閉じたカーテンの隙間から差し込む、まばゆい光。
ベッドで眠っていたジュリアスは、その光に目を覚ますと、傍らに視線を向けた。
緋色の髪は規則的な動きをしていて、安らかに眠っているのがわかる。
差し込んだ光をあびて鮮やかな緋色が輝いていた。
このまま寝がえりを打てば、光が目を指すことになってしまう。
これほどよく寝ている彼を起こすことになるのが忍びなくて、ジュリアスはベッドをそっと抜け出した。
カーテンに手をかけて、外を見上げると、空に綺麗な月が浮かんでいる。
思わずバルコニーに出ると、少し肌寒い風が頬に触れた。
「満月か…。」
月明かりが眩しいのも無理はない。
雲ひとつない空に見事な満月。
月明かりはジュリアスの金の髪を白く光らせ、時折風に揺れるたびに波のようなきらめきを与えている。
「美しいものほど、不実なのかもしれぬな…。」
似合わないロマンチックなセリフに苦笑した。
夜を共にすればするほど、不思議に思えてしまう。
オスカーがなぜ、自分を選んだのかと。
思いを通じあう前、オスカーは悪く言えば女性関係が派手で、しばしばジュリアスも苦言を呈してきた。
さすがに執務に支障をきたすようなことはなかったが、あちこちから漏れ聞く噂は好ましいものではなかったことも事実で。
「ジュリアス様が気付いて下さらなかったからです。」
そのことを問いた時、オスカーはそう言った。
ジュリアスへの想いを持て余した揚句、憂さを晴らすように女性と関係を持った、と。
「そなたは本当は女性が好きなのではないのか?」
相変わらずのフェミニストぶりにいささか意地悪く尋ねたこともあった。
それでも、オスカーは平然と答えたのだ。
「俺は男が好きなのではありません。ジュリアス様が好きなんです。」
ストレートな表現にジュリアスはうろたえたが、オスカーは当然だ、と言わんばかりに笑っていた。
人はジュリアスのことを太陽神のようだ、というが、ジュリアスにしてみれば、オスカーこそ、そうだと思う。
眩しい輝きで、男女を問わず惹きつけてしまう。
いつか自分の元を去ってしまうのかもしれないが、それを不実だと責めることはできないだろう。
愛されているゆえに不安がある。
自分にとって、それも初めての気持ちだった。
「どうなさったんですか?」
不意に背後から優しい腕が伸びて、ジュリアスの体を包み込んだ。
オスカーの香りに包まれていると、肩の力が自然に抜ける。
愛というものは形がないのに、確かにそこにあるのだと、感じずにはいられない。
「いや。見事な月に見とれていただけだ。起こしてしまったようだな。すまない。」
「いいえ。あなたとこうして月を見ることができて、幸せです。」
「そうか。」
オスカーの体温がジュリアスの背中に伝わってくる。
身じろぎもせずに二人はしばらく、月を眺めていた。
守護聖の元にそれぞれの仕事を割り振るのは、主に補佐官であるロザリアの仕事だ。
とても有能な彼女はほとんどの仕事を一人でこなしている。
つまり、女王よりもそれぞれの仕事をよく理解しているということで、しぜんと首座の守護聖であるジュリアスも補佐官室を尋ねることが多い。
今日、届けられた書類の中に、別の守護聖宛の物を見つけたジュリアスは、ついでもあって補佐官室へと出向くことにした。
補佐官室はジュリアスの部屋から一番遠く、全ての部屋の前を横切っていかなければならない。
ちらりと時計を見たジュリアスは、もうすぐお茶の時間であることを確認すると、補佐官室のドアをノックした。
数回ノックを繰り返したが、返事はない。
仕方なく自室に戻ろうとしたジュリアスは、オスカーの部屋の前で立ち止まった。
今まで、自分からお茶を誘ったことはない。
ジュリアスの執務の少ない時、オスカーはいつの間にか現れて、お茶の時間を過ごしてくれていた。
忙しい時は来ないのだが、それはそれで少し寂しいような気がすることもある。
ジュリアスはドアをノックすると、返事を待たずに扉を開けた。
恋人の気安さもあったかもしれない。
しかし、ドアを開けた先の光景にジュリアスは驚いた。
ソファに座るオスカーの前にロザリアがいて、二人で仲良くお茶を飲んでいたのだ。
「あら、ジュリアス。ごきげんよう。」
美しい言葉と優雅なしぐさでロザリアが微笑んだ。
「オスカーに御用かしら?わたくしは失礼いたしますから、お二人でお茶の続きをなさって。」
立ち上がると、自然に薔薇が香る。
ロザリアはオスカーに意味ありげな目くばせを送ると、ジュリアスに会釈して、部屋を出ていった。
「ジュリアス様。ちょうど伺おうと思っていました。」
いつの間にか目の前に置かれていたエスプレッソをジュリアスは手に取った。
すぐ隣にはさっきまでロザリアが飲んでいた紅茶が置いてある。
ジュリアスの知る限り、オスカーが紅茶を飲むことはなかった。
「ロザリアはよく来るのか?」
ジュリアスが尋ねると、オスカーは少し困ったような顔をしている。
「いえ。たまに、話があるときだけです。」
話、とはなんなのだろう。
二人きりでお茶を飲みながら、秘密の話をしているのだろうか。
「どんな話なのだ。」
オスカーはますます困ったような顔をして、紅茶の入っていたカップを片づけ始めた。
まるで、ロザリアがいたことをなかったことにでもするような態度に、ジュリアスはなぜか胸がもやもやする。
「それは、ジュリアス様にでも教えかねます。ロザリアに誰にも話さないと約束していますので。」
「そうか。」
ジュリアスは一気にエスプレッソを飲み干した。
口の中に広がる苦味は自分の心の中と同じだ。
「失礼したな。今日は執務が立て込んでいる。…夜も遅くなりそうだ。」
それだけ言って、ジュリアスはオスカーを一瞥することもなく、部屋を飛び出した。
ついキツイ口調になってしまったことを後悔したが、もう遅い。
手の中の書類を思い出したが、ロザリアに会う気になれず、そのまま自分の執務室へと戻ったのだった。
付いたウソが呼び水にでもなったのか、その日の夕方から緊急の案件が入ってきた。
打ち合わせのために補佐官室に向かうと、ロザリアが待っている。
「わざわざ申し訳ありませんわ。」
綺麗な笑顔でジュリアスを招き入れたロザリアは「エスプレッソでよろしいかしら?」と、テーブルにカップを置いた。
青い花模様のデミタスカップは彼女自身のように良質で美しい。
自分の前にも紅茶のカップをおいたロザリアは書類を用意した後、ジュリアスの向かいに座った。
「これですわ。」
白く細い指にほんのりとピンクのネイル。
どうすればそんな凝ったデザインになるのか、ジュリアスには見当もつかない。
近づいた時にふと香る薔薇の香りも、透き通るような肌も、女性としての魅力にあふれている。
女王候補のころと比べて、ロザリアはずいぶん変わった。
もともと美しい少女だったが、角が取れてその美しさは引き込まれそうになるほどだ。
執務についていくつかの確認をすると、かなりの時間が経っていた。
ロザリアは自然な動作で新しい飲み物を用意してくれている。
「コーヒーばかりでは胃を荒らしますわ。」
ガラスのポットに入ったハーブティは、リュミエールからもらったリラックス効果のあるものだと説明してくれた。
たわいもない話をしていると、ジュリアスの脳裏にあることが閃く。
「そなたはずいぶん変わったな。もしや、恋でもしているのではないか?」
言ってから、失言だったとすぐに後悔した。
ロザリアのぽかんとしたような視線。何とも言えない空気がいたたまれない。
けれど、大笑いでもするのではないかと思ったロザリアの頬がさあっと赤くなった。
手にしていたカップを慌てたようにソーサーに戻すと、大きな音がする。
「もう、イヤですわ。急にそんなことをおっしゃるから、つい…。」
隠せなかった、と言いたげにジュリアスを見たロザリアの青い瞳は、まさに恋する者の瞳で。
胸に両手をあてたロザリアは頬を染めたまま、ジュリアスに言った。
「誰にも言わないでくださいませね。まだ、秘密にしておきたいんですの。」
頷いたジュリアスは、その話題を避けるように、いくつか話をした後、補佐官室を後にした。
忙しい時ほど、仕事が集中するという不思議は聖地でもおこるらしい。
あの満月の日から、オスカーと夜を過ごすことができなくなった。
話をする時間を取ることさえ難しい日々に、ジュリアスは知らずにため息をついていた。
いつの間にか、オスカーの存在が大きくなっている。
ただ見ているだけでは、物足りないと思うほどに。
昼食さえもゆっくり取れずに、ジュリアスは執務室を出た。
王立研究院からの知らせが予定より遅れている。
使いを出すことも考えたが、結果を知るだけならば出向いた方が早い。
研究員たちの驚いた顔が一瞬頭をよぎったが、今は仕事を片づけることが優先だ。
近道とばかりに中庭を横切ろうとしたジュリアスの足が止まる。
鮮やかな緋色の髪。
木陰のベンチに座っていても、太陽は彼を避けることができないのか、キラキラとした日差しを投げかけている。
笑うたびに髪が揺れて、炎のように光がきらめいた。
「一体、なにを考えているんだ。俺にはさっぱりわからないな。」
「わたくしも驚きましたのよ。」
少し距離が開いてはいるものの、二人は同じベンチに並んで腰を下ろし、同じものを食べていた。
絶えず笑い声が上がり、ロザリアもいつになく楽しそうだ。
もちろん、オスカーも楽しそうに笑っている。
ジュリアスは声をかけることもできずに、その場を逃げるように立ち去った。
自分らしくない。
なぜ堂々と二人の前に立てなかったのか。
わかりきった理由を自覚したくなくて、ジュリアスは頭を振ると、研究院に向かったのだった。
それからも何度か中庭で過ごす二人を見かけた。
執務室を出ると、つい中庭に目が行ってしまい、二人の姿を探してしまう。
見つければ苦しくなるのに、探さずにはいられなかった。
今日もまた、二人は並んでベンチに座っている。
「今夜だな。」
「ええ。楽しみにしているんですのよ。わたくしにとっても、きっと忘れられない夜になると思いますの。」
「明日の朝の君の顔を見るのが楽しみだ。」
「まあ。そんなふうにおっしゃらないで。」
恥ずかしげに頬を赤くしたロザリアをオスカーが楽しげに眺めている。
今夜、二人で過ごすつもりなのだろうか。
ジュリアスの胸がなにかに掴まれたように激しく痛む。
ふと視線をあげると、ちょうど自分と反対側の柱の影に人影があった。
誰も見ていないと思っているのか、物陰から二人をのぞきながら、せわしげに爪を噛んでいる。
見間違いようのないその姿に、ジュリアスがつい見つめていると、人影もジュリアスに気付いたらしい。
ぎょっと後ずさりしたその影は、慌てたように走り去って行った。
その足音で二人が一斉にジュリアスの方を向いた。
ロザリアは立ち上がると、綺麗な笑顔を見せる。その幸せそうな表情にジュリアスの心が重くなった。
「ごきげんよう。お時間があるならご一緒しませんこと?」
ジュリアスはしばらく黙っていた。いつもならなにか言うオスカーも今日は黙っている。
「いや。二人の邪魔をしては申し訳ない。私は遠慮しておこう。」
ジュリアスが歩きだすと、しばらくしてオスカーが追いついてきた。
「お待ちください。ジュリアス様。」
オスカーのアイスブルーの瞳には、いつもと違う動揺の色が見えた。
「誤解なさっているのではありませんか?」
オスカーに掴まれた腕を払うようにジュリアスは袖を引くと、まっすぐに見つめ返した。
「誤解とは何だ。そなたが誰となにをしようと、私が口をはさむいわれはない。それくらいのことは理解しているつもりだ。」
「違うんです。」
「違うというのなら、はっきりと申してみよ。なにを話していたのだ?」
「それは…。今は言えません。」
オスカーの声を聞きながら、ジュリアスは背中を向けた。
これ以上の話は無用だ。
早足で執務室に戻るとため息が漏れる。
ロザリアとジュリアスは似ている、と女王試験のころにオスカーがよく言っていた。
まっすぐでプライドが高く、信じた道を懸命に進むところ、不器用なところ。
尊大な態度の下が純粋であること。
ジュリアスを好きだというオスカーが、よく似ているというロザリアを好きになるのは自然なことなのかもしれない。
気付けば夕暮れを過ぎ、辺りを薄闇が包んでいた。
ジュリアスはもう一度ため息をつくと、中断していた執務を再開したのだった。
残業を終えて帰途についたジュリアスは、疲れた体を引きずるようにシャワーを浴びた。
連日の執務で身体が鉛のように重く感じる。
それ以上に、心が重かった。
いつもジュリアスと同じくらいまで残っているロザリアが早々に帰宅しており、オスカーもいない。
今頃は二人で過ごしているのかと思うと、身体は眠りを欲しているはずなのに、少しも眠くならなかった。
夜着のまま、サイドボードからワインを取りだしたジュリアスは、コルクを開けようとして手をとめた。
いちいちコルクを開けることさえ、どうにも面倒に感じる。
ワインの瓶をそのままに、近くに並んでいたブランデーを取りだした。
スクリューキャップをまわして、すぐにグラスに注ぐと一気に飲み干す。
カッと喉を通る濃いアルコール。
カーテンを開けたままの窓から、眩しいほどの月明かりがさしこんでいる。
その光を浴びた緋色の髪を思い出して、ジュリアスは再び、グラスを満たした。
目を閉じても思い出してしまう、オスカーの姿。
ふいに目の奥に影が落ちた。
「ジュリアス様。」
声に驚いて目を開けると、月明かりを背にオスカーが立っていた。
「そなた、どこから入って来たのだ。」
叱責するような口調にオスカーは膝をついた。
「申し訳ありません。屋敷の者を起こすのも忍びなく、ここから。」
オスカーが指差したのはバルコニー。
身軽な彼ならば、これくらいの障壁は造作もないことだろう。
「何用だ。」
冷静に尋ねたつもりだった。心の中は動揺と驚きと何よりも会いに来てくれた嬉しさにあふれていたけれど。
言葉もなく、オスカーの手がジュリアスの頬へ伸びる。
そっと重ねられた唇はオスカーの炎そのままに熱を帯びていた。
逃れようと、顔をそむけた隙間からオスカーの舌が差し込まれると、ジュリアスもそれをからめ取るように受け入れる。
わずかに流れる風の音と混ざり合う、息遣い。
オスカーがようやく唇を離すと、ジュリアスはそのままオスカーの胸に倒れこむように寄り添った。
「お会いしたかった…。それだけではいけませんか?」
アイスブルーの瞳がジュリアスを捕らえている。
ふと、オスカーの後ろに浮かぶ月を見たジュリアスは、オスカーの胸を押し返した。
「…そなたが用があるのは私ではなかろう。早く行くがよい。」
オスカーから表情が見えないようにうつむいた。
足元に伸びるオスカーの影。まるで、灯りの下にでもいるようにはっきりと見える。
まばゆすぎる光に全て見透かされてしまいそうだ。
「ジュリアス様。やはり聞いていらしたのですね。」
オスカーの腕がさっきよりも強くジュリアスを抱き寄せる。
ジュリアスの瞳に困ったような、それでいて、嬉しげに唇の端をあげたオスカーが映った。
「なにがおかしい。盗み聞きをしたことを咎めるつもりなのか?」
ぎゅっと抱きしめられていると、オスカーのぬくもりが伝わってくる。
暖かくて、手放したくない。
オスカーが空を見ているのに気付いて、ジュリアスも顔をあげた。
鮮やかに光る、満月。
「この前会った時のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。」
あれからこうして会うことができなかったせいもあって、ジュリアスは鮮明に記憶していた。
「今月の初めだったな。急に忙しくなったのでよく覚えている。見事な満月の日だった。」
オスカーは抱いていた手を緩めると、ジュリアスの横に並び、空を指差した。
「ブルームーンと言うんです。同じ月に出る二度目の満月のことを。」
「ほう。初めて聞いた。」
「数年に一度しか見られない、貴重な月なんですよ。」
オスカーの瞳に月がきらめく。
きっと、夜空の向こうにはこんな綺麗な薄青が広がっているのだろうと思えるような、澄んだ色。
「ジュリアス様と見たいと思っていました。」
「だが、そなたはロザリアと約束していたではないか。」
つい、言ってしまった。
その言葉を聞いたとたんに、オスカーの頬が緩んだ。
「今頃、ロザリアはあいつと見ていると思いますよ。今夜のことを教えておきましたから。」
「どういうことだ?」
怪訝そうに眉をひそめたジュリアスの肩をオスカーが抱いた。
「ロザリアがあいつと夜を過ごす口実が欲しいと言ったので。それに。」
「それに?」
問いただすジュリアスにオスカーはますます嬉しそうな表情を浮かべた。
「ちょっとしたスパイスを与えたんです。あいつが嫉妬するように、わざとロザリアと一緒にいました。」
そこで言葉を切ったオスカーは、ジュリアスの顔を覗き込んだ。
ジュリアスがすぐに目をそらすと、オスカーが顔を近づけてくる。
「まさか、ジュリアス様が嫉妬してくださるなんて、俺にとっては嬉しい誤算でした。」
「嫉妬など…!」
していない、と言えばウソになる。
「いつも俺ばかり追いかけていますから。ジュリアス様の気持ちが少しわかって、嬉しいんです。」
「ばかな。」
私とて、いつもそなたのことを。
そう言えずに黙りこんだジュリアスにオスカーが囁いた。
「ブルームーンを見ると、幸せになれるという言い伝えがあるんです。だから、俺はジュリアス様と見たかった。」
どこまでも純粋で、率直な愛情。
不安を感じることが馬鹿馬鹿しく思える。
ジュリアスは微笑を浮かべると、オスカーの肩に頭を乗せた。
「美しいな。そなたと見る月は格別だ。」
オスカーの唇が近付いてくる。
輝くようなブルームーンは静かに恋人たちの夜を照らしていた。
FIN
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