1.
刺さるような強い日差し。
ただ歩いているだけで、額に汗がにじんでくる。
オリヴィエは一面の砂浜の中をゆっくりと、踏みしめるように歩いていた。
いつの間にか靴の中に砂が入り、じくじくと足の裏を苛んでくる。
もっと丈の長い靴にすればよかった、と、今更ながら、この靴を選んだことを後悔した。
「ま、前のよりはマシか。」
ピンヒールのサンダルを履いて、大理石の廊下を走っていたのも、そう昔のことではない。
床に付くほどの長いスカーフや、ふわふわの羽のマフラー。
重たいほどのアクセサリー。
常春のあの地ならまだしも、今の気温であんな恰好をしていたら、間違いなく熱中症で倒れるだろう。
今日のファッションは、ラフな白シャツにチノパン。
長い髪を無造作に束ねて、両手に大荷物を抱えている。
そんな今の姿を、あのころの自分は考えてもいなかったに違いない。
広い砂浜に一人きり。
目に映るのは一面の海だけ。
その圧倒的な孤独も悪くないと思っている。
目深にかぶった帽子のせいで、足元をじっと見つめて歩いていたオリヴィエは、直前まで気が付かなかった。
彼が目的としているその場所、すなわち自宅のドアの前にたたずむ人の影に。
「オリヴィエ…。」
名前を呼ばれても、オリヴィエはしばらく顔を上げずにいた。
さらさらと流れていく砂の音と、光の揺れる波の音以外、静まり返った世界。
この場所の静けさが、今ばかりは恨めしかった。
もしももっと騒々しくて、いろんな色のあふれる場所ならば、この動揺をうまく覆い隠せたかもしれないのに。
ありったけの自制心を総動員して、ようやく顔を上げたオリヴィエの瞳に飛び込んできたのは、青。
砂浜の向こうの青い海を毎日眺めていた筈なのに、なぜ。
こんなにもその色を懐かしく感じるのだろう。
「いらっしゃい。 …お茶でも飲む?」
普通に出た声に、自分が一番驚いた。
家中の窓を開け放つと、爽やかな潮風が流れ込んでくる。
焦げるような日差しがなければ、ここはとても過ごしやすいところだ。
実際、一歩、建物の中に入れば、すっとさっきまでの汗が引いていくのがわかる。
ぶら下げていた荷物を手早く片付け、オリヴィエは冷蔵庫からピッチャーを取り出した。
彼女が紅茶を好むのはよく知っている。
あちらではいつも淹れたての紅茶をオリヴィエのために用意してくれたものだ。
でも、さすがに今は熱い飲み物を飲む気になれない。
それはたぶん彼女も同じだろう。
どれくらい待っていたのか知らないけれど、陶磁のように白い顔の頬が真っ赤に染まっているところを見ると、短い時間ではなかったはずだ。
「座ってよ。」
オリヴィエが片づけている間、ずっと所在無げにその場に立ち尽くしていたロザリアに声をかける。
彼女は緊張した面持ちで頷くと、テーブルから椅子を引き、そこにちょこんと腰を下ろした。
小さなダイニングテーブルに椅子は二つ。
自然と近距離で向かい合う形になり、二人は静かにグラスを傾けた。
「とても・・・・静かなところですのね。」
「うん。 隣の家までどれくらいか数えたことないけど、まあ、ちょっとここからは見えないくらいには離れてるね。」
ふっとため息交じりに笑みをこぼすと、ロザリアはようやく安心したように、詰めていた息を吐き出した。
彼女の周りの空気がふわりとゆるむ。
やっと落ち着いたロザリアは家の中をきょろきょろ見回した。
全体的にこじんまりとした作りだが、壁がアイボリーで統一されているせいか、狭苦しいイメージはない。
天井も高く、古い木の梁が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
それほど広くはないLDKには、この小さなダイニングセットと少し大きめのソファ。
窓辺のカーテンと同じブルーで統一されたラグが、海辺の家らしい。
そして、奥の方に見える3つの扉がバスルームと私室へ続いているのだろう。
いずれにしても、あの地での彼の私邸とは全く違っていて、ロザリアは困惑した。
「…お一人、ですの?」
「ん? 誰かいるように見える?」
自分の質問に恥ずかしくなったのか、ロザリアはやっと赤みの取れてきた頬をまた赤くした。
「ご、ごめんなさい。 わたくし、失礼なことを…。」
「いいよ。 あれから…一年も経ってるんだ。 そういうことがあっても不思議じゃないからね。」
はっと、ロザリアの顔がこわばった。
さっきまでの緊張した表情とはまた違う、寂しそうな笑みが浮かぶ。
「今は何をなさっているの?」
「ちょっとした小物とか頼まれて作ったり、町の方でヘアメイクの仕事したり、ね。」
「ヘアメイク?」
「そ。 花嫁さんとか特別な日のお手伝い。 …一応、私の肩書は主星から来たヘアメイクアーティスト、だからさ。」
「そう、でしたわね…。」
カラン、とグラスの氷が音を立てた。
こんなふうに穏やかな時を二人で過ごすのも久しぶりだ。
いや、彼女にとってみれば、それはほんの数日前のことなのかもしれない。
オリヴィエは束ねた自分の髪を指でつまんだ。
あの地を出た時より、明らかに伸びた。…彼女は全く変わっていないというのに。
「あなたの後任の彼のこと、覚えていらして?」
急に朗らかに話し出したロザリアに
「当たり前でしょ。 あの子とは半年近くも一緒に暮らしたんだよ?
全く、ホントに私の後任なのかって思うくらい、不器用でさ。 屋敷の手入れもちゃんとやってんのか疑問だよ。
庭のバラ、枯れてるんじゃない?」
「…今のところは大丈夫そうですわよ。」
また、寂しそうな笑みを浮かべたロザリアに、オリヴィエは口をつぐんだ。
きっと、あの場所では、まだ。
薔薇が枯れるほどの月日も流れてはいないのだろう。
そのあともロザリアはオリヴィエの知る、かの地の人々の話をしてくれた。
ささやかな出来事ばかりだったけれど、オリヴィエにとってはもはや懐かしい。
今までの彼女からは考えられないほど、饒舌に話し続けるロザリアに、オリヴィエは笑みを浮かべながら、耳を傾けた。
やがて、話すことも尽きたのか、ロザリアが小さく息をついた。
ふと流れ込んできた風に、窓に目をやれば、外の陽ざしはすでに色を変えている。
楽しい時間は本当にあっという間だ。
オリヴィエは彼女の前の空になったグラスに目を向けた。
「そろそろ帰ったほうがいいよ。…ここまでどうやって来たの? どこへ送っていけばいい?」
瞳に焼き付けるように、彼女を見つめると、ロザリアはさっと頬を染めた。
意外な反応。
少しくらいは別れを惜しんでくれるかもしれないという、淡い期待を裏切る彼女の様子に、オリヴィエは肩をすくめた。
「ここはホントに真っ暗になるんだよ。 町へ出るなら、急がないと。」
立ち上がり、彼女を見下ろす。
青紫の髪が揺れ、顔を上げたロザリアと目が合った。
「帰りません。」
「え? 」
眉を寄せたオリヴィエに、ロザリアが繰り返す。
「帰りません。」
「なんだって?」
「帰らないと申し上げたのですわ。 しばらく、わたくしをここに置いてくださいませんか?」
聞き返す必要なんてない。
「無理だよ。」
オリヴィエは即座に答えた。
「無理に決まってるでしょ? 全く、あんたらしくないこと言わないでよね。
困らせるつもりなら、今すぐ、ここから出てって。」
ふいと顔をそむけ、オリヴィエは窓辺へと足を進めた。
せめて風でも浴びて頭を冷やさなければ、とんでもないことを口走ってしまいそうだ。
出来るはずない。
…世界が終わる日でも来ない限りは。
ロザリアが立ち上がったのがわかった。
聞き分けのいい彼女の生真面目な性格はよく知っているから、おそらく、これで、何もない日常に戻れるはず。
そして、この想いも砂の中に埋めたモノたちのように、風化していくはず。
「わかりましたわ。」
ホッとすると同時に、去来する寂しさ。
オリヴィエは黙って、彼女が出ていくのを背中で感じていた。
再び、静けさが戻ってくる。
天井で回るファンのモーターの音、掃除してもとり切れない、床にこぼれる砂が流れる音。
どれくらい時間が経ったのだろう。
一つしかない時計は寝室に置いたまま、今の場所からは見ることも叶わない。
自身の影が長く伸びていくのを、ただ眺めていたオリヴィエは、ふとあることに気がついて、駈け出した。
町へ行くのなら、必ず、この窓の前を通らなければならない。
勢いよくドアを開けると、思った通り、そこに青い影がいる。
「…なにしてんの?」
「野宿の準備ですわ。 追い出されてしまったから、行くところがないんですもの。」
玄関のひさしに敷かれたレジャーシートの上にロザリアは行儀よく座っている。
どこに隠していたのか、重石代わりに置かれた大きなスーツケースと一緒に。
「なんかセンスの悪いシートだね。」
「仕方ありませんわ。 アンジェが貸してくれたんですもの。」
シートには、見ているだけで脱力しそうな大きな茶色のクマと白いクマがだらりと寝ころんだ姿がプリントされている。
そういえば、アンジェリークがこのキャラクターの小物をいろいろ持っていたことを思い出した。
アンジェリークの趣味は不可解だ。
まあ、こういうのほほんとしたものが好きなのだと思えば、恋人を選ぶ基準にも納得できると言えばできるのだが。
「で、あんたもこんなふうに、ここに寝転がるわけ?」
クマを指さして、しゃがみ込んだオリヴィエにロザリアが眉を寄せた。
「嫌ですわ。 こんなふうにはいたしません。」
ロザリアは怒ったように顔をそむけると、 おもむろにシートの上にあおむけに横になった。
手を胸の上で合わせ目を閉じた、その姿に、オリヴィエは思わず吹き出してしまう。
まるで眠り姫。
こんなに綺麗な行き倒れにはお目にかかったことがない。
「ヤダ。 あんたってば、相当ヘンだよ。」
「ええ。 わたくし、変なのですわ。 だから絶対に帰りません。」
起き上り、また座り込んだロザリアに、オリヴィエは手を差し出した。
「ここね、結構風が強いんだ。 起きたら口の中が砂だらけになってるよ。」
「…それがどうかいたしまして?」
つんと顔をそむけたものの、ロザリアの耳は赤くなっているし、頬が緩んでいる。
オリヴィエの一言を彼女は待っているのだ。
こうなれば、オリヴィエのほうが折れるしかない。
それでも、胸に広がる暖かな感情を自覚せざるおえなかった。
「負けたよ。 あんたの気の済むようにしたらいい。」
いつか、今日のことを思い出した時。
きっと夢のような出来事だったと思うに違いない。
知らなければよかったと、後悔するかもしれない。
けれど、オリヴィエは手を差し出してしまった自分を愚かだとは思えなかった。