約束



一面に吹き流れた風に草原が揺れる。
まるで波立つような風景に、ここへ来たいと言ったオスカーの気持ちがわかるような気がした。
ごつごつとした岩場に二人並んで腰を下ろすと、眼前に広がるのは、緑の海。
いつも来ているのかもしれない。
オスカーはそれほど景色に溶け込んでいた。

「不思議だな。あれから何百年も経っているはずなのに。ここの景色は少しも変わっていなかった。」
少し伸びた緋色の髪が風に揺れる。
「変わんないってのが、イイとは限らないよ。」
ついそんなことを言いたくなった。
この短期間で変わってしまったことが、あまりにも多過ぎて。

「彼女はどうしてる?」
多分最初から、このことが聞きたかったんだろう。
わざわざ自宅からここまで歩いて来る間、オスカーは一言も話さなかった。
もし彼女がただの人ならば、永遠にオスカーの隣にいることができたはず。
オスカーが去って数十日たった今もまだ、聖地を濡らす雨が、彼女の悲しみを伝えていた。

「どうしてるって?…あんたはどうしててほしいの?」
素直に本当のことを言ったとして、オスカーの気が晴れるとは思えない。
かえって、負担になるだけだろう。…もう慰めることはできないのだから。

「ただ、泣いていなければいいと。そう思っただけさ。」
見渡す限りの草原は風が吹くたびに草を薙ぐような音が響く。
震える彼女の肩のようだ、と、そう思った。
ふっと、オスカーが苦い笑いを浮かべる。
「いや、ウソだな。泣いていてほしいと、思ってる。」
あんたと同じようにかい?
そう言いかけてやめた。

隣にいるオスカーの髪が風に攫われて、隙間から耳がのぞく。
「これ、彼女にネックレスにしてくれって、頼まれてさ。私がチェーンをつけたんだ。」
言いながら耳に残る穴に触れると、オスカーはさびしそうな微笑を浮かべた。
「そうか。」
彼女の胸元に輝く金のネックレスを見るたびに、オスカーのことをイヤでも思い出してしまう。
それが自分にとっても、どれほど辛いことだろう。
横顔を見ていられなくて、オリヴィエは前を向いた。
涙が出ているわけじゃないのに、オスカーが泣いているような気がしたから。


「今日は飲んでいくだろう?新酒が入ったばかりなんだ。なかなかうまいぞ。」
立ち上がり、ウインクをした姿は以前と変わらない。
「もちろんだよ。飲ませてくれるんでしょ?」
「まったく。俺はもう一般人なんだぜ。お前が奢れ。」
「客に奢らせるって、どうなのさ。」
「うるさい。行くぞ。」

酒屋で樽に入った新酒を買うと、オスカーはそれを抱えるようにして肩にのせた。
「どんだけ飲むつもりなのさ。」
オリヴィエがからかうようにそう言うと、オスカーはにやりと口端をあげた。
変わらないその笑い方にも胸が痛くなる。
「帰るつもりなんてないんだろう?」
「ま、ね。せっかく来たんだし。」
もう一度会えるのかと聞かれれば、答えは『わからない』だろう。
お互いそれを知っていても、口から出るのはくだらない話ばかり。
月の輝く丘を二人は樽を抱えてオスカーの家まで歩いていった。


固い床に直接ひかれたラグの上に座りこんで、樽を開けた。
部屋中に広がるむせかえるような若いワインの香り。
明るすぎる蛍光灯の明かりを落とすと、部屋の片隅に立てられた2本のスタンドの黄色い照明だけが辺りを照らし出す。
ほの暗い部屋に二人の長い影が並んだ。
「飲め。」
らしくない繊細なカットグラスにオスカーは無造作にワインを注ぐと、オリヴィエに差し出した。
自分のグラスにも同じようになみなみと注ぐと、ほとんど一気に飲み干す。

「あんた、ピッチ早すぎない?」
「別に明日の予定があるわけじゃない。お前も飲め。」
香りだけで酔えそうな空間で、オリヴィエはグラスをなめた。
アルコールが少しづつ身体を蝕むと、オスカーの首筋がほんのりと朱に染まって行くのが見える。
素肌に軽く羽織っただけのシャツと、ジーンズ。
聖地では見ることのなかったオスカーの姿。
取りとめのない話をしていると、オスカーの返事が次第に緩慢なものに変わって行った。


「飲みすぎたか…?」
やがて、グラスを床に置いたオスカーは、そのまま倒れ込むように床に寝そべった。
「ちょっと。だからピッチ早いって言ったじゃないか。」
オリヴィエはオスカーのおいたグラスを倒さないようにテーブルに乗せると、ちらばったつまみを片づける。
きちんと片付いたキッチンからオリヴィエが戻ると、オスカーは床にうつぶせになっていた。
「布団はどこ?…まったく結局雑魚寝しろって?」

オリヴィエはぶつぶつ言いながらもオスカーが指差したクローゼットから毛布を取りだした。
冬になればこの辺りはかなり冷えるらしい。
かなり厚手の毛布が何枚が用意されていた。
上から2枚をとり、オリヴィエは寝転んだオスカーの隣に座る。

「ほら。」
差し出した毛布をオスカーは受け取ろうとしない。
呼びかけても返ってこない答えにオリヴィエは少しオスカーに近づくと、顔を覗き込んだ。
アイスブルーの瞳が閉じられると、端正な素顔はずっと幼く見える。
オリヴィエは緋色の髪を指に入れると、そっと梳いた。
さらさらと音を立てるように流れる髪にオリヴィエの鼓動が速くなる。
髪に触れても一向に目を覚ます気配のないオスカーの体に、オリヴィエは毛布をかけた。


「オリヴィエ。」
眠っているとばかり思っていたオスカーが、突然オリヴィエの腕をつかむ。
開いたアイスブルーの瞳の奥にぼんやりとした灯りが滲んだ。
「彼女を守ってくれないか?…強がっていても、本当はとても脆く、繊細な女性だ。そばにいて支えてやってほしい。お前にしか頼めないんだ。」
真剣な瞳の奥に見える、深い愛情。
押し殺した想いが今にもあふれそうに瞳の奥をさまよっている。
オリヴィエは掴まれた腕を払うことができずに、長いため息をこぼした。

「あんたの代わりに?彼女を愛してやってほしいってこと?」
オリヴィエの言葉にオスカーの息がとまる。

『愛する』という言葉の意味を反芻するように黙りこんだオスカーはしばらくの後、静かに頷いた。
「頼む。お前になら。俺は。」
オリヴィエの腕をつかむオスカーの力が緩んでいき、やがて、手が床に落ちた。
愛する人を誰かに託さなければならない運命はこれほどにも苦しいのだ。
オスカーの苦しみを思うオリヴィエもまた、心がちぎれそうなほど苦しい。

オリヴィエの右手がオスカーの頬に触れると、伏せられていたアイスブルーの瞳がオリヴィエを映し出した。
オリヴィエは静かにオスカーに口づける。
「わかった。約束するよ。私の全てをかけて、あんたの願いを叶えるって。」

額を合わせ、右手でオスカーの頬を包み込むと、オリヴィエは胸で十字を切った。
神なんて、まるで信じちゃいない。ましてや、これから自分がしようとしていることが神に許されるはずもない。
けれど、なにかに誓いたかった。

「あんたと同じように、彼女を愛するから。」
再びオリヴィエはオスカーに唇を寄せた。
オスカーも抗おうとせずに、オリヴィエの口づけを受け入れる。
舌を絡めて、オスカーの呼吸までも奪おうとするような熱いキス。
口中を犯すように動き回る舌にオスカーのアルコールで満たされた体は、次第に力を奪われていった。

「あんたの知ってる彼女を教えてよ。」
オリヴィエの綺麗な指がシャツのボタンをはずすと、オスカーの身体を這って行く。
「どこ?ここ?」
耳たぶを軽くかんで、吐息をあてると、オスカーは小さく頷いた。
耳から、首筋へ、そして胸へ。
這いまわる唇が下へと降りていくたびに、オスカーの顔がゆがんだ。

オリヴィエから与えられる快感の間に思い出す、彼女の顔。
青い長い髪が流れる綺麗な背中に口づけると、恥ずかしそうに頬を染めていた。
「背中…。それから…。」
オスカーの声の通りにオリヴィエの唇が動くと、強い快楽の波が訪れる。
これから先、彼女を愛する唇を知りたい。
自分が感じれば感じるほど、彼女が幸せでいてくれると、そう信じていられるから。
彼女のすべてを分かち合うために、二つの影が一つに重なった。

「ここに、キスして。」
オリヴィエが鎖骨の近くを指差した。
「私が約束を忘れなくなるくらい、強く、痕をつけて。」
オスカーの顔が近づいて、オリヴィエは緋色の髪に手を入れる。
柔らかな唇が触れると、胸に針で刺すような痛みを感じた。

「ありがと。もう行くよ。」
服を着たオリヴィエは、ゆっくりと立ち上がった。
あれほど身体を濡らしていた汗も、いつの間にかすっかり引いている。
シャワーを浴びることもできたが、そうしなかったのは、少しでもオスカーを残したかったから。

半身を起したオスカーはアイスブルーの瞳をじっとオリヴィエに向ける。
もう、会えないかもしれない。
そう言葉にすれば、陳腐な別れになるようで、二人はなにも言わなかった。

「じゃ。」
短いあいさつの後、オリヴィエはまだ暗い空に飛び出した。
頬をなでる風は、オスカーに会った午後よりもずっと冷たい。
それでも、身体に残る熱にオリヴィエは立ちどまり、黒い海のような草原を見つめていた。


聖地に戻ったオリヴィエが、胸の名残に手をあてると、まだそこはあの日のままに赤い花が散っていた。
この痕が消えるころ、もう一度あの星へ行くことができるだろうか。
その時、彼という存在はまだこの世界にいるのだろうか。
時間さえ隔てた場所にいるオスカーとの約束を守るために、オリヴィエは、女王の間に向かったのだった。


FIN


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