もしも願いが叶うなら

1.

いつものように晴れ渡った青空の下。
補佐官ロザリアは、研究院からの帰り道、どこかからか聞こえてくる小さな声に、足をとめた。
風にまぎれて途切れ途切れではあるものの、確かに何かが聞こえてくる。
しかも、よくよく耳を澄ませば、「た、助けて…。」と、放っておけないような言葉。
小さな声をたどるように、ロザリアは生け垣を掻き分けて進んでみた。
垣根の向こうは緑の芝生が広がる中庭だ。
見通しのいいその場所に、ロザリアはきょろきょろと目を配った。
「助けて…。」
確かに声は近付いているのに、中庭にはなんの姿もない。
「誰ですの?どこにいるのかしら?」
声に出してみると、足元の葉がかさかさと揺れた。

「にゃー。」
真っ黒な猫が足から血を流して、よろよろと歩いている。
思わず猫を抱えあげたロザリアは、その傷に顔をしかめた。
「まあ、こんなに酷いけがを…。手当をしてあげましょうね。」
「にゃー、にゃー。」
黒い毛に包まれた金色の瞳がきらりと光る。
闇に浮かぶ金の月のように、昼間でもどこか夜を宿したような姿だ。
すらりとして手入れの行き届いた様子からして、おそらく飼い猫なのだろうけれど。
「きっと痛いんですのね。」
もともと猫が大好きなロザリアは、そのまま猫を抱いて、私邸へと連れ帰ることにした。
おかげで、さっきの不思議な声のことは、すっかり頭から消え去ってしまったのだった。



「あんた、猫を拾ったんだって?」
わいわいと騒がしいお茶の時間。
補佐官室で毎日のように行われているティータイムは、今日も大盛況だ。
ティースタンドに山と盛られたお菓子も瞬く間に消えていく。
テーブルの傍で紅茶を注いでいたロザリアは、オリヴィエに声をかけられると、一瞬、手が震え、ソーサーに紅茶をこぼしてしまった。
彼の声を聞くだけで、知らずに高くなる鼓動。
隠そうとしなければ、きっとこの紅茶のようにあふれてしまう。
ロザリアは何事もなかったようにポットを置くと、オリヴィエの方へ振り返った。
「ええ。足に酷いけがをしていたので、連れて帰ったんですの。きっと飼い猫だと思ったのですけれど、飼い主が現れませんのよ。
ひょっとして、捨てられてしまったのかもしれませんわね。」

毛並みもよく、どこか気品のある猫の姿を思い浮かべながら、ロザリアは紅茶を口に含んだ。
猫を拾い、手当をしたあの日から、すでに10日以上経っている。
ロザリアはすぐに飼い主を探す手配を始めたが、いまだに名乗り上げる者はいなかった。
聖地という特殊な空間を考えれば、飼い主は必ずこの中にいるはず。
それなのに現れないということは、もしかすると、最近聖地を去った誰かがそのまま置いていったのかもしれない。
名簿を当たってみればいいのかもしれないが、もうロザリアにはそこまでする気は残っていなかった。
ようするに、飼い主が現れないならそれでもいいと思っているのだ。

「見に行ってもいい? 私、猫、大好きなんだよね。」
「まあ、それは知りませんでしたわ。」
オリヴィエのことなら大抵のことは知っていると思っていたのに。
そう考えて、すぐにロザリアの体温がさっと上がり、その考えが間違いだと思い当たった。
自分はまだ、彼が誰を想っているのかさえ、知らない。
「猫ってさ、仲良くなるまですごく警戒するのに、一回仲良くなると、すっごく懐いてくれるんだよね。
ちょっとプライド高そうなとことかも、可愛いって思っちゃう。」
意味ありげに投げかけられた視線にロザリアの鼓動がまた高くなった。
綺麗に縁取られたダークブルーの瞳に、目を逸らすことしかできなくなってしまう。

「ええ、そうですわね。あの子も最初はとても警戒していましたのよ。でも、このごろはわたくしのベッドでなければ寝なくなってしまいましたわ。」
「一緒に寝てるの?」
「ええ。いつもそっと中に入ってくるんですのよ。追い出すこともできなくて。」
「…あのさ、猫ちゃんは女の子?」
「いいえ、男の子ですけれど…。それがなにか?」
「ふーん。…なんか…。まあ、いいけど。」
オリヴィエはふっと吐息をこぼすと、ロザリアに向かって微笑んだ。
「今度の日の曜日とかどう?午後から空いてるんだけど、猫ちゃんを見せてもらってもいい?」
「えっ。」
思わず出た大声にロザリアはハッと口を押さえた。
猫を見に来るということは、屋敷に来るということに違いない。
日の曜日は使用人もいないから、屋敷に二人きりになってしまう。
深い意味はない、ただ猫を見に来るだけ。
そう頭では理解しているのに、勝手にまた鼓動が高くなってくる。
言葉に詰まり、ロザリアはただ頷いた。

「ね!ロザリア!」
突然背後からアンジェリークが飛びついてきて、ロザリアの口にガレットのかけらを押しこんできた。
「これ、おいしいよねー! マルセルが買ってきてくれたのよ!」
「陛下!はしたない行動は慎んでくださいませんこと?」
いつものやり取りを繰り返しているうちに、オリヴィエはどこかへ行ってしまっていた。
今度の日の曜日。
土の曜日にはアンジェリークと約束があったが、運よく日の曜日は何の予定もない。
皆が去った後、カップを片づけながら、ロザリアはそっと胸を押さえたのだった。



そわそわと時計を見ると、さっきからまだ3分しかたっていない。
ロザリアはもう一度髪にブラシを入れると、鏡の前で笑顔を作った。
緊張のせいか、指先が冷たくなってくるような気さえして、指を握っては開いてみる。
お茶とお菓子の準備も万全。
猫にもブラシを入れ、首にリボンも結んだ。
あまりブラッシングが好きではないはずなのに、昨夜はおとなしくロザリアの膝に抱かれていた。
「明日は、大切な方があなたを見に来るの。だから、いい子になさってね。」
そう語りかけると、金色の瞳をくるくるさせながら小さく「にゃおん。」と鳴いた。
立ったり座ったりを繰り返すロザリアに、猫も落ち着かないのか、同じようにうろうろしている。
その姿が可愛くて、思わず抱き上げた途端、玄関のベルが鳴った。

「こんにちは。来ちゃったよ。」
ドアを開けると、そこにはオリヴィエが立っていた。
私服の彼は思ったよりもラフな格好だったが、きらびやかなストールや幾重にもまいた大ぶりなネックレスがやはりおしゃれな雰囲気だ。
七分袖から覗く彫刻のような手が美しい。
見惚れそうになって、一瞬、かっと体温が上がる。
女王試験のころ、当たり前のようにしていたデートが、今はこんなにも落ち着かないなんて。
一呼吸おいて、ようやく言葉が出た。
「いらっしゃいませ。」
お待ちしていましたわ、と言いかけて、オリヴィエの背後の影にようやく気がついた。

「こんにちは!ロザリア!」
ひょっこりとのぞく金色の髪。
にっこりと笑うマルセルの隣にはランディもいる。
「途中で会っちゃってさ。この子たちもあんたの猫ちゃんが見たいって言うんだけど、いい?」
肩をすくめたオリヴィエと二人を交互に眺めたロザリアは、がっかりした気持ちを押さえるように微笑んだ。
「もちろんですわ。どうぞ、お入りになって。」
ロザリアの声に二人が手を叩く。
そのせいで、オリヴィエがついた小さなため息はかき消されてしまった。
「やった!きっと可愛いんだろうな~。」
「俺はちょっと猫って怖いんだけどね。」
リビングに3人を招き入れると、猫が「にゃーおん。」と不思議そうな声で鳴いた。

「ねえ、この子の名前はなんていうの?」
猫はオリヴィエの膝の上で丸くなり、ごろごろと喉を鳴らしている。
いつもなら動物に一番に好かれるマルセルが、残念そうに猫の頭を撫でた。
「ノワール、とつけましたの。」
「たしかに真っ黒だもんね。イイ名前じゃない?」
ノワールはオリヴィエの声に反応するように、ついっと顔を上げた。
ざらざらした舌がオリヴィエの手を舐めている。

「お茶の準備をしてきますわね。」
コンロに置いてあったケトルに火をつけて、中の水が少ないことに気づいた。
二人分しか用意していなかった茶葉を増やし、ケーキももう一度切り分ていく。
「わたくしったら…。」
てっきりオリヴィエが一人で来ると思いこんでいた。
二人きりの私邸でのデート。
もしかすると…と、淡い期待をしてしまっていたことが恥ずかしい。
途中で会った、と言っていたが、最初からそのつもりだったのだろう。
マルセルとランディの私邸はロザリアとは反対の方角だから、よほどのことでもない限り、偶然出くわす可能性は低い。
「本当にバカですわ…。」
女性の屋敷に一人で来るほど、オリヴィエは思慮の浅い人間ではない。
ましてや好きでもない女性と噂になるような行為をするような。
自分の考えに、目頭が熱くなったけれど、泣いている顔を見られるわけにはいかない。
その時、にゃー、とノワールが大きな声で鳴くのが聞こえて、ロザリアはあわてて目を押さえると、お茶を皆のもとへと運んだ。

悲しい気持ちはあっても、大勢で話をするのは楽しい。
あっという間に時間は過ぎ、日が傾きかけたころ、ノワールがあくびをして丸くなったのを合図に、 3人は帰って行った。
玄関先で手を振るロザリアをオリヴィエが何度か振り返る。
けれど、眩しい西日のせいで、お互いの表情は見えなかった。


一日が終わり、ベッドに座ったロザリアの膝にノワールが丸くなった。
黒いつやつやした毛に手を乗せると、ほんのりとぬくもりが伝わってくる。
毛並みに沿うように撫でていると、ごろごろと喉の鳴る音が聞こえた。
「ノワール、今日はいい子にしてくれてありがとう。…でも、あなたが羨ましかったわ。」
金色の瞳が不思議そうに丸くなる。
「あの方にたくさん撫でてもらっていたでしょう? わたくしでは、あんなふうに近くにはいけませんもの。」
「にゃー。」
不本意だ、と言わんばかりの鳴き声にロザリアは微笑んだ。

爪を立てたノワールを抱き上げると、ちょうどテーブルの上の箱が目に入る。
紫の大きなシフォンのリボンの結ばれた、ワイン色の箱。
昨日、アンジェリークと一緒につい買ってしまったチョコレートだ。
実は今まで一度も、ロザリアはバレンタインにチョコレートを渡したことがなかった。
女子校育ちで義理チョコを渡す相手もなく、父親は甘いチョコレートよりもロザリアのバイオリンを聞くことを望んだ。
アンジェリークに付き添いをせがまれて、しぶしぶ行ったお店で目を引いたのが、このチョコレート。
紫のグラデーションの箱も、赤白それぞれのワインの入った濃厚なチョコレートも、全てがオリヴィエらしい気がして。

明日のバレンタインに、思い切って渡してみようか。
朝まではそう思っていたけれど、今は。
腕の中で、猫はおとなしく抱かれている。
ロザリアは頭を撫でながら、呟いた。
「あの方がわたくしを好きになってくださる魔法があればいいのに…。」
そうしたら、こんなに悩んだりしないのに。
自分の言葉に苦笑して、ロザリアはベッドにもぐりこんだ。



「ロザリア。」
耳元で呼ぶ声に、ロザリアは跳ね起きた。
外はまだ暗いようで、カーテンからは薄い月明かりが覗いているだけだ。
目を開けて、一番に飛び込んできた人影にロザリアは一瞬茫然として、すぐに声を上げようと口を開きかけた。
声が出る寸前で、目の前の少年の掌がロザリアの頭に触れる。
「僕だよ。わからない?」
黒い髪。そして何より見事な金色の瞳。
確かに人間の姿をしているのに、そのしなやかな雰囲気は見覚えのあるものだった。

「ノワール…?」
少年は金色の瞳を楽しそうに歪め、ロザリアの頭を撫でた。
「そう。いつもこうして撫でてくれるから、今日はお返しだよ。」
柔らかな掌が数回撫でた後、頭から頬へと降りてくる。
その心地よさに、ロザリアは自然に彼がノワールだということを受け入れていた。
もともと聖地ではなにが起こっても不思議ではない。
猫が人間になったところで、特に驚くことなどないのかもしれない。…もうベッドで一緒に眠るわけにはいかないけれど。

「僕はね、魔法使いなんだ。でもちょっとしたトラブルで怪我をしてしまって、魔法が使えなくなってた。
もし貴女が助けてくれなかったら、ここで死んじゃってたかもね。」
「まあ、そうだったんですの…。」
飼い主が現れないのも無理はない。
「ホントはまだ、全回復したわけじゃないんだけど…。貴女の願いくらいなら、叶えてあげられる。」
「わたくしの願い?」

「…彼のことが好き?彼の心が欲しいって、望んでいたでしょう?」
ロザリアの胸が早鐘のように鼓動を打ち鳴らし始める。
ノワールにはなんでも話してしまっているから、今さら隠せるはずはない。
「ねえ、アレ。なにかわかる?」
指さす方を見ると、ロザリアの買ったチョコレートの隣にもうひとつ箱が増えていた。
真っ黒な箱に金のリボン。
まるで、ノワールのような小さな箱。

「あのチョコレートを彼に食べさせれば、彼の心は貴女のモノになる。貴女だけを見るようになる。」
魅惑的な言葉にロザリアの目は吸い寄せられるように黒い箱にくぎ付けになった。
「そんな…。信じられませんわ。」
「信じられないなら、食べさせてみればいいよ。僕はね、貴女の願いを叶えたいだけなんだ。」
ノワールの金の瞳が、ロザリアを優しく見つめ返している。
暗闇に浮かぶ、太陽のように暖かな金の光。
きっとこれは夢。自分の願いが見せる夢なのだ。

気がつけば、小鳥のさえずりが聞こえてきていた。
目を覚めして手を伸ばせば、枕のすぐ下に、ノワールのつやつやした背中が触れる。
しなやかな猫の体は呼吸するたびに丸く膨らみ、暖かな温度が伝わってくるようだ。
いつも通りの朝の景色。
やはり夢だったのだと、ロザリアは小さくため息をついた。
『想いの叶うチョコレート』
そんなものがあるはずはないのに。
夢に見るほど願ってしまうのは、きっとこの想いが届かないと心のどこかで思っているのだろう。

ベッドから降りて、ふとテーブルに目をやれば、小さな箱が二つ並んでいた。
ワイン色の箱と、もう一つ。
黒い箱。
「まさか…?」
たしかに夢と言うにはリアルすぎた。会話の一つ一つも、目の前にある金のリボンをつけた箱も。
「ノワール…。」
猫はまだベッドの同じ位置で、小さく丸まっている。
ロザリアは黒い箱を手に取ると、聖殿へと向かったのだった。




バレンタインの聖殿は、見えないハートの飛び交う不思議な空間に変わっていた。
数で勝負をする者、たった一つを待っている者。
老若男女関係なく、チョコレートの魔力に酔っているようだ。
ロザリアは聖殿につくと、一番に、オリヴィエの執務室のドアをノックした。
もしかしたら、もう誰かからチョコレートを受け取っているかもしれない。
最悪なパターンとして、受け取りを拒否されるかもしれない。
でも、もしもあの夢が真実なら。
オリヴィエはいつも通りの笑顔で、ロザリアを部屋へと招き入れた。


緊張した面持ちのロザリアを見て、オリヴィエも呼吸が苦しくなるような気がした。
今日が何の日かを知らないはずもない。
バレンタインデー。
女王アンジェリークと一緒にチョコレートを買いに行ったことは、情報として知っていた。
その時彼女が買ったのがたった一つだ、ということも知っている。
ロザリアが誰にそれを渡すつもりなのか、と考えただけで、胃が痛くなったくらいだ。

昨日、本当は二人で過ごすつもりだったのに、偶然、マルセルたちに会ってしまった。
なんとか上手く巻いてしまおうと思ったが、この道の行く先はロザリアの家くらいしかない。
変に勘ぐられ、噂されるのも、彼女に申し訳ないと思い、一緒に猫を見る羽目になってしまった。
ノワールと名付けられた黒猫はオリヴィエを気に入ってくれたようで、ずっと膝にいてくれたが、彼女はどう思っただろう。
ドアを開けた瞬間の嬉しそうな顔と、その後のがっかりした顔が、どうにもオリヴィエの期待を掻き立てる。
もしかして、彼女も二人で会いたいと思ってくれていたのではないかと。

「あの…。いえ、おはようございます。オリヴィエ。」
いつになく硬いロザリアの声。緊張が伝わってきて、別の意味でドキドキしてしまう。
「おはよう。どうしたの?こんなに早く?」
自分の声も上ずっている、とオリヴィエは苦笑した。
天使が通り過ぎる一瞬。
ロザリアの青い瞳がじっとオリヴィエを見つめる。
形のよい唇から言葉がこぼれた。
「今日はバレンタインでしょう?あなたにチョコレートを持ってきましたの。」
その言葉をどれほど望んでいたか、彼女は知らないだろう。

ロザリアが差し出したのは、大きな金のリボンのかかった黒い箱。
どこか危険な香りを感じて、一瞬、躊躇した。
けれど、ロザリアがチョコレートをくれた、という喜びがその危険な香りを弱らせてしまったのかもしれない。
身体が勝手に、黒い箱を受け取っていた。
「ありがとう。すごくうれしいよ。」
素直にそう言うと、ロザリアは頬を真っ赤にして、こくん、と頷いた。
愛おしい仕草を抱きしめたくなる手をぐっとこらえ、オリヴィエは笑顔を作った。
「後でいただくよ。…ホントにありがと。」
このチョコレートの意味を知りたい。
ただの義理なのか、それとも。
けれど、オリヴィエが次の言葉を出す暇もなく、ロザリアは「必ず食べてくださいませね。できれば、今日中に。」と、念を押して、出て行ってしまった。
かすかな薔薇の香りだけを残して。

手の中の箱をじっと見つめていたオリヴィエは、誘われるように、金のリボンをほどいた。
中のチョコレートはたった一つ。
真っ黒に光ったコインほどの大きさのハート。
特有の艶が上質な風味を醸し出している。
オリヴィエはチョコレートをつまみあげると、口の中に放り込んだ。
甘い、それでいて、しっかりと苦みのある、まろやかなカカオ。
雪が溶けるようにチョコレートはなめらかに溶けていく。
口中全体で、その見事な味を堪能した。
今まで食べたチョコレートの中で一番おいしい。
彼女がくれた、という付加価値だけで、そう思うわけではなく、今まで味わったことのない、不思議な感覚がする。
全て飲み込んで、息を吐くと、突然、めまいがした。
オリヴィエは机に手をつくと、長い睫毛を伏せ、深呼吸を繰り返したのだった。


古い置時計の刻む音だけが部屋に響いている。
ロザリアは補佐官室で黙々とペンを走らせながら、窓の外を見た。
いつになく足早に空を走る雲。
常春の聖地で、唯一雲だけが形を変えて、心の中を映し出してくれる。

あのチョコレートを、もうオリヴィエは食べただろうか。
夢だと思いながら、どこかで真実であればいい、と期待している。
ぼんやりとしていたロザリアの耳に激しくドアを叩く音が聞こえた。

「ロザリア!」
ドアを開けた瞬間、包み込まれた暖かな腕。
耳元で何度も名前を呼ぶ甘い声。
あまりにも驚いたロザリアは腕から逃れることも忘れて、棒のように立ちすくんだ。
全身を駆け巡るオリヴィエの華やかな香りに、一瞬、何も考えられなくなってしまう。
思わず、手を彼の背に回すと、一層強く抱きしめられた。
「好きだよ。ロザリア。」
呪文のように、オリヴィエが囁いた。

「好きで好きでたまんないんだ。ねえ、あんたは私をどう思ってるの?」
甘い輝きをたたえたダークブルーの瞳がじっとロザリアを見つめている。
この瞳に自分だけを映したい。その願いが、今、こうして叶っている。
もしこれが魔法の力だとしたら、それはなんと甘美なものなのだろう。
「好き…。あなたをずっと好きでしたの。」
ロザリアは腕に力を込めた。
目の前に広がるオリヴィエの胸に、ぎゅっと頬を押しあてると、彼の鼓動が聞こえてくる。
自分と同じように、少し早い。
「これからはずっと一緒だよ。」
オリヴィエの細く綺麗な指がロザリアの頬に触れた。
ロザリアは頬を染めると、暖かな腕の中で小さく頷いたのだった。


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