2週間ぶりに降り立った聖地は花の香りに満ちていた。
目に映るなだらかな稜線と目に見えない優しい風が、平穏というありふれた言葉を実感させてくれる。
タラップが金属音を出しながら、大きな体躯を聖地の土に下ろすと、滑車にひかれるようにシャトルは倉庫へと消えていく。
ここで降りるのは自分一人。
そもそもクルーというもの自体が存在しない旅。
オスカーは大きく息を吸い込むと、花の香りを肺腑に収めた。
数時間前までいた惑星にあったのは、錆びた鉄のような匂い、有機物が燃える匂い。
そんなものしか無くて。
目を閉じなくても浮かぶ病んだ世界を振り払うように、三度頭を振ると、オスカーは聖殿に歩きだした。
「陛下。ただいま戻りました。」
ピカピカに磨き上げられた床にひざまづくと、大剣がカツンと音を立てる。
ベールの向こうでふわふわと揺れる金の髪が嬉しそうに両手を叩いた。
「おかえりなさい。予定よりずいぶん早かったのね。大変だったでしょ?」
「いえ。すでに混乱は過ぎておりましたので、予想より早く進んだのではないかと。」
女王の前でこうべを垂れたまま、オスカーは礼儀正しく返答した。
玉座にいる間は、女王なのだ。
例え彼女が恋人の親友で、しばしば食事やデートをともにする少女だとしても。
「うふ。そんなコト言って。ホントは早くロザリアに会いたいからなんでしょ!仕事が早いのはイイことだもの。しばらくお休みしてもいいのよ。」
「嬉しいお言葉ですね。…では、補佐官殿にも休暇を?」
「それはダメ!! と言いたいところだけど。いいわ。一日くらいなら。」
「今のお言葉、たしかに受け取りました。ありがとうございます。」
久しぶりに会えた恋人同士を邪魔するほど野暮ではないと、女王はコロコロと笑った。
屈託のない様子は女王の美点ではあるけれど。
オスカーは立ち上がるとマントを翻した。
いささか大仰な行動も、彼がやれば映画のワンシーンのように決まるから不思議だ。
カツカツと長靴を鳴らしたオスカーの背に女王が声をかけた。
「ロザリアなら、たぶん研究院よ。帰ってくるって教えてあげたらいいのに。」
ブツブツと口の中でなにやら繰り返している女王に向かって、オスカーは振り返り一礼をすると、宮殿を後にした。
研究院へ向かおうと小道を行くと、脇に鮮やかな花が咲いているのが目に入った。
茶色い花芯の周りを黄色の花弁が縁取っている。
痩せた土地でも育つ丈夫な花だと教えてくれたのは、ロザリアだった。
「君にはもっと別の花がふさわしいだろう?たとえば薔薇のような。」
美しい彼女を薔薇に例える者は多い。
オスカーもそれに異論はなく、彼女に薔薇を捧げることが少なくなかった。
「でも、この花も好きなんですの。咲いている間、太陽の方へ顔を向けるんですのよ。とてもおもしろいと思いませんこと?」
「そうなのか。」
「それに、痩せた土地でも育ちますし、土壌をキレイにしてくれる作用もあると言いますわ。とても立派な花なんですの。」
腕に抱えた黄色い花のブーケを大事そうに見つめながら、彼女はそう言って微笑んだ。
愛おしさで、思わず胸に抱えられた花にさえ嫉妬したオスカーは、彼女からブーケを奪うと、顎を捕らえ口づけをした。
強引な行為にロザリアが睨みつけたけれど、そんな顔も可愛らしいと言えば、すぐに頬を染める。
たわいもない日常。
それはあの惑星へ向かう少し前の出来事だった。
いつのまにかじっと花を見つめていたオスカーの脳裏に、今度は小さな少女の顔が浮かぶ。
「花を。」
幾日も洗っていないだろう煤けた顔と、ひょろ長いばかりの手足。
オスカーに差し出した黄色い花は色あせた紙を継ぎはぎにした不格好な出来栄えだった。
「花は、いかがですか?」
曲がったコンクリの破片から付きでる鉄線や、砕け散った石くれ。昼でも薄暗いのはあちこちで上がる煙のせい。
花どころか、その惑星は色さえもなくしていた。
「どこから来たんだ? ここは危険だ。早く逃げろ。」
まだこの場所にこんな小さな子供がいたことに驚いたオスカーは、近づくと膝をついて少女の頭をなでた。
少しくすぐったそうにしただけの少女は何も答えない。目の光が、淀んでいた。
「もうすぐここは・・・。」
言いかけて、空気が変わったことに気づく。
そもそもこんな場所に子供が一人でいるはずがない。もし子供がいるとすれば、その存在を必要とする何かがあるということだ。
子供相手では、誰でも油断する。
ゆらりと、餓えた獣のようなにおいがして、影が飛んだ。
光る先端がオスカーの身体をかすめると、いくつかの人影が浮かび上がる。
「何か持ってんだろ?大人しく渡せ。ではければ殺す。」
滲みでる荒んだ空気は、この惑星全体を覆うものと同じだ。
「強さ」というサクリアのなれの果て。
ならばその力に殺されるのも、自業自得ではないか、とオスカーは薄笑いを浮かべた。
必要のないサクリアはない。だが過ぎたサクリアが悪を与えるのは自分のモノだけではないのか。
自身に問いかけても、答えはいつも見つからない。
背後の子供が人影の奥に消える。
囲まれたオスカーはわきから剣を抜くと、一閃、刃を薙いだ。
目の前の黄色い花が風に揺れる。
少女が持っていた花は、あの時、どこへ消えたのだろう。
オスカーは身体の向きを変えると、研究院とは別の方向へ足を踏み出したのだった。
耳にした物音にオスカーは重いまぶたを持ち上げた。
結局私邸へ戻ってきて、そのまま眠ってしまったらしい。
帰った時と同じ格好をしている自分に苦笑して、オスカーは上半身を起こした。
重いモノを吐き出して、せいせいしたとばかりにソファが軋む。
窓の外はすでに夕闇が訪れていて、開けたままだった窓を閉めようと、ロザリアが手を伸ばしているのが見えた。
「ごめんなさい。起こしてしまったわね。」
窓にカギをかけ、カーテンを閉める。
久しぶりに灯したせいか、ランプが数回暗く瞬きをした。
「おかえりなさい。」
青い瞳が優しく微笑んで、オスカーの傍らに座った。
柔らかな青紫の巻き毛、白い顔にほのかに色づく唇。
ロザリアから香る甘い香りに思わずオスカーは手を伸ばした。
彼女の体に触れようとした瞬間、テーブルの花瓶に活けられた黄色い花が目に入る。
瞬時に蘇る錆びた匂い。
この手は。この手が。
彼女を抱くのに、ふさわしいのか。
全身が粟立つような感覚にオスカーの動きが止まると、口づけを待って瞳を閉じていたロザリアが目を開けた。
「すまない。先にシャワーを浴びさせてくれないか。」
立ち上がろうとしたオスカーの手をロザリアが繋ぎとめた。
「わたくしはあなたの手が好き。」
オスカーの右手をロザリアは両手で包みこんだ。
「わたくしや、宇宙をいつでも守ってくださるわ。」
大きな手はそれでも包みきることができず、ロザリアは隙間を埋めるように、お互いの指を絡めた。
オスカーの手に白い花が咲く。
赤黒く染まったその手を浄化するように。
「大丈夫。あなたは正しい事をなさっていますわ。誰も救うことのできなかったあの星に、永遠の安らぎを与えたのだから。」
あたたかな命の鼓動がオスカーに流れてくると、今にも冷えて凍りつきそうだった手が彼女の温度に同化し、息を吹き返した。
「この手で、わたくしを愛して。」
自分の存在が間違っていないと、その言葉を聞きたかったのかもしれない。
「ありがとう。」
オスカーはつぶやくと、左手をロザリアの手に重ねた。
一人では重すぎる事も、こうして分け合うことができる。
「陛下から明日は休暇をもらった。…一緒にいてくれるだろう?」
「ええ。わたくしも、あなたのそばにいたいわ。」
ロザリアは青い瞳をまっすぐに向け、オスカーを見つめている。
「あの花のように、あなただけを見ていたいの。」
もう一度瞳を閉じたロザリアに、オスカーがそっと唇を落とすと、黄色い花びらが小さく揺れていた。