3.
これですっかり海には懲りたかと思ったのに、ロザリアは次の日からも海へ入りたいとせがんだ。
たださすがに日中の陽ざしには辟易したのか、夕方ばかりにはなったが。
それに昼間はオリヴィエにも仕事のようなものがある。
依頼を受けたアクセサリーを作らなければならないし、時には買い物を兼ねて町へも出た。
その間、ロザリアは本を読んだり、料理をしたり。
退屈だろうとオリヴィエが尋ねても、ロザリアは首を振って笑ってばかりいた。
穏やかで当たり前な日常。
これまでもずっと、こうして過ごしてきたような錯覚を覚えるほどの。
ある時、ロザリアはどこからか持ってきたのか、ゴムボートを引きずり、得意げに海に浮かべていた。
「裏の物置にありましたの。 まだ綺麗ですわ。」
裏の物置はまだ前の住人が残した荷物がそのままになっている。
いつまでここにいるのかわからなかったし、ただ片付けが面倒だったというのもある。
ボートの他にもサーフボードやシュノーケルなど、遊び道具があったことをオリヴィエも知っていた。
「大丈夫かねえ。 ・・・って!」
上機嫌のロザリアはもうボートを押しながら、沖へと進んでいる。
ここでのロザリアは今までの彼女からは信じられないほど、のびのびとして元気だ。
生真面目でどこか臆病なほど慎重なロザリアをどこに置いてきたというんだろう。
けれど、もともとロザリアはとても好奇心旺盛で、思い込んだらまっすぐなところがあった。
高飛車で上から目線で、でも素直で純粋で。
女王候補のときもそんな彼女に振り回されてばかりいた。
懐かしい、記憶。
オリヴィエは半ばあきらめの気持ちで、ボートと格闘するロザリアを木陰から眺めていた。
ボートを押して、腰くらいの水の高さのところまで来たロザリアは、思い切って、ボートの上に飛び乗った。
ぼよん、とゴムがはじき返してくる感触。
どうやら穴が開いている気配もない。
縁から海を覗き込めば、キラキラした光が跳ね返って、とても綺麗だ。
それにふわふわと波に浮かんでいると、まるで自分が海の一部になったようで、楽しくなってくる。
砂浜に目をやれば、いつもの位置に、オリヴィエが座っているのが見える。
一緒に遊んでくれればいいのに、彼は日焼けを嫌っているのか、あまり海には入ってくれない。
不満はあるけれど、同じ場所で同じ時を過ごせるだけで、幸せなのだとわかっている。
彼の時間も視線も、今はロザリアだけのもの。
オリヴィエに向かって大きく手を振って、ロザリアはボートにうつぶせに寝転んだ。
すでに真昼の太陽の勢いは失くなっているものの、オレンジ色の夕日が背中をじりじりと焼くのがわかる。
初日の痛みを思い出して、ロザリアが体の向きを変えようとした時、同時に波が立った。
バランスを失って勢いよくボートが反転したかと思うと、ロザリアの体が海へと投げ出される。
「ロザリア!」
砂浜のオリヴィエが叫んだ時、空のボートが波に揺られていた。
いきなり海に放り込まれたロザリアは動転して、目をぎゅっと閉じた。
まとめていたはずの髪がわっと波にさらわれて、体の周囲にまとわりついてくる。
息をしようとして口を開けると、塩辛い水が口の中に入り込んできて、苦しくて吐き出した。
思い切り手を伸ばしても、つかむのは水だけ。
無性に怖くなって、ただもがき続けたところで、不意に抱きかかえられた。
ふわりと水面から体が浮き上がり、やっと呼吸ができるようになる。
「ロザリア!」
駆け寄ったオリヴィエは、沈みかかっていたロザリアの体を急いで抱き上げ、上半身を水面から出した。
そもそもそんなに深い場所ではないのだ。
立てば胸の下くらいまでしか水は来ていない。
もう息もできるはずなのに、ロザリアは軽くパニックに陥っているのか、オリヴィエにしがみついてきて、浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
とにかく彼女を落ち着かせようと、オリヴィエは柔らかな身体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だから。」
ロザリアの額を胸に押し当てて、ゆっくりと髪をなでる。
「もう、大丈夫。 私がいるから。」
耳元で囁いていると、ロザリアの呼吸がだんだんと戻っていくのがわかった。
こわばっていた身体からも次第に力が抜けていく。
震えが治まったのに気づいて、体を離そうとしたオリヴィエの背中にロザリアが手を回した。
ぎゅっと、力のこもる彼女の手。
思わず、オリヴィエも抱きしめ返していた。
目を閉じたのは、水面に照る夕日がまぶしいから。
動けないのは…。
思考することさえ無駄に思えて、オリヴィエはただ、ロザリアを腕の中に感じていた。
波が高かったのは、天気が下り坂だったかららしい。
夜半を過ぎて、ガタガタと鳴り出した窓。
遠くの空がゴロゴロと音を立て、時折閃光があたりを照らしている。
海の天候が変わりやすいのは、今に始まったことではない。
実際、オリヴィエがここに来てからも何度か嵐に近い状況はあった。
けれど数時間をやり過ごせば、すぐにまた眩しいほどの太陽がぎらぎらと顔を出してくるのだ。
ただ窓を開けられない分だけ、寝苦しい。
喉の渇きを覚えて、ベッドを抜け出したオリヴィエは、LDKの窓辺にたたずんでいるロザリアを見つけた。
「眠れないの?」
「…音で、目が覚めてしまいましたの。」
月も星もない夜は、驚くほど暗い。
オリヴィエは暗闇の中で目を凝らした。
「心配ないよ。 それとも雷が嫌いなんて、子供みたいなこと言うの?」
「嫌い…。」
ロザリアは考えるように黙り込んでいる。
不意に激しい雨が降り出し、屋根を叩き始めた。
小さな家は雨漏りこそないが、叩きつける振動がダイレクトに体に伝わってきてしまう。
ようやく闇に慣れた目でオリヴィエがロザリアを見ると、彼女は暗闇の中でじっと自分の体を抱きしめていた。
「怖い…のですわ。 この嵐が、わたくしを責めているような気がして…。」
海の向こうで光がはじける。
明かりに照らされたロザリアの顔があまりにも悲しそうで、オリヴィエは言葉を飲み込んだ。
テーブルの上のランプを付けると、ガタガタと揺れる窓のせいか、炎も揺れている。
ゆらゆらと揺れる炎はどこか非現実的で、今のこの時間も夢のように感じる。
もっとも、夢だとしても、こんなに都合のいい夢はそうそう見られはしない。
サクリアを失くした今となっては、なおさら。
「私も目がさめちゃったよ。 ね、お茶でも飲むかい?」
窓辺に立ったまま、ロザリアは首を振った。
オリヴィエはコップを二つ並べ、そこに冷蔵庫から取り出したお茶を注いだ。
ひやりと喉を通る冷茶に、わずかに現実を取り戻す。
「どうして…。来たんだい?」
ロザリアは答えない。
「まさか抜け出して来たわけじゃないよね?」
「違いますわ。ちゃんとアンジェは知っていますもの。」
即座な否定。
アンジェリークを名前で呼んだということは、プライベートな友達として相談した、ということなのだろう。
「なにも…。聞かないでくださいませ。 わたくしは…。ただ、あなたに…。」
小さくなった語尾は激しい雨の音に重なり、はっきりと聞き取れない。
たぶんオリヴィエの方から、ロザリアにこれ以上何かを問い詰めることはしないだろう。
決定的な言葉を引き出せば、この日々は終わってしまうから。
今は必ず訪れる日に目をつぶり、その場に立っているだけ。
ロザリアが顔を上げ、オリヴィエを見つめている。
揺れる炎に照らされた顔はやはり、悲しげだった。
嵐が去った後は、抜けるような青空が広がっている。
すでに太陽はギラギラと光り、砂浜から熱が立ち上がる。
それでも確実に季節は過ぎているのか、朝、窓を開けた瞬間、オリヴィエの肌をかすめた風はわずかに秋の色を帯びていた。
「今日は私の仕事を手伝わない?」
朝食をとりながら、ロザリアを誘うと、彼女は一瞬目を丸くして、すぐに大きく頷いた。
「嬉しいですわ。 一体何がありますの?」
「結婚式のヘアメイクを頼まれててさ。 夕方からの式だから、帰りも遅くなりそうだし。
あんた、ここへ来てから海しか行ってないだろう? そろそろ退屈してるんじゃないかと思って。」
「退屈はしていませんわ。 毎日楽しくて。
でも、結婚式にはとても興味がありますの。 わたくしにもなにかお手伝いできるかしら?」
キラキラした青い瞳は、好奇心でいっぱいだ。
「ふふ。 それじゃ、今日は一日、あんたは私の助手だね。」
嬉しそうに頬を染めたロザリアが、今日の結婚式についていろいろ尋ねてくる。
その一つ一つに答えを返しながら、オリヴィエも町へ行く準備を始めた。
約束の時間の少し前、オリヴィエとロザリアは小さな商店街をひやかして歩いていた。
規模としてはセレスティアの十分の一もないような小さな通りだ。
海へ避暑に来る観光客相手の土産物屋や飲食店が軒を連ねている。
それでも、なかなかに個性のある店舗がそろっていて、オリヴィエも時々気に入ったものを買っていた。
「まあ、綺麗ですわ。」
小さな雑貨屋の前で、ロザリアが指差したのは、庇にたくさんぶら下がった風鈴の一つだった。
青い丸いガラスが幾重にも重なり合い、風が吹くとさざ波のように澄んだ音が聞こえる。
「海みたい…。」
青のグラデーションが波のようだ。
見惚れているロザリアに付き合って、しばらく店先に立っていたオリヴィエは、人々の好奇の目に気が付いた。
自分自身、目立つ容姿をしているのは自覚しているし、今日はロザリアもいる。
派手な観光客が多い、この町でも目立っているのは間違いない。
実際、あちこちから男女を問わず熱いまなざしがこちらに注がれてきている。
自分はともかく、ロザリアがあまり人目に付くのは、得策とは思えない。
オリヴィエはまだ名残惜しそうなロザリアの手を引き、目的の教会へと急いだ。
ドレスに着替えている花嫁の髪を整え、メイクを施す。
観光地の教会は、ちょっとおしゃれな式を挙げたいという若いカップルたちに格好のロケーションだ。
とくに多くの人が訪れる夏は、まさに猫の手も借りたいくらいの忙しさだ、とオリヴィエが仕事を探しに来た時、教会の支配人もぼやいていた。
今日も3組のカップルが式を挙げる。
オリヴィエはその最後の一組を担当していた。
新婦の黒髪をふんわりとまとめあげ、純潔を表すユリを飾り、長いベールをつけていく。
ブラシを探してさまよった手に、ロザリアがブラシを握らせてくれる。
『助手』の仕事を、生真面目な彼女は忠実にこなしているようだ。
使い終わったピンを片付けたり、カーラーを出したりと、こまめに動いている。
一通りの準備が終わり、花嫁が式場へと向かってドアの向こうへ消えると、ロザリアが大きくため息をついた。
「疲れた?」
オリヴィエが尋ねると、ロザリアはくすっと笑みをこぼした。
「いいえ。 花嫁があんまりにも綺麗だから、感動してしまったんですの。
本当に素敵…。」
うっとりした口調に今度はオリヴィエが笑みをこぼした。
やはり、ロザリアも年相応の夢見る女の子なのだと改めて思う。
純白のドレスは青い瞳と髪によく映えるだろう。
美貌を誇るロザリアだから、あえてメイクは薄めにして、幸せに輝く表情を生かしたい。
そう考えて、その姿を決して見ることがないのだと、自嘲する。
「見てきたら? 片付けももう終わるし。」
ソワソワしていたロザリアに声をかけると、初めは戸惑っていたが、すぐに飛び出して行ってしまった。
流れてくるパイプオルガンの音色を、こんなにも悲しいと思ったことはない。
箒を使っていると、支配人が顔を出した。
「ご苦労様。 次の予定をいいかい?」
次のスケジュールを確認して、今日の分の報酬をもらう。
結婚式は日払いというのがこのあたりのセオリーらしい。
「今日のお連れさん、すごくきれいな子だね。 君の彼女?」
たぶんこれを聴きに来たのだろう。
支配人が噂好きの従業員たちに背中を押されている姿が目に浮かんだ。
「残念ながら違いますよ。 …この夏の間だけ、遊びに来てるんです。」
「そうなんだ。 親戚かなにか?」
「…妹みたいなもんかな。 昔、いたところの、知合い。」
かの地で過ごした時間は、誰にも言えない。
「君も綺麗な顔立ちだけど、彼女はホントに綺麗だよね。
紹介してもらいたい、って思ったけど、 間近で見たら、なんか恐れ多い気がしちゃったよ。」
支配人は腕を組み、うんうんと頷いている。
オリヴィエは慣れていても、やはり普通の人にとっては、ロザリアのオーラは特別なものに映るのだろう。
かの地の人間だけが持つ、特別なオーラ。
「紹介…してもいいですよ?」
笑ったオリヴィエに支配人は大げさに手を振った。
「遠慮しておくよ。 とても無理そうだからね。」
しばらく話していると、扉が開いて、ロザリアが戻ってきた。
ニッコリ笑いかけたロザリアに照れたのか、支配人はあわてたように逃げていく。
いつものきちっとした支配人とは違う姿がオリヴィエには珍しく映った。
「どなたですの?」
「ああ。 ここの支配人。 今日の分の賃金を持ってきてくれたんだよ。」
「まあ、そうでしたの。 もっときちんとご挨拶をするべきでしたわね。
…あなたまで悪い印象になってしまっていないといいのですけれど。」
見当違いな心配をするロザリアがかわいらしくて、ついプッと噴き出した。
ムッと眉を顰めたロザリアだったが、手の中の花を見て、思い出したように笑顔に変わる。
「ブーケの花を拾いましたの!」
花嫁のブーケのジンクスをもちろんオリヴィエも知っている。
「花だけ?」
「ええ。 ブーケをこうして小さな束にしてたくさん投げてくださったの。
わたくしの足元にもちょうど、落ちてきましたのよ。」
ロザリアは得意げに小さな白い花をくるくると指先で回してみせている。
「幸せな花嫁になれるね。」
ふとオリヴィエがこぼした言葉に、ロザリアの手が止まった。
何かを言いたげに唇を開き、けれど、そのまま、飲み込んでしまう。
「なりたい、ですわ。」
絞り出すようなつぶやきと、作られた笑顔。
帰り道、二人はほとんど何も話さずに家までの道のりを歩いた。
お互いに言いたいことがあるのに。
聴きたいことがあるのに。
知りながら、どちらも言葉にはしない。
自分たちはいつだってそうだ。
ロザリアがダイニングテーブルに飾った白い花が、寂しげに揺れていた。