月は静かに

投げたダーツの矢が弧を描いて的から大きく外れた。
「どうした?」
オリヴィエは肩をすくめて矢を抜くと、ヒールを鳴らしてオスカーの隣に座った。
ふぅと付いたため息が聞こえたのか、オスカーが親指で向こうの方をさした。
「あいつらか?」
最近店に現れるようになったグループが声高に話す声が聞こえる。
ボックス席を4,5人で占領してジャンジャン注文を繰り返す連中は店にとっても上客なのか、注意をするウェイターはいない。
ここまで聞こえてくる話声に二人は顔を見合わせた。

「補佐官様はどうだった?」

席を立ちかけたオリヴィエは思わぬ言葉に再び腰を下ろした。
オスカーもそのオリヴィエを見てグラスにもう一度酒を入れる。

「どうもこうも、すげーの。あんな顔してさ。毎晩だぜ。」

暗い店内ではっきり顔を見たことがなかったが、確かにそいつは近頃ロザリアとよく一緒にいた男だった。

「お嬢様だと思ったら声もでかいしよ。」
「俺が捨てて、今頃寂しがってるだろうからさ、声かけたら簡単についてくるんじゃねえの。」
わっと歓声が上がって、そのあとも聞くに堪えない卑猥な話が延々と続いた。

話題が変わって、やっとオリヴィエは席を立つ。
奴らにケンカを売りに行くんじゃないかとオスカーもあわてて後についたが、オリヴィエはさっさと店を出て行った。

細い月が薄闇にかすんでいる。
闇にぼんやりと金の髪が流れた。

「おい。」
肩をつかんで引き留めると、オリヴィエは静かな瞳でオスカーを見返した。
「なに?」
なにがあるわけでもない。
ただ、今の話がお互いに愉快ではなかっただろうというのは予想がついた。
「同僚の悪い話を聞くのはつらいな。」
オスカーが言うと、オリヴィエは唇の端をゆがめた。
「本当のことなら仕方ないんじゃないの?あんたなんかもっと言われてると思うけどね。」
ロザリアが次々と男を変えていることを聖殿の誰もが知っていた。
ただ、どんな付き合いをしているのかまでははっきり知らなかっただけ。
澄んだ瞳でオリヴィエを見つめていたロザリアは変わってしまったんだろう。
帰るともいわずに歩きだしたオリヴィエをオスカーは黙って見送った。


今日も残業になってしまった。
すでに深夜に近い時間にロザリアは聖殿を出た。
毎日山積みの仕事は考える時間を奪ってくれる。
わざと遠回りしてオリヴィエの家の前を通るこの時間だけでよかった。彼のことを考える時間は。
灯りがついていても、付いていなくても、その時は楽しかった女王試験のころのことを思い出す。
今日は明かりがついていない。
じっとその暗闇を見つめた後、家に向かって歩き出した。

少し向こうを歩いてくる人影に気づいて、オリヴィエは足をとめた。
向こうも気づいたのかぴたりと足をとめて、こちらをうかがっている。
「ロザリアじゃないか。こんなとこでなにしてんのさ。」
薄い月の明かりに浮かぶ彼女はまるで夢のように幻想的だ。これは夢?
オリヴィエの体の中で何かがどくりと音を立てた。
暗い中で彼女の表情は見えない。
さっと流れた雲間からのぞく月に一瞬以前と変わらぬ顔が浮かぶ。
聖殿からの帰りにしては明らかに不自然な道にロザリアはどうこたえるべきか困った。
二人の間に探るような沈黙が流れる。
その沈黙を先に破ったのはオリヴィエだった。

「ねえ、今から私の家に来ない?」
頷いてほしいのか、断わってほしいのかオリヴィエ自身にもわからなかった。
ただ、『声かけたら簡単についてくるんじゃねえの。』と言った男の言葉が頭の中で何度もこだました。
再び流れた雲に月が隠れると、辺りは闇に包まれる。
読みとれない暗闇のまま、ロザリアが頷くのがかすかに見えた。
その時感じた痛みは絶望によく似ているような気がした。

ロザリアの瞳がきらりと輝いた。
誘われて素直にうれしいと思う。
こんな時間に部屋へ行くということの意味を全く知らないわけではない。
でも、彼が望むのが自分ではないと、この胸に刺さる棘がいつでも教えてくれていたから。
ロザリアは腰にあてられたオリヴィエの手の熱さを意識しないようにするだけで精いっぱいだった。

部屋に着くと、明かりもつけずにオリヴィエはロザリアを抱きしめた。
静かな空気が震えて、熱い吐息が漏れる。
そのままベッドに連れ込むと背中のファスナーに手をかけた。
「オリヴィエ、やめてくださいませ。」
強く抱きしめられて、手を動かせないロザリアの口からおびえたような声がこぼれた。
小さくかすれたその声がどうしようもなく気持ちを高ぶらせる。
聞こえないふりをしてファスナーを下ろして、震えている彼女の肩をあらわにすると、そこに口づける。
闇の中で蒼い瞳が固まっているのが見えた。
まるで、今夜の月のように綺麗だ。
蒼い蒼い空に浮かぶ月を手に入れたくて必死に手を伸ばした幼いころを思い出す。
今もまだ、自分は目の前にある月を手に入れたくてもがいているのか。
無言のオリヴィエに何かを感じたのか、急に手足をばたつかせて抵抗しはじめた彼女の姿に自分の中が冷たくなるのを感じた。

あいつならよくて、私はイヤだって?

押し返そうとする手をベッドに押し付けた。
彼女を愛さないように必死に自分を抑えつけて、強引に脱がせていく。
朱を入れたように熱くなった頬も、白い体も、すべてが何度も夢に見た彼女のすべて。
ふとすれば甘くしてしまいそうな自分がいて、わざと痛めつけるように体中に痕をつけた。
それでも声一つあげない彼女に苛立つ。

慣れているはずなのに、なぜこんなにつらそうな顔をするんだろう。
私がそんなにイヤになった?
何かに耐えるようにグッと唇をかみしめた彼女をオリヴィエはそのまま奪った。

柔らかなベッドのスプリングが時折嫌な音を立ててきしむ。
かたい彼女の中が自分を拒絶しているようで、オリヴィエは何度も何度も繰り返した。
潤んだ青い瞳がじっと自分を見つめて、やがて気を失って睫毛を伏せても、オリヴィエは自分を止められなかった。


意識を取り戻したとき、ロザリアは自分が元のように服を着ていることに気付いた。
夢だったのかとも思ったが、尋常でない体の痛みが夢でないことを告げている。
ロザリアから離れたベッドの端にガウンを着たオリヴィエが座っていた。
暗いままの部屋で金の髪に隠れたオリヴィエの表情は見えない。

「あんた、初めてだったの?」

ロザリアが、はっとして身を起こすと、シーツに赤いしみができているのが目に入った。
かくせないそのしみにロザリアはかっと熱くなる。
彼女の影がゆっくりと頷くのを見て、オリヴィエは手のひらに自分の爪が食い込んでいく痛みを感じた。

「初めてだって知ってたら、こんなふうにあんたを抱いたりしなかった。」

オリヴィエは立ち上がるとそのまま部屋を出て行く。
取り残されたロザリアは、静かな部屋でただ座り込んでいた。
遊びなれた女だと思って声をかけたのに、実はただの小娘だったと知って失望したんだろうか。
気を失ってしまうなんて、なんてつまらない女だと思われたに違いない。

ロザリアはのろのろと立ち上がると初めて訪れたオリヴィエの部屋を眺めた。
彼のセンスでまとめられたインテリアは大人の雰囲気がする。
自分が全く異質な気がしてロザリアは部屋を飛び出した。
いつの間にか再び姿を現した細い月に蒼い影が歩いていくのが見える。
オリヴィエは窓に両手をついて、じっとその影を見送った。


次の日、ロザリアは執務を休んでいた。
急病と言う知らせが届いて、その日の会議は10人になる。
ロザリアがいないせいで、ぶっ飛んだ陛下を抑えられずに結局何も決まらないうちに散会になってしまった。

「熱があるらしいの。」
ロザリアの様子を訪ねたオスカーに陛下はそう答えた。
「大したことではないから、お見舞いには来ないでって。」
そういうところ頑固なのよね~、とぷっと膨らんだ陛下にオスカーは苦笑した。

昨夜、いつもよりはるかに遅く戻ってきたロザリアはふらふらとしているように見えた。
オリヴィエと別れた後、すでに帰宅したらしいロザリアの後を追ったが、どこにもいない。
仕方なく彼女の家の前で待っていたのだ。
遅く帰るロザリアが心配でいつも後ろから追いかけていたのに、昨夜に限って間にあわなかったことを後悔した。
あのときすでに熱があったのかもしれない。

花を持ったオスカーが出て行くのを、オリヴィエは見送った。
自分もきっと熱がある。
全てを奪ってから、彼女が初めてだったことを知った。
気を失った彼女の体を拭いていて、消えない痕を何度もなぞる。
おびえた瞳やかたい体を思いだして、優しくできなかった自分を責めた。
痛みに耐えた顔が目に浮かんでくる。
キスさえ、しなかった。
傷つけてしまったロザリアを思うと、なにもできない。
共に過ごして知った彼女よりも誰かの話を信じた自分がなによりも許せなかった。


ぼんやりとした日が過ぎていく。
一日休んだロザリアはいつもと変わらないように見えた。
優雅に微笑む姿も何も変わらない。
「なんだか雰囲気が変わったような気がしないか?」
オスカーの言葉にドキリとした。
彼女がそのソファに座って紅茶を飲んでいた時からまだそんなに日は経っていないというのに。


女王試験も中盤になると、それぞれにお気に入りの候補ができてくる。
ロザリアの一番の支持者は自他ともにオリヴィエだと思われていた。
今日も夢の執務室に来たロザリアはオリヴィエが淹れてくれた紅茶に口をつけた。
カップからふわりと立ち上る薔薇の香りにロザリアは微笑む。
「これは薔薇のジャムですの?」
さすが、と顔をほころばせてオリヴィエは言った。
「わざわざ取り寄せたんだよ。あんたにこうして飲ませたいと思ってね。少しいつもとちがうでしょ?」
薔薇の香りとともに甘い風味が口の中に広がって、まるでオリヴィエ様みたい、とロザリアは思った。
華やかで、甘くて、いつのまにか捕われてしまう。
自分の考えに顔を赤らめたロザリアをオリヴィエは面白そうに見つめた。

「私ね、好きな人がいるんだ。」 
そう言ったオリヴィエの言葉に彼女はこう答えた。
「そうなんですの?・・・オリヴィエ様に想われている方は幸せですわね。
わたくしも早く素敵な恋がしてみたいですわ。」
ふとカップの中に視線を落とすと、中に漂う花びらを目で追う。
顔をあげて、にっこりとほほ笑んだ顔にオリヴィエは自分の想いが届かなかったと思った。
動揺するわけでもなく、綺麗に形作られた唇のカーブでさえいつもと同じだったから。
「あんたなら、きっとできるよ。もし好きな男ができたら見せなよ。私が採点したげるから。」
想いを隠すことは、はっきり伝えるよりも簡単で、拒絶されることを恐れた自分はそれきり伝えようとしなかった。

初めてロザリアがアンジェリークに逆転されたとき、オリヴィエは彼女を湖に誘った。
嬉しそうに顔を赤らめたロザリアは、
「わたくしもオリヴィエ様にお話したいことがありますの。」と言った。
けれどその話を聞く前にアンジェリークの勝利で女王試験は終了した。
そして彼女は補佐官になって聖地に来て、また二人で過ごすことができると、なぜか当たり前のように思っていたのだ。

女王交代の忙しさにまぎれて、二人で話す機会はなかなか来ない。
しばらくしてオリヴィエが改めて聖地の湖にロザリアを誘うと、彼女は以前のように笑ってくれた。
「飛空都市より大きいですわね。」
聖地の湖は飛空都市のそれよりも大きくて静かだった。
太平の世のおかげでキラキラと輝く水面は穏やかにしぶきの光をつくっている。
「わたくし、好きな人がいますの。」
ロザリアが滝を眺めながら言った。
オリヴィエに顔を向けずにつぶやいたその言葉にしばらく滝の音だけが響く。
「ふーん。私に見せようってわけ?今から行ってもいいよ。誰なの? まさか守護聖だ、なんて言うんじゃないだろうね。」
変わらない口調になるように慎重に口に出した言葉はロザリアにどう聞こえただろう。
オリヴィエは滝の音で自分の心臓の音が消されたことに感謝した。
もし、静かな場所ならきっと何もかもわかってしまうに違いない。
『好きな人がいる』と言ったときにギュッと胸をつかまれた音や、思わず彼女に近づこうとして足元でたてた小石を踏む音が。
ふりかえった彼女は静かに微笑んでいた。
綺麗にカーブを描いた唇はいつかと同じで。
「冗談ですわ。もし、そういう方がいたら、あなたとここへは来ませんもの。」
それきり、二人で会わなかった。
そして、彼女が誰かと付き合いだして、すぐに別れた、という噂だけが耳を素通りするようになった。
あのときの笑顔の意味を今さら知ることはできない。


オリヴィエは目の前のカウンターに置かれたグラスになめるように口をつけた。
ほんの少し口を湿らせただけで喉がかっと熱くなるような強烈なスピリッツ。
透明な液体が小さなグラスからあふれそうに注がれている。
ぶわっと空気が揺れて数人のグループが店の中に入ってきた。
カンにさわるその声はあのときロザリアのことを話していた男だった。
いつものように男達は角のボックス席に座った。
とたんにカツ、というヒールの音が響いて男達の前のテーブルが宙を舞うと、その片隅に険悪な空気が流れる。
「なんだよ!」
あの男が声を上げると同時にオリヴィエはその体に拳を沈めた。
崩れ落ちそうになった体を悠々と受け止めると、
「こいつ、借りてくから。」 と、仲間に言い捨てて外へ連れ出していく。
オリヴィエの全身から漂う危険な雰囲気に誰ひとり声を出すことすらできずに見送った。

「ロザリアと寝たなんて嘘だろう?」
路面に転がした男の襟元をぐっと掴んでオリヴィエは徐々に力を込めた。
立て膝になって顔を男に近づけると、その綺麗な顔に滲む凶悪な色に男は色を失った。
うっと苦しげな息が漏れて男が目をそらした。
一発で意識を飛ばされかけた記憶ですでに争う気を失っているらしい。
「苦しい。」
と漏らした声にオリヴィエははっとしたように少し力を緩めた。
「あの女は俺と付き合うつもりなんてなかったんだよ。『好きになれるように努力する』なんて言いやがって、バカにしてるだろ?
キスもさせないんだぜ。お高く止まりやがって。」
吐き捨てるような言葉にオリヴィエの体がかっと熱くなる。
「他の奴らだってそうだ。あの女に振り回されて哀れなのは俺達の方だぜ。」
拳が男の顔を捕らえる。
綺麗にカラーされた爪が自分の手のひらを傷つけても、その痛みに気付かない。
手についた血がだれのものか自分でもわからなかった。
男が意識を飛ばしてもまだ抑えられなかった腕を後ろからつかまれる。

「もうやめろ。」
グッと振りおろそうとした腕は強い力に阻まれて、急に力が抜けた。
「それ以上はいいだろう?」
手を振り払って立ち上がると、オリヴィエは後ろにいた男を睨みつけた。
「美人が怒ると怖いな。」
おどけたように言う姿に自然と肩を落とした。
「なんで来たの。」
「お前が凶悪な顔をしてたからな。なんかやらかすんじゃないかと思ったのさ。・・・・かなりやったな。」
オリヴィエは倒れたままの男の横腹をヒールのつま先で蹴りつける。
金の髪に隠れた顔はゆがんでいるように見えた。

「おまえ、殴られたいのか?」
オスカーの声に振り向いたオリヴィエの瞳が揺れた。
「そんな奴じゃなく、俺に言え。・・・お前を殴れるのは俺くらいのもんだろう?」
ふっと下を向いたオリヴィエは歩き出すとすれ違いざまにオスカーの肩をたたいた。
「ありがと。そうだね。誰かに責めてほしかったんだ。・・・あんたに殴られるのはごめんだけどさ。」
顔が変わっちゃうよ、と笑いながら言うオリヴィエにオスカーは安堵した。
触れたら切りつけられそうだった空気が少し変わったような気がする。
まるで聖地に来たばかりの頃のような、なにもかも無関心なヤツに戻ってしまうのか、と最近のオリヴィエを見て思っていたから。
歩いていくオリヴィエの後ろ姿をオスカーはじっと見送った。


俺はあの二人にうまくいってほしいのか、別れてほしいのか。
倒れたままの男を横目にしながらオスカーは月を見上げた。
蒼い空に浮かぶ月はいつでも一人の女性を思い出させる。
光り輝く女王陛下のすぐそばで静かにたたずむ蒼い影。

「恋の忘れ方?」
「ええ、あなたならご存じではないかと思って。」
補佐官になってしばらくたったある日、彼女はそう言った。
新しい惑星の炎の力の関与について二人で検討している最中に何気なくでた言葉。
あまりにも普通でいつもの微笑みにただの冗談なのかとも思った。
「あなたはいつでも新しい恋をしてらっしゃるでしょう?・・・前の方のことは忘れてしまうのですか?」
まっすぐに見つめる蒼い瞳は何の感情も映していないように見える。

オリヴィエと何かあったのか?

きっとそうだろうと思った。
でもそう尋ねたら、彼女は涙を流すことになる。感情のない瞳の奥に溢れそうな涙が見えた。
気位の高い彼女は涙を見せることを許さない。そしてその涙を流させた俺をも許さないだろう。

「そうだな。新しい恋をすれば前のこと忘れてしまうものさ。」
「新しい恋・・・。」
「人生の中に『恋』を描き込むページは1ページしかない。だから恋をするたびにページは上書きされていくんだ。
愛はたくさんの人に与えられるが、恋は一人にしかできない。」
オスカーは彼女を見つめた。
「もし、忘れたい恋をしたら、新しい恋を探せばいい。それが忘れることになる。」
うつむいた彼女が顔を上げて、「ありがとう。」 と言った。
素直に微笑んだ顔がとても幼く見えて、オスカーは胸が痛くなる。
すぐに仕事の話に戻ると、彼女は部屋を出て行った。

全ての想いがかなうなら、人は哀しみも苦しみも知らずに生きていけるだろう。
だが、もし誰かが苦しまなければならないのだとしたら、それが彼女でなければいい。
全ての苦しみを俺が負うことになっても。

倒れていた男が意識を取り戻すのを見て、オスカーは声をかけた。
「今日のことは忘れろよ。・・・これからは口に気をつけるんだな。」
大きなけががないことを確認して立ち上がる。
頷いた男は這うようにして店に消えた。あとに残ったオスカーはまだ月を眺めていた。


真夜中の静けさは心地よい。
ロザリアは暗い道を歩いていた。
無意識のうちにでもたどるのはやはりこの道だった。
帰りたくなくてついこの時間まで聖殿に残ってしまった。
それでもこうしてあの人の家の前を通ることがやめられない。

今日も暗い。
近頃いつも家じゅうの明かりが消えている。あの日からずっと。

申し込まれた交際をロザリアは初めて断った。
新しい恋を知りたくて、何人もと付き合ってみたけれど、結局は同じ。
話をすることはできても、それ以上はできなかった。
呆れた相手から別れを切り出されても、素直に受け入れるロザリアを男達は恨んでいたのかもしれない。
いつの間にか「誰とでも簡単に付き合う」と言われていた。
それでも構わなかった。
いつか新しい恋ができれば、とそれだけを願っていたから。
「もう、誰ともお付き合いするつもりはありませんわ。」
断る理由はそれしかなかった。食い下がる男に美しいカーブを描いた唇がはっきりと告げた。
「好きな人がいるんですの。」
言葉にしてロザリアはようやくわかった。
新しい恋は必要ない。
いまでも、これからもずっと、自分のページには彼だけが書かれている。
想われているから『恋』なのではなくて、想うこともまた『恋』のひとつ。
忘れられないなら想い続けていればいい。
いつか恋というページが色あせる日まで。

人の気配に気づいて、オリヴィエは顔を上げた。
あれから毎日ここを通るロザリアを見ていた。
もし自分を責めることができるとしたらそれは彼女しかいないのに、向き合うことに逃げていた。
想いがあったからこそ抱いたのだと、それだけは伝えたい。
オリヴィエは歩いてきたロザリアの前に進み出た。
蒼い瞳がオリヴィエを捕らえると、驚いたように足をとめる。

「今から、私の部屋に来ない? ・・・どうしても話したいことがあるんだ。」
ロザリアの体がピクリと震えた。
あのときと同じように流れる雲がさっとはれて、月明かりにロザリアの姿が浮かび上がる。
蒼い月はやはり遠くにあるのだろうか。
少しの間の後に、ロザリアは頷いた。
それを見たオリヴィエは彼女のためにドアを開けて、部屋へと連れて行った。


灯りが必要ないくらいの月明かりがある。
今日は雲さえも帰ってしまったらしい。
「なんで、ついてきたの?」
オリヴィエは窓の前に立って、ロザリアを見つめた。
眩しい月明かりで彼の顔は見えない。光を受けた金の髪がキラキラと縁取られて輝いている。
「・・・・こないだみたいなことになるって思わないの?」
顔は見えないのに、オリヴィエが悲しい表情をしているような気がしてロザリアはじっと前を見つめた。
薄い明かりの中で彼女は清らかなまでに美しい。
「かまいませんわ。・・・あなたになら、抱かれてもいいと思いましたの。」
ロザリアは一歩前に近づいた。

「この間のことは・・・。おぼえておりませんわ。」
青紫の睫毛が悲しげに伏せられて、そしてもう一度、オリヴィエを見つめた。

「だから今度はおぼえていたいのです。あなたがわたくしを愛してくれる、その時を。この身だけでも愛して下さる、そのすべてを。」

人前で涙を流すことは自分が許さなかった。なのに今、なぜ自分は泣いているのだろう。
うつむいた瞳から涙がこぼれて床に落ちた。
キラキラと光を受けた涙が水晶の砂時計のように流れていく。

オリヴィエがロザリアの頬に触れた。
「愛してるんだ・・・。」
顔を上げたロザリアの涙が月明かりに真珠のように煌めいた。

「私を許してくれなくてもかまわない。あんたに憎まれても恨まれても、かまわない。
ただ、私はあんたを愛してる。この手に抱きたいと思うのは、あんただけなんだよ・・・。」

見つめあう瞳の中にお互いの姿が映る。ロザリアの唇が動いた。
「ずっとあなたしか見えませんの。あのときでさえ、わたくしは求められて嬉しかった。
わたくしのすべてがあなただけを愛しているのです。」

自分もずっと、彼女だけを見てきた。
同じ想いを抱えながら、なんて遠回りをしたのだろう。


頬に添えた手を彼女の背に回す。
動かないロザリアは自分を許してくれているのだろうか。
もう片方の手も彼女の背に触れると、ロザリアはその胸に静かに寄り添った。
ロザリアの耳にオリヴィエの鼓動が伝わる。
心を抱きしめることができた幸せをオリヴィエは彼女のぬくもりで感じていた。

「キスしていい?」
ロザリアは顔を上げると静かに瞳を閉じた。
いつも同じようなカーブを描いて微笑んだ唇が小さく震えているのが見える。
両手を顔に添えると、オリヴィエはその唇にそっと自分の唇を重ねた。
想いが伝わるように優しく重ねた後、彼女の上唇と下唇をついばむように柔らかく吸った。
思わず開いた隙間から与えるように舌を差し入れる。
囁くように動く舌先でロザリアは足が震えてオリヴィエにしがみついた。
オリヴィエは静かにロザリアを抱きあげると、ベッドに下ろした。

彼女の横に肘をついてキスを繰り返すと、ロザリアの両手がオリヴィエの背中を抱きしめる。
その手が震えていることに気づいて、オリヴィエは唇を離して彼女を見つめた。
「ごめんね。・・なにもしないから。」
傷つけてしまった後悔が胸を波立たせた。
金の髪が静かに光って、闇に溶けてしまうように見える。行かないでほしい。ロザリアはオリヴィエに手を伸ばした。
「わたくしを愛して下さいますか・・・?」
オリヴィエは微笑んで、ロザリアの髪をなでた。
そして耳に顔を近づけて囁く。
「今までも、これからも、あんただけを愛してる。私のすべてを受け取って。」
潤んだ瞳が頷いて、静かに閉じられる。
積もった想いを伝えるようにオリヴィエはロザリアを抱きしめた。
今日が彼女にとって初めての夜になるように。
甘い記憶として残るように、オリヴィエは心のままに優しく彼女を愛した。


一人たたずむ影が揺れた。
追いかけた彼女は愛しい人と夜を過ごすのだろう。
望んだ月は遠くの空できっといつまでも輝いている。もう手の届かない、美しい青い月。
彼女が幸せであればそれでいい。
消えていく影を隠すように雲が流れていく。
月はそれぞれを静かに照らしていた。


FIN
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