柔らかな束縛

1.

うららかな春のような穏やかな空。
不安定だった時期を通り過ぎた聖獣の宇宙は、ようやく落ち着きを取り戻し、この気候のように穏やかな日々が続いている。
次元回廊を抜けたロザリアは、目の前に広がる美しい青空に目を細めた。
ふんわり浮かんだふわふわの雲と穏やかな日差し。
天気までが今日のデートを祝福してくれているようで、ロザリアの顔は自然とほころんでしまう。
ステップを踏むように早足で小道を行くと、爽やかな風がスカートの裾を揺らし、長い髪が靡いていく。
早く彼に会いたい。
いつの間にか駈け出していた。


乱れた息を玄関前で整えたロザリアは、優雅な動作でドアをノックした。
返事はなかったが、いつも通り、ドアを開け、中へ入っていく。
ここを訪れるのも、もう何度目になるだろう。
何もない週末を二人で過ごすことは、最早、暗黙の了解になっている。

いつからそうなったのか。 どうしてそうなったのか。
ロザリア自身もはっきりと覚えていない。
だから、二人の関係が皆に知れるところになった時、アンジェリークをはじめ、ずいぶん驚かれた。
「ホントに?なんで?! フランシスのどこが?!」
目を丸くしたアンジェリークにロザリアも絶句した。
「…なぜかしら?」

いつの間にか囚われていた。
聖獣の宇宙に立ち寄るたびに、フランシスに誘われてお茶を飲んだり、薔薇園を散歩したり。
彼と過ごす時間は驚くほど優しくて、満ち足りていた。
そして、なんとなく気が付いたら、ロザリアの心の真ん中でフランシスがほほ笑んでいたのだ。

「まんまとしてやられたってことね…。 さっさと手を出しちゃっとけばよかったのに…。」
「え?」 
アンジェリークのため息にロザリアは首をかしげた。
なんだかよくわからないけれど、アンジェリークはフランシスを面白く思っていないらしい。
ロザリアにしてみれば不思議なことなのだが。

リビングへ行くと、フランシスは窓辺のチェアに腰を下ろし、静かに本のページをめくっている。
香りのよい紅茶の入ったカップから湯気が立ちのぼっていた。


「いらっしゃいませ。私のレディ。」
本にしおりを挟み、テーブルに置くと、フランシスは立ち上がり、ロザリアを出迎えた。
「貴女を待つ時間がどれほど長く思えたことか…。 この本に永遠の魔法をかけられているのかと思いました…。」
彼の詩のような言葉は耳に心地よい。
美しい言葉と囁くような声が、まるで音楽のように、ロザリアを蕩かせる。
「わたくしも。 あなたに会いたかったですわ。」
ふわりと、頬に唇を寄せ、恋人同士の軽い挨拶を交わす。
そして、フランシスはロザリアのためにも彼と同じ紅茶を用意してくれた。

花の香りの紅茶は、ロザリアのお気に入りだ。
以前、ロザリアの私邸でこの紅茶を出して以来、彼も気に入ってくれたのか、ここにも置かれるようになった。
「美味しいですわ。 フランシスは紅茶を淹れるのが、とてもお上手。」
「…以前の私は、それほどでもありませんでしたよ…?」
「まあ、信じられませんわ。」
「貴女のために練習した…と言ったら、信じてくださいますか?」

優雅に笑うフランシスの口調は、冗談とも本当ともつかない。
「そうおっしゃるなら信じるしかないじゃありませんの。」
実際、彼は紅茶にとても詳しいから、聖地に来る前から嗜んでいたに違いない。
悪く言えば、彼はとても嘘つきなのだ。
なにを言っても、なにをしても、フランシスは顔色一つ変えない。
わずかに眉を寄せ、優しく微笑むだけ。


「…綺麗なネックレスですね。貴女の青い瞳にとてもよく似合っています…。」
たわいもない話の合間に、フランシスはロザリアの胸元を見つめた。
初めて見るネックレス。
シルバーの細いチェーンに、細かな細工の青い石がちりばめられている。
宝飾品にはそれほど自信のないフランシスが見ても、かなりの価値のあるものだとわかった。

「気がつきまして? オリヴィエにいただいたんですの。
 本当に素敵で、わたくし、遠慮したんですけれど、どうしても、って押し切られてしまって。」
「オリヴィエ様が…。さすがですね。 本当に貴女の瞳によく似合っています…。」
フランシスは瞳を細め、わずかに微笑んでいる。
思わずロザリアはため息をついた。

「時々、わたくし、わからなくなりますわ。」
「なにがでしょう?」
「フランシスは本当にわたくしを想っていて下さっているのかしら?
 あなたは嫉妬もなさらない。わたくしを独占したいともおっしゃらない。
 わたくしがなにをしても、何も感じないのなら、それは無関心ということなのではなくて?」
本当のことを言えば、寂しい。
別に嫉妬させようとして、オリヴィエからもらったネックレスをつけて来たわけではない。
今日のブルーのワンピースに一番似合うと思ったからだ。
けれど、なにかの反応を期待していたのも事実で。


「貴女は私に束縛されたい、と?」

フランシスのスミレ色の瞳が、薄く笑う。
妖しいほどのきらめきが、フランシスの瞳を彩り、ロザリアを見つめている。
ただ見られているだけなのに、体温が上がってくるのがわかった。

『束縛』
恐ろしい言葉なのに、フランシスが言うと、なぜかとても艶めいて聞こえる。
ドキン、と胸が高鳴るのは、言葉の影に危うい優しさが潜んでいるように思えたから。
フランシス自身と同じように、どうしようもなく惹きつけられてしまう。
ロザリアは、無意識に頷いていた。

「少し、待っていてくださいね。」
フランシスは柔らかく微笑むと、部屋にロザリアを残して出ていってしまった。
まだ紅茶もカップに残っている。
ロザリアはお茶うけのチョコレートを摘み、ぼんやりと外を眺めていた。
こんなに綺麗な青空なのに、身体の奥が不思議な期待にとけそうだ。
彼にもっと近付けるかもしれない。
このチョコレートのような、甘やかな期待。



しばらくして戻って来たフランシスの手には、小さな黒いレザーのシンプルな箱がある。
彼はロザリアに長椅子に移るように促すと、その隣に自分も並んで腰を下ろした。
留め金を外し、箱を開け、中から取りだしたのは、二つの金のブレスレット。

「ロザリア様。手を。」
言われるまま、ロザリアは手を差し出した。
その手首に、フランシスは小さな飾りのついた、細いブレスレットをつける。
「これは、なんですの?」
ロザリアが手首を上げると、金のブレスレットはキラキラと光りを弾いた。
透かし彫りのような細かな細工が美しい。

「こうするんですよ。」
同じブレスレットをフランシスは自分の手首にもはめると、ブレスレットの飾りに細い金のチェーンを取りつけた。
チェーンの端はロザリアのブレスレットに繋がっている。
まるで、長い手錠のようだ。

「今日一日、私は貴女を束縛します…。」

ロザリアは目を丸くして、手首にはめられたブレスレットを見つめた。
飾りから伸びたチェーンは2mほどあるだろうか。
長椅子に並んで座っていれば、そこそこ長さに余裕もあるし、腕を伸ばすのにも支障はない。
テーブルのカップをとるのにも十分だ。

ロザリアは立ち上がり、数歩歩いてみた。
光を浴びたチェーンが、するすると伸びていく。
けれどすぐに、手首に違和感を感じて振り返った。
「それ以上は、行かないでください…。 私の傍を離れないで…?」

まっすぐにフランシスの手首に伸びる、金のチェーン。
フランシスが手首を振ると、その刺激がチェーンを通して、ロザリアに伝わってくる。
彼に『束縛』されているのだ。
ロザリアは大人しく元の長椅子に戻ると、フランシスの隣に座った。
さっきよりもほんの少し、近くに。


手首を繋がれていても、本を読むことはできるし、お茶を飲むこともできる。
一人で過ごす休日と同じように、ロザリアは本を読んでいた。
フランシスも隣で同じように、さっきまで読みかけていた本を読んでいる。
他にすることもなかったし、なによりも繋がれていると思うと、緊張して、どうしていいのかわからない。
思えば、こうして、二人きりで家にこもっていることは少なかった。
先週はアクアリウムに行ったし、その前はオペラを見に行った。
その前も、その前も、一日を外で過ごした。
カフェで話しこむことはあっても、勿論周囲には人がたくさんいる。
二人というのは、こんなにも、落ち着かないのだろうか。
ちらりと見たフランシスの横顔は、悔しいほど落ち着いているのに。

ロザリアはチェーンを引いてみた。
おや、とでも言うようにフランシスが顔をあげ、本を閉じる。
「どうかなさいましたか…?」
「あの、お手洗いに行きたいのですけれど。」
とっさに、ロザリアは嘘をついた。
フランシスがどういう反応をするか、試してみたい。
「ああ、それは…。申し訳ありません。」
フランシスは本当に申し訳なさそうに睫毛を伏せると、ロザリアのブレスレットについているチェーンを外した。
「どうぞ…。戻ってきてくださいね…。」

チェーンの外れたロザリアは、しずかに廊下へ出た。
重いドアを閉めれば、中の様子は全く聞こえない。
ということは、ロザリアの様子もフランシスには伝わっていないということだ。

逃げ出してしまおうか。
ふと、そう思った。
彼は追いかけてくれるだろうか。 それとも、何事もなく本を読み続けるのだろうか。
手洗いを済ませた後、しばらく考えて、ロザリアは再びドアを開けた。

「ああ…。早かったのですね。 さあ、こちらへ…。」
フランシスのブレスレットがきらりと輝き、二人の間に細いチェーンが繋がる。
ロザリアが戻らなければ、慌てた彼の姿を見ることができたのかもしれない。
でも、彼の束縛がとても優しいから。
もう少し、されていてもいいような気がした。


お茶がなくなり、今度はロザリアが紅茶を淹れた。
もちろん繋がっているから、キッチンへ行くのも二人一緒だ。
ついでに冷蔵庫にあったハムやレタスで簡単なサンドイッチを作り、フルーツも盛りつけた。
本当にフランシスは今日一日、家から出るつもりはないらしい。
外は午後の眩しい日ざしに変わり、ほんの少し風が強くなっているようだ。
庭の花が左右に揺れている。

「私は食事にあまりこだわりがないんです。 それに、貴女の作ってくれた物ならば、何でも美味しい…。そうでしょう?」
聞き方によっては、不味くても我慢すると言っているようにも思えるが、フランシスは本当に嬉しそうに食べている。
チーズとハムだけのサンドイッチなのに。
食べ物を前にすると、急にお腹が空いて来るから不思議だ。
ロザリアもサンドイッチを齧って、オレンジを口に運んだ。


「ずっとこうしているんですの?」
紅茶のポットとカップを乗せたトレーを持って、二人はまたリビングへと戻って来た。
冷めにくいようにコゼをかけたのは、フランシス。
これからの長い時間を、彼は予想しているようだ。
たしかにまだ午後は始まったばかり。

「ええ…。そうです。 今日一日束縛する、と申し上げたでしょう…?」
「でも…。」
「退屈ですか…?」
「いいえ、そうではないの。 ただ…。」
「ただ?」
フランシスはいつものゆったりとした笑みを浮かべている。

問われてみれば、とくに何もないのだ。
退屈というわけではない。 むしろ外にいる時よりも緊張しているくらいだ。
フランシスが本のページをめくるたびに、手首のチェーンがサラサラと動いて、繋がれていることを自覚する。
それなのに、この胸にくすぶる不満は、たぶん。
彼があまりにも変わらないから。

「なんでもありませんわ。」
ふいっと顔をそむけて、ロザリアも読みかけていた本に目を落とした。
静寂な時間が流れていく。
満ち足りた午後は眠気を誘うらしい。
緊張しすぎたせいもあったのか、ロザリアはいつの間にか、眠ってしまっていた。


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