All of me

4.

少しずつ、太陽の位置が低くなる。
少しづつ、影が長くなる。
ささやかな変化を猛烈に意識する。
彼女がここへ来てから、もう2か月近く。
夏の終わりが、足音を忍ばせて、すぐ後ろまで迫ってきていた。


「思ったほどではないですわね…。」
「なあに? どうかした?」
大きな鏡を覗き込んでいたロザリアが難しい顔をして黙り込んでいて、オリヴィエは思わず尋ねた。
ロザリアは鏡の前でくるくると回っては、髪を上げてみたり、キャミソールの肩紐をずらしたりしている。
「あまり日焼けしていませんわ。 
 以前アンジェリークが海に行って帰って来た時は、もっと真っ黒になっていたのに。」
それはオリヴィエも覚えている。
恋人と下界へと抜け出して、帰ってきたアンジェリークは、たった一日で見事に日焼けしていた。
ドレスとベールでたいていは隠れたものの、そのままではとても外に出られなくて、オリヴィエがなんとかメイクで誤魔化したのだ。

「あんたはもともと色が白いから。 黒くはなりにくいだろうね。
 私も同じだからさ。 真っ赤になって痛いけど、不思議と元に戻っちゃうんだよ。」
「…日焼けしたかったんですのに…。」
残念そうに唇を尖らせるロザリアに、オリヴィエが笑う。
「少しはしてるよ。 ほら、このへんとか。」
オリヴィエが肩のあたりをつつくと、ロザリアがくるりと振り返った。
思わぬ至近距離で目が合って、お互いに固まる。

「ど、どこですの?」
目を逸らしたロザリアが自分の肩から背中を覗き込んだ。
けれど、あまりにも勢いよく振り返り過ぎて、体のバランスが崩れたのか、ロザリアは後ろ向きのまま倒れ込んでしまう。
無意識にオリヴィエはその体を支えてしまった。
両手で抱え込むように。

少し前、海でも彼女を抱きしめたことがあった。
けれどあの時はわずかな浮力と、二人を隔てる水のベールがあったおかげで、強くは意識しなかったのだ。
今、まともにロザリアの体に触れて感じる、柔らかさと暖かさ。
手にしている物の確かな感触に、なにもかも忘れてしまいそうになる。
過去も現在も未来も。
…二人を隔てる、全ての物を。

オリヴィエはロザリアの首筋に唇を寄せ、息を吸い込んだ。
潮の香りと彼女の持つバラの香り。
頭の奥にわずかに残っていた理性をかき消してしまうような、蠱惑的な香り。
抱きしめる手に力がこもり、唇を彼女のなめらかな肩に這わせていく。

耳に触れたオリヴィエの熱い吐息に、ロザリアは体をこわばらせた。
彼の腕から逃れようと思えば、いくらでもできるのに、体が動かない。
オリヴィエの体が触れている背中が熱いくらいに痛くて。
足の間に彼の足が入り込んでくる感触に、身体ごと絡め取られてしまいそうで。
オリヴィエの唇がキャミソールの肩紐をわずかにずらし、白く浮かび上がる水着の痕を吸い上げる。
ちりっとした痛みに、ロザリアはぎゅっと目を閉じ、小さく息を漏らした。

その吐息に、ふと我に返ったオリヴィエは急に体を離すと、バランスを崩していたロザリアをきちんと立たせた。
「ごめん…。」
ロザリアの体を包んでいたオリヴィエの腕から力が抜け、二人の間に距離が空く。
さっきまでの熱のせいか、その距離でさえとても冷たく思えて。
とっさに、彼へと伸ばされたロザリアの手。
オリヴィエはその手を押しとどめると、ひどく傷ついたような笑みを浮かべた。

「ちょっと歩いてくるよ。 すぐ戻るから。」
逃げるようにオリヴィエはドアを開ける。
「待って!」
ロザリアが叫んだ。

「行かないで…。 わたくしに、あなたとの思い出を与えてはくださいませんの?」
ぴたり、とオリヴィエの足が止まった。
顔を隠していた金の髪をかき上げ、ダークブルーの瞳がロザリアをとらえる。

「私に抱かれて、あんたはそれをいい思い出になった、って言うつもりなの?
 綺麗にリボンを巻いて胸の奥にでもしまっておくの?
 あんたはそれでもいいかもしれない。
 でも、私は…。 一度だけ、なんて、出来ないよ。」

バタン、とドアが閉まり、ロザリアは一人取り残された。
苦しくて、苦しくて。
こんな時は逆に涙は出ないのだと思い知る。
彼も同じだろう。
あんな顔をさせてしまった。
かの地での彼はいつも華やかで、そして優しかったのに。


日が落ちていく。
呆然と床に座り込んでいたロザリアの耳に、小さな電子音が聞こえてきた。
のろのろと立ち上がり、トランクの一番下から通信機を取り出す。
この二か月余り、一度も鳴らなかったこの機械が鳴り出したこと。
ロザリアは目を閉じて、そのボタンを押した。

「ロザリア? わたしよ。 アンジェリークよ。」
ずいぶんと懐かしい気がする。
この2か月程の日々がどれほどロザリアにとって大切で、愛おしいものであったか。
もちろん聖地のことを忘れていたわけではない。
それでも、この日々が永遠であればいいと何度も願っていたのも事実だ。

「そっちはどう? どれくらい経ってるの?」
何も言わないロザリアを気にして、アンジェリークが話しかけてくる。
「アンジェ…。 わたくし…。」
その一言でアンジェリークも安心したらしい。
ふう、と小さく息をつくと、まじめな声音に変わった。

「もう、夜が明けるの。
 月の曜日の朝一の謁見には間に合うように帰ってこないと、ロザリアがいないことが皆にばれてしまうわ。
 この2日間は、ちょうど週末で体調がよくないって言って、人払いもできたけど…。」

聖地でアンジェリークと交わした約束を思い出す。
オリヴィエのところにいられるのは、聖地の時間で2日間。
それ以上は望まないし、二度と会えなくてもいい。
普通の男と女として、ひと時を過ごしたい。

初めから終わりが決まっていた。
残酷で、甘い時間が終わろうとしている。


「お願い。 あと少し。
 こちらの時間で一日だけでいいの。 きちんとオリヴィエと話をしたいの。
 わたくし、まだ、なにも、伝えていない…。」
通信機の向こうで、アンジェリークがグッと息を飲んだのがわかる。
「一日…。 うん、ギリギリまで待つわ。
 少しくらいなら、遅刻してもわたしがなんとかするから。 今度こそ、心残りを作らないでね。
 わたし…。ロザリアにも幸せになってほしいの。」
「ありがとう、アンジェ。」
沈黙した通信機をロザリアは握りしめた。

明日。
この海に朝日が昇ったら、今度こそ、オリヴィエとの永遠の別れが待っている。

外には星が瞬き、寄せては返す波の音だけが、ロザリアの耳を撫でていく。
出ていったきり、オリヴィエはまだ帰ってこないけれど、このまま、別れることだけはできない。
最後に自分の気持ちをすべて伝えたい。
ロザリアはまんじりともせず、オリヴィエの帰りを待っていた。



窓の中に小さなランプがともっている。
オリヴィエは静かにドアを開け、体を滑り込ませるように、家の中へ入った。
手にしていた小ぶりな箱をダイニングテーブルに置くと、しゃらん、とガラスの重なる音がする。
この間、ロザリアが見惚れていた風鈴。
せめて彼女の思い出に、と町で買ってきたのだ。

まさかこの時間まで彼女が起きているはずはないと思っていたオリヴィエは、奥でゆらりと人影が動いたことに驚いた。
「起きてたの?」
声をかけると、ロザリアはにこりと頷いた。

「待っていたかったんですの。 
 でも、誰かを待つことが、こんなにも辛いことだなんて、思ってもいませんでしたわ。
 風が吹くたびに、あなたの足音のような気がして。
 光が揺れるたびに、あなたの声が聞こえた気がして。
 待つことがこんなに、寂しいなんて、知らなかった…。」

ランプの明かりが小さくなる。
オリヴィエは静かに彼女の言葉を待った。
予感はしていたし、覚悟もしていた。
ただ、その時が今なのだと、認めることが怖いだけ。

「わたくし、もう、戻らなくてはいけませんわ。
 アンジェリークと約束した2日間が過ぎてしまったんですの。」
「2日?」
「ええ。聖地の時間で2日。…こちらでは2か月、過ごすことができましたわ。」

オリヴィエは息を飲んだ。
ロザリアと過ごした、この時間が、聖地ではたったの二日。
それはすなわち、彼女が聖地に戻れば、あっという間に、二人の時間は離れて行ってしまうということだ。
聖地での1年が、ここでの30年。
考えただけで、気の遠くなる年月の違い。


「オリヴィエ。」
ロザリアが近づいてくる。
彼女は腕をオリヴィエの背中に回し、鼓動を確かめるように、胸に耳を寄せてきた。
抱き付く、というよりも、抱擁、というような。
ロザリアの全身がオリヴィエを包み込む。

「あなたが好き…。
 ずっとずっと、女王候補の時も、女王になってからも、あなただけをずっと想ってきましたの…。
 でも、一度も言えなかった。
 いつかサクリアがなくなるかもしれないと、わかっていましたわ。
 でも、不思議なんですのよ。
 わたくしがしていた想像では、いつも、わたくしが先に聖地を出るんですの。
 まさか、あなたが、わたくしを置いて行ってしまうなんて…。 考えてもみなかった…。」

ロザリアと触れあっている場所から、暖かさが流れ込んでくる。
女王のサクリアとは違う。
彼女自身の、人としての、ぬくもり。

「好き。あなたが好き。
 でも、わたくしは女王。 この宇宙を支えていかなくてはいけない。
 なにがあっても、この事実は変えられない…。
 あなたをどれほど好きでも、失いたくなくても、 わたくしは女王であることをやめることができませんわ。」

オリヴィエはロザリアの頭に手を添えると、そっと抱き寄せた。
細い肩。小さな背中。
なのに、この体が全宇宙の命運を背負っているのだ。


「あなたがいなくなって、アンジェリークはとても心配してくれたの。
 あの子だけは、わたくしの気持ちを知っていたから。
 ここへ行けるように手配してくれたのも、あの子。
 思い出をつくって…。あなたを、きちんとあきらめられるように、って…。」

オリヴィエが去ってからのわずかな間を、ロザリアはほとんど覚えていない。
自分の周りの空気が、まるで水に変わっているように、呼吸をするのさえも億劫で、身動きが取れない。
何をしていても、水に映る自分を遠くから見ているような気がした。
「陛下。」
アンジェリークの呼ぶ声すら、遠い、別世界のことのように思えて。
自分がこんなに弱い人間だなんて信じられなかった。
毎晩、水に沈んでいく夢で目が覚めて、眠れない。
食事をすることもできない。
そんなロザリアを見かねて、アンジェリークがこっそりとこの計画を立ててくれたのだ。

「諦められると思っていましたの。
 二人の思い出を作れたら、それを抱いて、一生、生きていけるって。
 でも…。」

「ロザリア…?」
小刻みに震えだしたロザリアの体をオリヴィエはぎゅっと抱きしめる。

「わたくしが聖地に戻ったら、あなたはきっとわたくしを忘れてしまう。
 ほかの女性を愛して、あの教会で式を挙げて、幸せな家庭を築いて。
 そんなあなたをわたくしはずっと見ていなくてはいけないんですわ。
 そんなこと…。とても耐えられない…。」

ぽたり、と青い瞳から一滴の涙が零れ落ちる。
我慢していた分だけ、止まらない、涙。

「いっそ体ごとちぎれてしまえばいい。
 だって、女王のわたくしと、あなたを想うわたくしと、同時には生きていけないんですもの。
 あなたを愛しているロザリアを殺してしまえば、女王のわたくしだけが残る。
 そうすれば、もう、こんなに苦しまない。 もう二度と誰も愛さなければいい!
 女王だから。 わたくしは…女王だから。」

これほどの言葉を、ずっと抱えていたのか。
あの笑顔の裏で。
オリヴィエは涙を流し続けるロザリアの背中を撫で続けた。


ロザリアをおいて聖地を出た日。
オリヴィエの心も半分死んだと思った。
殺した、というほうが正しいかもしれない。
ロザリアへの想いを抱えたまま、生きていく事は辛すぎるから。
何もかも忘れて、全く新しい人生を生きていこうとした。
けれど、再び彼女が現れ、二人で過ごした日々は、オリヴィエに新しい夢を与えてくれた。
きっと自分は最後まで、愛することしかできない。
あらゆる未来もすべては、この想いと共にあるのだ、と。


「あんたは女王だよ…。
 この宇宙があんたを必要としてるんだ。 それは誰にも奪えない。」

腕の中のロザリアがピクリと体を震わせる。
永遠の別れの言葉を聴くのを拒むように、耳を塞いだロザリアの手を捕まえたオリヴィエは、そのまま彼女の唇に口づけを落とした。
一瞬、驚いて目を見開いたロザリアだったが、すぐにその口づけを受け入れる。
長い時間、重なり合った唇が離れた後、オリヴィエはロザリアを強く抱きしめた。

「あんたが女王であり続けなきゃいけないなら、私が、あんた以外の物を捨てるよ。
 どこまでもついていく。
 なにもいらない。 なにもほしくない。
 あんたがいれば、いい。」

百の言葉よりも、たった一度のキスを。
再び重ね合わせた唇から吐息がこぼれる。
ランプの小さなあかりから延びた影が、やがて、一つに重なっていった。

そして、約束の夜が明ける。
小さな海辺の家には、人気が無くなり。
物置の裏の忘れられたゴムボートが砂に埋もれていた。



常春の聖地には、全宇宙を統べる女王陛下が住んでいる。
現女王である青い瞳の女王の治世は、歴史上、類を見ないほどの繁栄を記録し、後世『青の時代』と称されるほどになっていた。
宇宙にあまねく届く、女王のサクリア。
その偉大なる女王宮に、本来聖地にはあるはずのない、2つの物が存在している。

一つは、青いガラスの風鈴。
もう一つは、『彼』。
金の髪と見事な美貌を持つその青年は、名前以外の何も持たず。
公式の存在として認められていない彼のもとを訪れるのは、女王と補佐官、そして数人の守護聖だけだった。

「ロザリア…。」
夜毎、彼は腕の中の少女を愛おしげに抱きしめる。
名前以外のすべてと引き換えに、彼が手に入れたのは彼女の名前。
他の誰も呼ぶことのできない、ロザリアという一人の少女の名前。

やがて青の女王の時代が終わりを迎えた日。
青い瞳の女性と金の髪の青年は、静かに手を取り合って、聖地を出ていった。

あの夏を過ごした海辺の家で、青い風鈴が揺れている。


FIN
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