から一年も経っているとオリヴィエから聞いて驚いていますのよ。」
オリヴィエは部屋の壁にもたれて右手で左腕を押さえるように立っていた。
押さえていないと、走り寄って抱きしめてしまう。「二人の日々を思い出して。」と懇願してしまう。
泣きながら話す二人の姿をただ眺めていた。
「すぐに戻れますわ。」
ロザリアの言葉にアンジェリークも頷いた。髪の長さ以外は全く変わっていない。
ようやく涙を拭いたアンジェリークは声をひそめた。
「オスカーに知らせといたからね。・・・そろそろ来るんじゃないかな?」
ロザリアの頬にさっと赤味がさした。
「もう、アンジェったら。」
恥ずかしそうに斜めに睨んだロザリアをアンジェリークが笑う。
ほらね、という表情とともに長靴が床を走る音が聞こえてきた。
叩きつけるようにドアが開いて現れたオスカーを見ると、ロザリアは瞳を潤ませた。
「ロザリア!」
声とともに抱きしめた力強い腕にロザリアは引き寄せられるようにおさまった。
「会いたかった。」
ベッドの上に座ったロザリアを包み込むように抱きしめる。
恋人同士の熱い抱擁が時間を忘れたように続いた。
アンジェリークが見ていられないというように肩をすくめても、オリヴィエは黙りこんでいる。
その様子をどう思ったのかアンジェリークが割って入った。
「ちょっと、オスカー。いい加減に離れなさい!」
オスカーは少しだけロザリアから離れると、すぐ隣に腰掛けて笑みを漏らした。
「野暮なことは言わないでほしいな。久しぶりに恋人に会えたんだ。少しくらいいいだろう?」
オスカーがロザリアの髪を手で梳いた。首筋に触れる手に体温が上がる。
真っ赤になったロザリアはとてもかわいくて、思わずアンジェリークも笑ってしまった。
「でも不思議。ロザリアをどこで見つけたの?」
3人の視線が一斉にオリヴィエに集まった。
オリヴィエは自分の腕をつかんだ右手に力を込めると、しずかに話し始めた。
「昨夜ね、花火を見ながらぶらぶらしてたら、門の下に倒れてるのを見つけてね。まさかロザリアとは思わなかったけど、取りあえず連れてきたってわけ。
朝、起きたて話を聞いて驚いたよ。慌てて連絡したんだ。」
昨日、初めて見たと言葉の隅ににおわせた。嘘をつくことにはもう慣れている。
ありがたいことに女王もオスカーもその言葉を信じたようだ。
何と言ってもロザリアが目の前にいる。
「どうしたの?」
うつむいたロザリアを見て、アンジェリークが声をかけた。
「ええ、まだ頭が少し痛むんですの・・・。」
顔をしかめたロザリアの隣にいたオスカーがロザリアを抱きあげた。
「俺の家で休むといい。・・・他の男の家に置いておくわけにはいかないからな。」
オスカーの腕の中でロザリアは真っ赤になりながらも抵抗せずにいる。
「いいだろう?」
オスカーの言葉にアンジェリークも苦笑して、頷いた。
「ロザリアはいいの?オスカーといたら休めないかもしれないわよ?」
恋する瞳でロザリアは小さく微笑んだ。
それを見たオスカーはロザリアの額にキスを落とすと彼女を抱きかかえたまま歩き出す。
ロザリアの腕がオスカーの首にまわされて、二人はドアの向こうに消えて行った。
昨夜、自分に抱かれてここに来たロザリアが、今日はオスカーに抱かれて出ていく。
二人の消える姿が越せない壁のように目の前に広がっていった。
開け放たれたドアからゆるく流れた風がオリヴィエの髪を揺らす。
「本当によかった。」
嬉しそうにオリヴィエに笑いかけたアンジェリークは飛び跳ねるように出て行こうとする。
まだ早い朝から呼びだしたのだ。
女王の正装ではないアンジェリークは友達を心配する普通の少女だった。
すれ違うアンジェリークにオリヴィエが声をかける。
「あとで、行くよ。」
廊下に出たアンジェリークがふと足を止める。振り向いた顔は驚きに満ちていて。
「オリヴィエ?まさか?」
「そうみたい。」
部屋の中に立つオリヴィエの顔は逆光で見えない。オリヴィエに限って取り乱すようなことはないだろうけれど。
「待ってるわ。」
女王の顔に戻ったアンジェリークはそれだけ言うと聖殿へと戻って行った。
一人きりの家は意味もなく広すぎる。
今まで感じたことのない寂しさにオリヴィエはロザリアが眠っていたベッドに寝転んだ。
彼女が残したのはこの香りだけ。
オリヴィエは静かに瞳を閉じると、湧き上がる感情にじっと耐えていた。
戻ってきたロザリアをみんなが驚きながらも喜んで受け入れた。
日が過ぎても、記憶を失っていた間をロザリアが思いだす気配はない。
「べつにいいじゃない。こうして帰って来てくれたんだから!」
女王の言葉にみんなも頷いた。
そうして一年前と変わらない日々が戻って来る。
補佐官としての仕事の勘を取り戻すまで戸惑っていたけれど、それも次第に慣れていった。
「どうして思い出せないのかしら?」
オリヴィエの執務室でロザリアはため息をついた。
「なにか大切なことを忘れているような気がするんですの。」
ロザリアが湯気の立つカップを持ち上げた。ピンク地に大輪の薔薇の描かれたカップがロザリアの口元で止まる。
「あの青い薔薇のカップはどうなさったの?」
以前オリヴィエのお気に入りだったカップでいつも紅茶を飲んでいた。
一年前のことはこんなにも覚えているのに、1カ月前のことは暗いカーテンに包まれたように何一つ見えない。
「ああ、あれね。別の場所に置いてあるんだ。」
ロジーのためにあの家に持って行ったカップ。
ひっそりと戸棚にしまわれているだろう。
「オリヴィエ。オスカーはわたくしのいない間、どうしていまして?」
毎晩違う女と寝ていた、なんて言えるはずがない。
オリヴィエはまた一つ、嘘をついた。
ロジーの家の鍵を開けると、中からむせかえるような薔薇の香りが漂ってきた。
オスカーから渡された花を、捨てることができずに飾っていたから。
部屋の真ん中に置かれた一番立派な花瓶に、カトレアがあった。
「この花を見ていると、あなたを思い出しますの。」
女王候補のころ、ロザリアにカトレアを送ったことを、心のどこかで覚えていてくれることがうれしかった。
ドアを開けたとき流れた風に花びらが落ちる。
オリヴィエは全ての花を袋に入れた。強すぎる薔薇の香りに胸が苦しくなる。
それから棚の中から青い薔薇のカップをとりだした。
二度と、彼女が持つことはないそのカップをオリヴィエは箱に入れるとバッグに詰める。
ロジーが残していった物はすべて処分したけれど、このカップは持ち帰りたかった。
「あ、お兄さん!」
隣の女の子が駆け寄って来て、オリヴィエの後ろを覗き込んだ。
「なーんだ。お姉ちゃんは一緒じゃないの?」
オリヴィエはしゃがんで、女の子の頭をなでた。
赤くなった頬が可愛らしい。
「お姉ちゃんはね、もうここには来ないんだ。」
「引越したの?お友達もね、そう言って会えなくなっちゃたの。」
首をかしげてオリヴィエを見つめていた女の子は急に瞳を輝かせた。
「わかった!お兄さんと結婚したから、お兄さんのお家に住むのね?そうなんでしょ?」
目の前に落ちてきた髪をかきあげることができなかった。
顔の見えないまま、オリヴィエは女の子の頭をなでると立ち上がる。
「そうだといいね。」
オリヴィエの言葉を肯定と受け取ったのか、女の子は「待ってて!」と家に戻る。
すぐに飛び出してきた女の子はオリヴィエの手に人形を乗せた。
「結婚のお祝いにママに作ってもらったの!前のお人形と一緒に置いてあげてね!」
手の中の布の天使の人形は青い瞳をしていた。そして黒い髪。
「ありがとう。大切にするよ。」
手を振る女の子の姿が遠ざかる。
きっとあの子もすぐに忘れてしまうだろう。
隣に住んでいたロジーのことを。
天使は似合わないと思ったから、あの人形は捨てるつもりだった。
手にした袋から金の髪の人形を取り出すと、二つをベッドに並べる。
こうして、並んでいたかった。
優しく微笑む黒髪の天使がオリヴィエを見つめていた。
白薔薇の中にたたずむロザリアは昔と変わらずに美しかった。
もうすぐ主の変わるこの庭はこれからも薔薇を咲かせるのだろうか。
テラスから見つめるオリヴィエの視線に気付いたのか、ロザリアが振り向いた。
微笑んだ彼女の方へ、オリヴィエは近付いていく。
「はーい、どうしたの?わざわざ家まで来るなんて。」
手をひらひらさせたオリヴィエは少し離れてベンチに座った。
「明日、発つんですの?」
ロザリアの瞳が揺れている。
「わたくしの最初の仕事があなたの退任だなんて。・・・信じられませんわ。」
すぐそばまで伸びる背の高い薔薇の一輪をオリヴィエは摘み取った。
指をさす鋭い棘が気持ちを落ち着かせてくれる。
「1ヶ月?戻って来てから。」
「ええ。」
その間、ロザリアとオスカーは元のような恋人同士に戻っていた。
すぐにいなくなる自分には、もうどうすることもできない。
オスカーなら、ロザリアを幸せにできる。
軽薄な顔の裏にある熱い思いを長い付き合いでよく知っていた。
「見送りに来てくれないかな?」
オリヴィエはロザリアの顔を見ることができなかった。
悲しい顔をしていたとしても、それは自分の望む顔ではないから。
「ええ。」
短い返事をきいて、オリヴィエは立ち上がる。
「準備があるから。じゃね。」
何か言いたげにオリヴィエを見つめたロザリアを薔薇園に残した。
ロザリアはしばらくそこにいた後、立ち去っていく。
「あなたに行ってほしくないの。なぜなのかしら。」
揺れる薔薇だけがロザリアのつぶやきを聞いていた。
ロザリアにだけ伝えた旅立ちの時間にオリヴィエは聖地の門の前に立った。
快晴の空に小さな雲が流れていく。
手にしているのは小さなトランク、そして花束。
「オリヴィエ!」
補佐官服のロザリアが近付いてくる。ロザリアはオリヴィエの前まで来ると、息を整えて微笑んだ。
「お待ちになりまして?」
無理をして作った笑顔は初めて彼女に会った時の顔に似ている。
その作られた笑顔が本物の笑顔に変わっていくのをずっとそばで見てきた。
それも今日で最後。
「あんたにこれを。」
オリヴィエの手の中に青い小さな花があった。
可憐な花の色はロザリアの瞳のように澄んだ青。
「これは、勿忘草ですわね。」
「そう。別れにふさわしい花だと思わない?」
Myosotis alpestris。勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』。
心の片隅にでも私を覚えていてほしい。愛してほしいとは言わないから。
聖地の風はいつものように穏やかで、オリヴィエはその変わらない景色を刻みつけるように眺めた。
綺麗な緑の草原、澄んだ空。そして、誰よりも愛する人。
渡された花束を両手に持って、ロザリアはオリヴィエを見つめていた。
メイクもメッシュも落とした、ブルーグレーの瞳。
なにか、大切なものを忘れている気がする。
「あの、オリヴィエ・・・。」
あなたはわたくしの忘れた時を知っているのではなくて?
そう尋ねようとしたとき、オリヴィエの腕に抱きしめられて、言葉が止まる。
長かったのか、それとも短かったのか、わからない。
ただ、お互いに動くことができなかった。
オリヴィエの腕の力が緩んで、ロザリアを見つめた。
その瞳はどこかで見たことがあるようで。
オリヴィエの細い指が額の髪を分けると、そこに唇が落ちてきた。
「さよなら、・・・ロジー。」
ロザリアの瞳に何かが浮かんで消えていく。
オリヴィエは小さなトランクを持つと、後ろ手に手を振って門をくぐって行った。
門から消えていくオリヴィエの姿にロザリアの手から、花束が落ちた。
崩れ落ちるように膝をついたロザリアの瞳からあふれるように涙がこぼれおちていく。
まるで、体の一部が壊れるような胸の痛み。
止まらない嗚咽と涙が足元に吸い込まれていく。
うずくまったままどれほど泣き続けただろう。
ロザリアの肩にふわりと青いマントがかけられた。
顔を上げることもできないまま、暖かい腕に抱きしめられる。
「泣かないでくれ・・・。」
苦しげに出された声にロザリアは首を振る。それでも涙を止めることができなかった。
「君はあいつを・・・。」
いつも自信にあふれた声によぎる不安の色。
「いいえ。あなたを好きですわ。ただ・・・。ただ悲しいのです。心がちぎれそうなほど。
わたくしにもわからないの。なぜ、こんなに胸が痛いのか。」
オスカーは泣き続けるロザリアを黙って抱きしめた。
足もとの青い花が風に揺れて花びらを落としていく。
青い小さな花びらは舞い上がりながら風に飛ばされていった。
白い息が空に昇っていく。
肌を刺す冷気に抜けるような青空のコントラストが目に痛い。
二人で来ようと約束した故郷の星は昔と変わらずに雪に覆われていた。
こんなふうに晴れた日には必ず見えるはず。
坂を上りきると、眼前に広がるのは薄い雪に覆われた緑の草原。
手のひらをさしだしたオリヴィエの目の前に風花が舞い降りた。
「あんたに見せたかった。」
澄みきった空気の中に舞う花びらのような雪。
『あなたに会うために生まれてきましたのね・・・』
たった一夜だけの忘れられない思い出がある。その思い出があるからこれからも生きていける。
「私の愛は全部あんたにあげたから。いままでも、これからも、ずっと愛してる・・・。」
勿忘草に託して渡した、もうひとつの花言葉。それは『真実の愛』。
顔を上げたオリヴィエの頬に当たった風花がその暖かさに溶けて流れていく。
頬を伝う雫は雪なのに暖かくて。
見上げた空の向こうにいる愛する人の面影をその青に思いながら、オリヴィエは舞い落ちる雪を見つめていた。
FIN