CROSS ROAD

1.

空を舞う鳥の声で目を開けると、外はまぶしい光に満ちていた。
昨夜までの雨の名残が光の粒になって木々の葉から零れおちていく。
自分がソファに寝転んでいることに気がついたオリヴィエは、ふと目を開けて飛び起きた。
隣に眠っていたはずのロザリアの姿がない。
寝る前、彼女にかけておいたストールがオリヴィエの身体にかけられ、乱れていた周囲もすっかり整頓されていた。
一瞬、あの出来事の全てが夢だったのではないかとさえ思う。
それほどまで、彼女の気配は消えていた。

まさに嵐のような一夜。
補佐官室で一度目の愛を交わした後、彼女を抱きあげて、誰もいない廊下を通り、夢の執務室へと連れてきた。
ロザリアが望んだわけではない。
補佐官室には彼の面影が多すぎて、オリヴィエが耐えられなかったのだ。
暗闇の中、キャンドルの炎が揺れる。
窓を叩く雨と、時折まぶしいほど光る雷に、深海をたゆたうような、世界に二人きりの時間。
ふきつける雨が窓を揺らしている間中、彼女を求め続けた。彼女もオリヴィエを求めてくれた。
今までの想いを埋め尽くすような、熱いひと時。
そして、いつのまにか彼女を腕に抱いたまま、眠りについてしまっていた。
もし、それが誰かの目に触れ、罪に問われたとしても構わない。
そう思いながら、彼女を腕に閉じ込めた。

「ロザリア?」
探そうとして、ストールを身体から離したとき、ふと、薔薇の香りがした。
まちがいない、ロザリアの香り。
夢ではなかったことを確かめるように、オリヴィエはストールを自らに巻きつけ目を閉じた。
これから、多くの障害が訪れることになるだろうけれど、彼女のためなら、どんなことでも耐えられる。
たとえ友を失うことになったとしても。


オリヴィエがロザリアの欠勤を知ったのは、もう昼近くになってからだった。
自分のせいで、体調を崩したのかもしれないと不安になる。
一人で想う時間が長すぎて、抑えきれない熱を彼女にぶつけてしまったから。
「大丈夫よ。少し疲れた顔はしてたけど。とにかくたまには休ませてあげなくちゃ。
絶対にお見舞いにも来ないで、って、言ってたわ。ゆっくりしたいんですって。」
女王アンジェリークにはそう言われたものの、気になって仕方がない。
家をたずねようかと思った時。
「オスカーも帰ってくるもん。きっと、手厚ーーーく看病するにきまってるわ。」
「…今日、帰ってくるの?」
「うん。もう向こうは出てるはずよ。時間まではわからないけど。」
アンジェリークの言葉に足がすくんだ。
いつかはオスカーに話さなければならないことはわかっているけれど。
今は彼の顔をまっすぐ見る自信がなかった。



日が傾き、通りの街頭に明かりがともり始めている。
オレンジ色の光を背中に受けて、両手に荷物を抱えたオスカーは早足で家路を急いでいた。
屋敷の前まで来て、ふとオスカーは足をとめる。
なにかがいつもと違うような気がしたのだ。予感、というか勘とでも言うべきか。
戦いのさなかにも時々訪れる、特有の感覚。
足音を忍ばせるように近付いたオスカーは、いつもよりもゆっくりとドアを開けた。
「ロザリア?」
まだこの時間、彼女は聖殿にいるはずだ。
わかっていたはずなのに、声をかけてしまったのは、屋敷の中の空気と一緒に彼女の香りが流れてきたような気がしたから。
やはり中に人影はない。
そんなに彼女を求めているのかと、半ば自嘲の笑みをこぼしながら、中へ入った。

リビングの片隅に荷物を置き、ソファに腰を下ろしたオスカーは一番上まで止まっていたボタンをはずし、大きく息を吐いた。
ジュリアスとの出張は気を抜く暇がない。
首座が出向くほど重要な案件だということもあるし、ジュリアス自身が旅先で羽目を外すなどということを許さない。
普段の出張ならば、夜は酒場の一つにでも出向くところだが、今回は一度もなかった。
今夜はロザリアにも少し付き合わせよう。
彼女の好きな白ワインがたしか数本残っていたはずだ、と、セラーを覗いた時、違和感に気がついた。
サイドボードに飾られていた、二人の写真がなくなっている。
そして、彼女のお気に入りのアクセサリートレイも。
背中を這う悪寒に追いかけられるように、彼女が使っていた部屋に走ったオスカーはドアを開けて、愕然とした。
家具だけが残された部屋。
出かける前までそこにあった、全ての物が消えていた。



アンジェリークの私室は見事なまでに彼女の好みが反映された少女趣味だ。
ピンクだらけの部屋の中に一輪の青いバラ。
ロザリアは自らの体を抱きしめるように、ソファに深く座り、うつむいていた。
今日のロザリアの様子は尋常ではない。
足元には大きなトランクがあり、いくら鈍感なアンジェリークでもおおよその見当がついた。

「いったいどうしたの?ケンカ?どうせすぐにオスカーが謝りに来るからいいけど。」
ケンカらしいケンカのなかった二人だ。
家出騒ぎの一つや二つ、今さらといってもいいだろう。
アンジェリークはテーブルにお茶を置くと、自分もソファに腰を下ろした。
向かい合って、愚痴を聞いてあげるのも女友達の役目。
「違いますの。」
どこか迷っているロザリアにアンジェリークはいつもと違う気配を感じた。
「わたくしが…。いいえ、オスカーはわたくしに縛られているような方ではありませんわ。今までのことに感謝しなくては。」
「それって…。どういうこと?」
まるで、関係が終わったかのような口ぶり。
しかも。

「オスカーがそう言ったの?」
ロザリアは小さく首を横に振る。
「いいえ。でも、わたくしのせいなのは確かですわ。」
目を伏せたままのロザリアに、どう言葉をかけていいのか。
アンジェリークはなんども口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
オスカーがプレイボーイだったのは知っていたけれど。
「ここに置いてくださらないかしら?しばらくでいいの。落ち着くまで、お願い。」
決意を秘めた青い瞳にまっすぐ見つめられて、アンジェリークは頷いた。
「もちろんよ。いつまでいたって構わないんだから。」
「ありがとう。」
ようやく微笑んだロザリアに、アンジェリークはほっと、胸をなでおろした。

同時にドアをノックする音。
女王付きの女官が顔を出し、「あの、陛下にお目通りを願い出ている者がおります。」と告げた。
「誰?今、取り込み中なんだけど。」
女官は少し困ったようにロザリアに視線を向けると、アンジェリークに向き直った。
「オスカー様です。」
ロザリアとオスカーが生活を共にしていることを、聖殿に仕えている人間ならば誰でも知っている。
あのオスカーもロザリアならば、と、半ばやっかみ、半ば認め、一時は噂の種だったのだ。
そして今日、明らかに家出をしてきたと思われるロザリアの様子。
おそらく隣の部屋に控えていた女官たちは耳を大きくして、さっきまでのやり取りを聞いていたはずだ。

「帰ってもらって。」
オスカーの名前を聞いた瞬間、ロザリアが身を固くしたことに気がついた。
詳しい事情はわからないけれど、今は親友を守ることを最優先したい。
「ですが…。」
「いいの。女王命令って言えば、言うとおりにするはずよ。とにかく今日は頭が痛いし、お腹も痛いし、全身おかしいから、もう誰にも会わないって言っておいて。」
一礼して女官が下がると、アンジェリークはロザリアの肩をぎゅっと抱きしめた。
全身に広がる女王の慈愛にロザリアは別の意味で震えを感じる。
本当に罪を犯したのは、自分。
きっとこの先、地獄に堕ちるだろう。
ロザリアの瞳によぎった暗い影に、アンジェリークは気がつかなかった。


女王の拒絶の言葉に、オスカーはロザリアがここにいることを確信した。
もとより彼女が頼る存在は親友であるアンジェリークしかいないのだ。
目の前の女官の手をとると、その手に唇を寄せ、じっと瞳を見つめた。
「あ、あの・・・。」
まだ若い女官はオスカーの視線をまともに受け止めてしまい、手を震わせている。
視線をそらさずに、囁いた。

「教えてくれないか?有能な補佐官殿は陛下とご一緒だったか?」
一瞬言い淀んだ女官の手を、ほんの少し力を込めて握る。
頬を赤らめて、女官は頷いた。
「ありがとう。君はとても純粋でチャーミングな女性だ。」
すっと手を離すと、女官は夢から覚めたような顔をして、オスカーを見つめている。
軽く唇を上げて見つめ返し、背を向けて歩き出した。

女官の視線を背中に感じる。
ロザリアが機嫌を損ねた理由はわからないが、もしかすると、こういう自分の態度が問題なのかもしれない。
オスカーにとっては条件反射であっても、ロザリアがたびたび眉をひそめていたことには気づいていた。
その分、ロザリアへの愛も十分に伝えてきたはずだし、彼女もわかってくれていた。
とりあえず今は退散するしかない。
オスカーは私邸に戻ると、夜が来るのを待った。



一面の青に、輝く星。
豪奢だけれど、よそよそしいイメージがするのは、ここに人が住んだことがないからだろう。
宮殿の奥の女王専用のスペースの空き部屋に、ロザリアはいた。
空いている部屋はいくらでもあるし、彼女は補佐官だ。
女王と寝食を共にしたとしても、何の不思議もない。
夕食を一緒に、とのアンジェリークの誘いを断り、ロザリアは息をひそめるように蝋燭の明かりを見ていた。
昨夜、炎の下で、オリヴィエを受け入れたことを後悔はしていない。
ただ、今はオスカーを傷つけることが怖かった。
別れを告げれば、彼は悲しみ傷つくだろう。けれど、別れ以上の傷を彼に与えることはどうしてもできない。
今日一日考えて出した答えが正しいかどうか。
不意にろうそくの炎が細くなり、消えた。

「ロザリア。」
彼が来ると、わかっていた。
夜に浮かんだ緋色の髪と、鮮やかな長身。
ここが女王専用のスペースであっても、彼にとっては障害にすらならないだろう。
窓を覆うレースのカーテンを開けると、氷青色の瞳がまっすぐにロザリアを見る。

「開けてくれ。君と話がしたい。」
ガラスをコツコツと叩く指。
端正なオスカーの表情はロザリアを見て和らいだように思える。
カーテンをぎゅっと握りしめたまま、ロザリアは大きく息を吸い込んだ。
「開けられませんわ。もう、あなたと二人きりでお会いすることは終わりにしたいと思いますの。」
ふう、と大げさにため息をついて、オスカーが肩をすくめた。

「俺になにか悪いことがあったのなら、素直に謝ろう。とりあえず、中へ入れてくれないか?
帰ってきてから、まだ君を一度もこの腕に抱いていないんだぜ。」
笑みを浮かべながら自らを指差すオスカーに、ロザリアの胸が痛くなった。
オスカーは自分のことを心から愛してくれている。
いっそ、全てを打ち明けて、許しを請えば。
迷う心が沈黙を呼んだ。ロザリアの言葉を待つオスカーの姿が、流れる雲に隠れる。

「もう、あなたとお話しすることはありませんわ。」
彼は許してくれるだろう。
けれど、それは自分の苦しみを彼に与えるだけのことなのだ。
「俺にはある。君に話したいことが山ほどな。俺を愛しているのなら、開けてくれないか。」
かたくななロザリアの態度に、オスカーの表情が変わった。
彼女のまとう拒絶のオーラがいつもと違うことにようやく気がついたのだ。
オスカーが窓の取っ手を揺する激しい音がしている。

「わたくしは誰も愛したりしませんわ。だれにも愛されたくない。もう、構わないでくださいませ。」
一気に言ったロザリアは厚いカーテンを閉めると、部屋の中ほどまで走り、耳をふさいでしゃがみこんだ。
「ロザリア!」
一度目よりも哀しげな呼び声が、耳について離れない。
何度も窓を叩く音がしばらく続いた後、突然静寂が訪れた。
ロザリアは耳をふさいだまま、空が白くなるまで、その場に座っていた。



突然雲が忍び寄り、空に点る小さな明かりをかき消すと、辺りは一面の闇。
目の前の屋敷から一条の明かりも漏れていないことを知ったオリヴィエは、門柱に背を預け、二人の帰宅を待った。
出張から帰ったばかりだから、外で食事でもとっているのだろう。
楽しい食事の時間を邪魔するつもりはない。
でも、二人きりで夜を迎えさせることは、どうしても許せなかった。
彼女はもう、渡せない。
闇の奥から人影が現れ、オリヴィエは息をのんだ。
見間違いようのない姿がゆっくりと近づいてくる。
目を凝らしてあたりを見たが、彼は一人だった。

「オリヴィエか。」
氷青の瞳が射抜くようにオリヴィエを見る。
鋭い刃のような眼光に一瞬、彼が全てを知ってしまったのではないかと思った。
オリヴィエの周囲の風が凪ぐ。
「わるいな。今日は付き合えそうもない。」
オスカーは溜息をこぼしながら、すれ違いざまオリヴィエの肩を叩いた。
その力ない姿に思わず友として声をかけてしまう。
「…どうかしたの?」
先に行ったオスカーの足が止まり、ゆっくりと振り向いた。
「やっぱり聞いてくれないか?酒だけならある。」
返事の代わりに後ろ姿のままのオスカーの後を追いかけると、彼は手探りで部屋の明かりをともし、オリヴィエを招き入れた。

セラーから取り出したワインを無造作にテーブルに並べたオスカーは、乱暴にコルクをむしり取ると、グラスになみなみと注いで一気にあおった。
酒を楽しむというよりも、酔いを求めているだけの飲み方。
オリヴィエは自分の前に置かれたグラスに口をつけることもせずに、オスカーを眺めていた。
なぜ、ここにロザリアがいないのか。彼女はなにも告げてはいないのか。
切り出すべきか迷ううちに、ボトルが空く。
いつもならこれくらいで酔うはずのないオスカーなのに、今日は2本目を開けようともせずにグラスを置いた。

「ロザリアが出て行ったんだ。まあ、言わなくても見ればわかると思うがな。」
自嘲気味な笑みを浮かべ、オスカーが呟く。
しんとした屋敷。
彼女という存在がこの場所にどれほどのぬくもりを与えていたのか、嫌というほど感じてしまう。
「理由は、知ってるの…?」
声が震えそうになるのを必死でこらえる。
オスカーはソファの上で小さく身じろぎすると、ゆっくりと足を伸ばし、首を振った。
「わからない。ただ…。」
「ただ?」
「誰のことも愛していないし、愛されたくもない、と。そう言われた。」
氷青の瞳がオリヴィエを捕える。
「情けないな…。どうしたらいいのか、わからないんだ。俺を愛していないと言う彼女を前に、なにをすればいいのか。」
オスカーはラベルを確かめることもせずに、次々とコルクを抜いては、グラスへと継ぎ足していった。
時折呟きのように零れる言葉は、オリヴィエに向けたものなのかもわからない。
「本当に終わりなのか…。」
反省と、後悔と、彼女への一途な愛の言葉。
オリヴィエはただ黙ってオスカーの言葉を聞いていることしかできなかった。


肌をさすような冷気は真夜中特有の静けさのせいだ。
寝息を立て始めたオスカーにひざかけをかけたオリヴィエは、グラスに残ったままのワインに口をつけた。
熟した果実と、苔むした土の香りが喉の奥で熱に変わる。
『愛してもいないし、愛されたくもない。』
ロザリアの言葉を思い出して、ぐっと拳を握った。
彼女は自分を選ばなかったのだ。
誰も愛さない。それが彼女の答え。
昨夜、何度も語った愛の言葉も、彼女の熱も、この身体が覚えている。
それなのに。
オリヴィエが静かに外へ出ると、空気に触れた息が白く変わる。
冷えた指先を暖めることも忘れて、オリヴィエはまっすぐと歩いて行った。


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