All of me

2.

食べ物の匂いで目が覚めるなんて、ずいぶんと久しぶりで、オリヴィエは驚いた。
当然のように昨夜はなかなか寝付けずに、何度も寝返りを繰り返しては、ため息をこぼしてばかりいたのだ。
一つ屋根の下、二人きり。
これで何も感じないとしたら、男として問題があるだろう。
ましてや、ソファで眠りこけていたロザリアを抱き上げて、もう一つの寝室のベッドに移動させたのだ。
一度も使われていなかったベッドはひんやりとしていたけれど、そこへおろした時も彼女は全く目を覚ます気配がなかった。
よほど疲れていたのか、気が張りつめていたのか。
シャワーを浴びてすぐに、うとうとし始めたかと思うと、ロザリアはその場で眠ってしまっていた。
抱き上げた時に感じた彼女の体の柔らかな感触が、まだ手に残っているようで。
オリヴィエは自分の拳をきゅっと握った。

さっと着替えてダイニングへ行くと、ロザリアがエプロンをつけてキッチンに立っていた。
もちろん、キッチンと言ってもコンロが二つと小さなシンクがあるだけの、いたって簡素なものだ。
自分のためにする料理なんて、たかが知れているのだから、今まではそれで十分だった。
コンロには小さなフライパンと、ケトルが並んでいて、ケトルの口からは湯気が噴き出している。
テーブルにポットが置かれているから、おそらく紅茶を淹れるところなのだろう。
ロザリアは慣れない道具に四苦八苦しているらしく、オリヴィエが来たことにも気づいていない。
一生懸命な姿を、オリヴィエは影からそっと眺めていた。

しばらくして、ロザリアはフライパンからお皿へと目玉焼きを滑り込ませた。
ぷっくり膨らんだ黄身。 ベーコンのいい匂い。
ロザリアは満足そうに笑みを浮かべると、きょろきょろとあたりを見回している。
オリヴィエはようやく彼女の前に姿を現すと、「フォークなら、その棚の中だよ。」と指をさした。

「…見ていらしたんですの? いつから?」
「ん~、ついさっきだって。」
「本当ですの? じゃあ、あれはご覧になっていませんのね?」
「あれ?」
きょとんとしたオリヴィエにロザリアはあわてて両手を口に当てると、「なんでもありませんわ。」とつぶやいた。


目玉焼きとパン。
しかもパンは二つしか残っていなかったから、1個ずつしかない。
あとはオレンジがあるだけ。
簡単すぎるブレックファストだが、二人、というだけですべてが特別だ。
使っていなかったペアの紅茶カップも目に新しい。

「あの、オリヴィエ。」
控えめに口を開きかけたロザリアの声を聴きながら、オリヴィエは目玉焼きをフォークでつついた。
とろり、と、黄身が流れ出す。
好みの焼き具合であることが嬉しくて、わずかにオリヴィエの口角が上がる。

「ね、あんたも好きなの?」
「え?」
フォークで口に運びながら笑いかけると、ロザリアは顔を真っ赤にして目を丸くしていた。
「目玉焼きだよ。 私、この黄身がトロッと出てくるぐらいが一番好きなんだよね。 …うん、ちょうどいい。」
ますます顔を赤くするロザリアに、ひょっとしてただの偶然だったのかもしれないと、オリヴィエはあわてた。
「あ~、ゴメン。 誰かに作ってもらうの久しぶりだったからさ。
 ちょっと嬉しくなっちゃったんだよ。」

ロザリアはうつむいて、フォークで黄身をつついた。
思いがけないオリヴィエの笑顔に動揺して、まともに顔が見られない。
「好き」なのは目玉焼きのこと。 彼の好み通りに焼き上げた黄身のこと。
わかっているのに…。
トロっと溢れ出した黄身が、少しだけ恨めしい。


「あの、昨日はごめんなさい。 わたくし、すっかり眠ってしまって…。
 ベッドまで運んでくださったのでしょう?」
「疲れてたんだよね。 気にしないで。」
「今日はちゃんと自分でベッドに行きますわ。」
そうしてよね、と、言いかけて、オリヴィエのフォークを持つ手が止まる。
『今日は』?
彼女は今日もここにいるつもりなのだろうか?

疑問がそのまま顔に出ていたらしい。
背筋をぴんと伸ばしたロザリアがオリヴィエをまっすぐに見つめた。
「少しの間だけで構いませんの。 この、夏の間だけ。 わたくしをここに置いてくださいませんか…?」
ぐらりと、オリヴィエの世界が揺れた気がした。
あの地を離れてから、毎日、青い海を見て過ごして。
夢見なかった日がないほど、恋焦がれて。
拒めるなら、昨日そうしていた。

「…あの部屋、使っていいよ。」
この夏の間。
彼女の言った期限にどんな意味があるのか、わからないオリヴィエではない。
それでも。
こくり、とロザリアが頷いた。


終わりがあると知っている。
甘く残酷な日々の始まり。


どうしてこうなったのか。
オリヴィエは木陰に座り、目の前に広がる海を眺めていた。
お尻の下には、昨日、ロザリアが座っていた、のんきなクマのレジャーシート。
今日も日差しは目に痛いほど眩しいが、影にいればじんわりと汗がにじむ程度で、不快ではない。
湿度が低いから、風の肌あたりがいいのだ。
もっとも、いくら木陰とはいえ、完璧に紫外線を防げるはずもない。
日焼けをするとすぐに赤くなって火傷のようになるオリヴィエは、こんな場所に住んでいても、ほとんど海には近寄っていなかったのだが。

「オリヴィエ! すごくきれいですわ!」
波打ち際で、ロザリアが笑っている。
真っ白な肌に海と同じアクアブルーの水着。
キラキラと水しぶきを弾くその姿は、まるで海のニンフだ。
寄せてくる波を追いかけて走り回っていると、本当に年相応の少女にしか見えない。
浅瀬ではしゃいでいるロザリアに、
「泳がないの?」
オリヴィエが問うと、ロザリアは小さく首を振った。
「…泳げないんですの。 実は海自体、初めてなんですもの。」

貴族の令嬢として、厳しく育てられてきたロザリアは、海辺に避暑に行ったことはあっても海に入ったことがなかった。
地元の子供たちが楽しそうに遊んでいるのを、パラソルの下で眺めているだけ。
自分は他の子とは違う、女王候補なのだから、と、ずっと我慢してきたのだ。

寂しそうに笑ったロザリアに、オリヴィエは立ち上がった。
「怖くないよ。 ホラ。」
ざぶざぶと膝くらいまでを水につけたオリヴィエが誘うと、おそるおそるといった様子で、手を伸ばしてきた。
その指先を軽く握り、じっとロザリアが近づいてくるのを待ってやる。
そのまま、後ろに一歩、二歩と下がりながら、身体を水に沈めていく。
胸の下くらいまでの深さまで水に入ると、ロザリアは足元を確かめるように、指先で砂をかいた。
足がついていることに安心したのか、にこりと笑顔を向けてくるロザリア。
すでに日に焼けたのか、真っ赤になった頬が愛らしい。

「えいっ!」
不意に水をかけられて、くすくす笑うロザリアに、オリヴィエもかけ返した。
何度も何度も繰り返す、たわいもない子供の遊び。
「一度こうやってみたかったんですの!」
無邪気な笑顔でばしゃばしゃとかけてくる手を捕まえて、オリヴィエは彼女の頭の上にポンと手を置いた。

本当は抱きしめてしまいたい。
彼女の笑顔ごと、全部を。
けれど、オリヴィエはくしゃりとロザリアの髪を撫でると、ゆっくりと手を離した。

「そろそろ上がったほうがいいよ。 いきなり肌を焼くとよくないし。」
「…もう少しいいんじゃありませんの? 日焼け止めも塗りましたわ。」
ロザリアは明らかに不満そうな顔をしている。
「あんなのは気休めにしかならないよ。 塩水は後が大変なんだから。」
「オリヴィエったら…。 大丈夫ですわ!」 
小言から逃れるように、ロザリアはオリヴィエに背を向けて、水をかき分けて走っていく。
背中を跳ねる青紫の髪。
「知らないからね!」
早々に木陰へ逃げこんだオリヴィエは遊ぶロザリアを眺めて、ため息をついた。

しばらくすると、ロザリアが戻ってきて、シートの上で膝を抱えた。
「ヒリヒリしてきたんじゃないの?」
「少し、痛いような気がしますわ。…肩も背中も…。」
ロザリアは自分の頬や肩に手を当てて、顔をしかめている。
実際のところ、その赤さから考えて、すでに手遅れだろうから、今夜は大変なことになるはずだ。


「痛い…。」
案の定、シャワーを浴びたロザリアは真っ赤な顔をしていた。
体中が火照っているのか、どこか熱に浮かされたような瞳でソファに浅く腰掛けている。
彼女ほど色が白いと、日焼けというよりは火傷に近い感覚だから、おそらく背もたれに触れるだけで痛いのだろう。
キャミソールからむき出しになった肩が腫れたようになっているのが痛々しくて、オリヴィエはその部分に冷やしたタオルを乗せた。
「ホラ。言った通りじゃないか。」
わざと呆れたようにミネラルウォーターを差し出しながら言うと、ロザリアは泣きそうな顔でオリヴィエを見上げた。

「こんなこと、初めてですわ。」
「そりゃ、海が初めてだったんだからね。」
即座に言い返されて、ロザリアはしゅんと頭を垂れた。
「あなたの言うことを聞いておくべきでしたわ。」
「そうそう。 …これは相当ひどいね。 もっと冷やさないと。」
濡らしたタオルで氷を包み、ロザリアの顔に当てる。
アフターケアをきちんとすれば、ひどく悪化することはないだろうが、2.3日は痛みが残るだろう。
髪が触れただけでも痛いというロザリアのために、オリヴィエは彼女の髪をくるくるとお団子にまとめた。
綺麗な首筋が赤く染まっているのが見えて、それはそれで目の毒だ。

そもそも肩ひもだけのキャミソールワンピースはスカート丈もドレスに比べれば随分短い。
つまりは綺麗な脚のラインが丸見えということで。
首筋から続く細い腕や、しなやかにくびれたウエストと丸みを帯びた腰。
昔からそうなのだが、どうもロザリアは自分が男にとってどれほど魅力的なのかをわかっていないようなところがある。
ある意味、それが育ちの良さというものなのかもしれないが、こんな状況は困ってしまう。

「オリヴィエ?」
呼びかけられてハッとしたオリヴィエは 「私もシャワーを浴びてくるよ。」と言い残し、苦笑を浮かべてバスルームへと向かった。
自分も慣れない戸外に長時間いて、肌を痛めてしまっているのだ。
この熱っぽさもきっとそのせい。
それ以外の理由を考えたくなかった。


寝室のベッドに腰を下ろしたオリヴィエは天井を仰ぐようにマットレスに寝転んだ。
ロザリアはもう眠ったらしく、隣からは何の物音も聞こえない。
明かりを落としても、外からの星明りで部屋の中は十分に明るい。
開けたままの窓から流れてくる波音。
その穏やかなリズムは、普段は心の奥にしまい込まれている苦い記憶を揺り起してくる。
だからこうして眠れない夜は必ず思い出してしまうのだ。

ロザリアがまだ女王候補で、二人が飛空都市にいたころ、よく森の湖に出かけた。
聖殿には多くの人がいたし、ゆっくり話をするのに、そこは格好の場所だったから。
静かな森の木々の隙間からは光がこぼれ、優しい滝の水音が耳に心地よい。
育成に忙しいロザリアも、この場所には癒されるのか、誘えばほとんど付き合ってくれた。

あの時。
意識の奥でオリヴィエは何度も何度も同じ場面ばかりを繰り返し再生してしまう。
いつものように育成や日常の話をしていると、ロザリアがふと、オリヴィエを振り返った。
森の湖には何度も出かけたけれど、ロザリアがあんな顔をしたのは、たった一度。
「オリヴィエ様…。」
たった一つの言葉を求めて、途方に暮れる迷子のような顔。
けれど、オリヴィエはそれに気づかないフリをした。
女王候補と守護聖という枠をかたくなに守り続けたのだ。

今ならばわかる。
オリヴィエは、あの地で大切な何かを作ってしまうことが怖かった。
サクリアを失い出ていった『彼』は、丹精込めて育てた庭も、愛した女性も全てを残していったから。
オリヴィエから見て大人の男だった彼が、どんな思いで、そうしたのかはわからない。
納得していたのか、未練があったのか。
尋ねることなどできなかった。
自分もいつかは彼と同じようにこの地を去ることになる。
その時に、新しい場所で、忘れられない何かを抱えて、生きていかなければならなくなることが怖かったのだ。

逃げたはずなのに。
結局、忘れられない、捨てられない。
こうして、か細い糸にすがり、夢を見続けたいと願っている。
シーツが擦れるたびに痛む背中を丸めて、オリヴィエは寝返りを繰り返した。


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