CROSS ROAD

2.

噂というものはすぐに広がるものだ。
ロザリアがオスカーの屋敷を出たということは、次の日にはもう聖殿中の誰もが知るところになっていた。
ひそひそと小声でささやく声があちこちで耳にはいるものの、面と向かってオスカーに尋ねてくるものはいない。
どこか遠慮がちな空気のまま数日が過ぎて、いつも通りの執務に向かっている時だった。

「オスカー様。」
以前深い付き合いのあった女官が、書状をもって現れた。
肉感的な容姿の通り積極的で、遊びと仕事をわきまえた彼女の態度がオスカーは気に入っていた。
ロザリアとつき合うようになってからは、もちろんただの守護聖と女官に戻っていたが、好意は常に感じていたのだ。
彼女は今日もどこか誘うような瞳でオスカーを見ている。
書状を渡された時、ふと、手が触れ合うと、くすり、と、彼女の唇から笑みがこぼれおちた。

「あら、相変わらずお手の早いこと。ロザリア様はあのように落ち着いていらしても、まだ少女ですものね。
オスカー様が満足できなくても、仕方がありませんわ。」
オスカーの手をなまめかしく撫で上げる女官の指。
匂い立つような色気よりも、オスカーは彼女の言葉に耳を疑った。
「俺が、なんだって?」
女官が指を遊ばせるのもそのままに、氷青の瞳でじっと見つめる。
彼女は艶然とほほ笑むと、オスカーの唇に指をあてた。

「皆が話しておりましたわ。ロザリア様がオスカー様を満足させられなかった、とおっしゃったんですって。
それに、もともと、オスカー様の御屋敷にロザリア様から押しかけたのでしょう?
…オスカー様はお優しいから、お付き合いして差し上げたんでしょうけれど。」
言葉の出ないオスカーに女官はもう片方の手を伸ばし、指先を絡めた。
「私なら、オスカー様を満足させられますわ。…以前よりも、もっと。」
寄せられた唇を手で制して、オスカーは立ち上がった。
「すまないな。今日は予定が詰まっているんだ。」
女官から漂う香水の香りに息がつまりそうになる。
サインを済ませた書状を手渡すと、女官は少し残念そうにオスカーから離れた。

一人部屋に残ったオスカーは深いため息をつくと、伏せてあった写真立てを眺めた。
幸せそうに微笑むロザリア。
オスカーがプレゼントしたドレスを着て、真っ赤な薔薇の花束を抱えている、二人で過ごした最初の彼女の誕生日の写真だ。

「このバラ、オスカー様みたいですわ。」
レンズ越しに見えた彼女の青い瞳は愛に溢れていた。
出来上がったこの写真を、恥ずかしいと言いながら、机に飾ることを彼女も許してくれていたのだ。
ほんの少し怒っているだけで、すぐに戻ってくる。
別れなどと大げさに騒ぎ立ててしまえば、戻ってきにくくなるだけだ、と、思っていた。
けれど。
さっきの女官の言葉で、初めてもうロザリアが戻ってはこないのだと理解した。
オスカーから別れを告げた、と言ったのは彼女の最後の優しさなのだろう。
たとえ一時は冷たい男と噂されても、それを魅力だと思う女はたくさんいる。
彼のプライドを守るための優しい嘘。

「残酷だな。君は。」
別れを実感したオスカーの胸に冷たい風が吹く。
もう二度と戻らない美しい日々を思い出すように、オスカーは写真を指でなぞったのだった。


特徴のある女王の足音に、オリヴィエはあわてて机に書類を広げた。
なんとか普段の執務はこなしているものの、心は別のことにとらわれている。
この間から、聖殿は「ロザリアがオスカーに振られた」という噂でもちきりだ。
しかも噂の出所はロザリア自身らしい。問いただしたくても、彼女はずっと女王の元にいて、ほとんど姿を見ることもない。
もう一度話がしたいと思いながら、全く機会のないまま、日だけが過ぎていた。

「オリヴィエ。お茶しない?」
予想通り女王アンジェリークが顔をひょっこり覗かせた。
さも仕事が忙しい、というふりをしながら、オリヴィエはアンジェリークを部屋に招き入れると、紅茶を淹れた。
部屋に広がるダージリンの香りは、どうしてもロザリアを思い出す。
オリヴィエはアンジェリークの前に紅茶を置くと、自分も向かいに腰を下ろした。
「オリヴィエはオスカーと仲がいいでしょ?何か聞いてないの?」
唐突な女王の言葉にオリヴィエは目を丸くした。

「オスカーったら、どうして何も言わないのかしら。噂を否定も肯定もしないなんて。」
身を乗り出すアンジェリークに、オリヴィエはカップを持ち上げると、息を吹きかけて湯気を散らした。
少し猫舌だったロザリアは必ずこうして息を吹きかけてから、カップに口をつけていたのだ。
「まだ熱いですわ。」
ちらりと舌を出す可愛らしい仕草を、もっと早く、オスカーよりも早く知っていれば。
こんなことにはならなかったのに。

「聞いてないよ。そのことに関しては、オスカーの奴、何にも言わないんだよね。」
オスカーはもちろん気づいているのだろう。ロザリアがついた優しい嘘に。
だから何も言わないのだ。
「ロザリアは振られた、っていうんだけど、なんて言ったらいいのかな…。」
アンジェリークは首をかしげた。
「わたしは違う気がするの。ロザリア、なにかを隠してるみたい。オリヴィエは知ってるんでしょ?」
目の前の金の髪の少女はやはり女王なのだ、とオリヴィエは嘆息した。
本能的になにかを察しているのかもしれない。

「あのさ。」
自分にできることは、ただロザリアの願いをかなえることだけだ。
誰も傷つけたくないという、彼女の願いを。
「二人が納得してるなら、周りが言うことじゃないよ。人の気持ちなんて、誰もホントにはわからないんだからさ。
オスカーにだって、ロザリアにだって、なにか理由があるんだよ。」
「オリヴィエは、このままでいいの?」
間髪をいれずに尋ねられた言葉に、すぐに返事を返せない。
察するどころではない。アンジェリークはオリヴィエの想いに気づいていたのだ。
だからこそ、ロザリアがオスカーに振られたのだとしても、オリヴィエが傍にいてくれるなら、と考えた。
ロザリアの悲しみを少しでも癒してくれることを願って。
二人の別れが噂通りならば、オリヴィエも間違いなく、そうしていた。
でも、すぐにオリヴィエがロザリアと付き合いだしたりすれば、噂が嘘だと知る彼に、二人が罪を犯したことを気づかれてしまう。
その罪は、彼を深く傷つけるだろう。
そしてそれは、ロザリアにとっても、消えない傷になる。

オリヴィエは紅茶を飲み干すと、アンジェリークにほほ笑んだ。
「いいんだよ。…たしかにね、誰を傷つけてもかまわない、と、思ったこともあったけど。」
緑の瞳が見つめている。
「今はそうは思わないんだ。だから、もうこのままにしておいてくれないかな?」
「悲しいわ…。どうして、みんなが幸せになれないの?私には何もできないの?」
アンジェリークの瞳がきらりと光った。
泣けないロザリアの代わりに、泣いているのかもしれない。
「私は不幸だなんて思ってないよ。だから、泣かないで。あんたが泣くと雨になるでしょ?私はじめじめしてるのが大嫌いなんだ。」
「ごめんなさい。でも…。」
窓の外を雲が走る。
途端に降り出した雨は、聖地の全てを洗い流すように、激しく地面を叩いたのだった。



人の噂も75日、とはよく言ったもので、次々に湧いてくる新しい話題に、いつしかオスカーとロザリアのことは埋もれて行った。
何事もなく過ぎていく日々。
以前はオリヴィエと二人でお茶の時間を過ごすこともあったけれど、あの日からは一度もない。
二人きりになれば、きっと想いが溢れだして止まらなくなってしまうことを、お互いに知っていた。
恋人の友人、という立場だったオリヴィエと疎遠になったことを周囲は誰も疑わない。
むしろ当然と受け止められたようで、ロザリアは安堵していた。
公式の行事や補佐官として主催するお茶会に、当然のことながらオリヴィエも必ず参加している。
すぐそばに愛しい人がいるのに、声をかけることも、視線を合わせることさえできない。
それでも、彼が同じ場所にいるというだけで、姿を見ることができるだけで、幸せな気持ちになれた。
それ以上は望まない。望んではいけないと言い聞かせながら。


今日は風が強い。
枯れ葉の舞う様を見て、ロザリアはストールを巻きつけると、部屋へ出た。
お茶の時間をアンジェリークと一緒に過ごすために、女王の部屋へ行かなければならない。
手造りのお菓子を手に、ロザリアは中庭の渡り廊下を歩いていた。
思った通り、冷たい風が手入れの行き届いた中庭の花壇の花を揺らしている。
ストールを巻きなおし、少しの間、揺れる花を眺めていると、ヒールの足音が聞こえてきた。
約束をしたことはない。
けれどいつの間にか、二人ともこの時間にこの場所に来るようになっていた。
オリヴィエの気配だけで、ロザリアの全身が彼を求めて震えてしまう。
近付くヒールの音。
そして、一瞬だけ、彼のダークブルーの瞳に自分の姿が映る。
手を伸ばせば、彼は受け入れてくれるだろう。
けれど。
ロザリアは目を伏せ、ただすれ違った。
オリヴィエも何も言わず、通り過ぎていく。
彼の香りが消えるまで、立ち止まっていたロザリアは、しばらく経ってからやっとアンジェリークのもとへと歩きだしたのだった。

「今日のお菓子はアップルパイ?」
ロザリアが部屋に入った途端に、アンジェリークの声が飛んだ。
「朝、キッチンからリンゴの匂いがしてたもん。あたりでしょ?」
結局、ロザリアはあのまま、あの部屋で暮らしていた。
初めはよそよそしかった部屋も、今ではロザリアの好みの調度品がそろえられ、居心地のいい空間に変わっている。
ここにいれば、簡単に人が出入りすることもない。
自分が出ていくこともない。
たとえようもなく辛い夜は、アンジェリークと話をすることもできた。

「まあ、そういう勘はいいのね。でも、残念ながらはずれですわ。今日はタルトタタンですもの。」
「あーん、そっちかあ。どっちも好きだからいいけど!」
タルトを切り分けたロザリアは、一番大きいものをアンジェリークの前に置いた。
「おいしい!ロザリアはホントにお菓子も料理も上手ね!」
タルト生地にざくざくとフォークを入れ、アンジェリークは口いっぱいにお菓子を頬張っている。
ロザリアが紅茶を淹れて戻るころ、アンジェリークの前のお皿はほとんど空になっていた。

「ねえ、ロザリア。」
フォークの止まっていたアンジェリークに、おかわりを尋ねようとしていたロザリアは、その声に首をかしげた。
「本当にオスカーがロザリアに別れたい、って言ったの?」
一瞬、青い瞳の光が揺らぐ。
けれど、すぐに少しさびしそうにも見える笑みを浮かべて、ロザリアはカップに口をつけた。
「ええ。多分とても言いにくかったのでしょうね。最後まで、嫌いだとは言われませんでしたわ。」
誰に聞かれても同じように答えていた。
オスカーほどの男性をとどめておくには、自分には魅力がなかった、と。
そういえば、女官たちは納得したし、それ以上詮索もしなかった。
オスカーになら、振られても恥ではない、と皆が思っているのだろう。
「でも、オスカーはまだ、ロザリアのこと、好きなんじゃないかな? 別れちゃったこと、後悔してるんじゃないかな?」
「どうしてそう思うのかしら?」
「だって…。オスカーはいつも、ロザリアを見てるから…。」

たしかに、ロザリアは今でもオスカーからの視線を感じていた。
ふとした時、視線が合うと、逸らすのはロザリアのほう。
ついこの間のロザリアの誕生日にも、部屋からあふれるほどの赤い薔薇をプレゼントしてくれた。
いつかの誕生日と同じ、真っ赤な薔薇を。
呆れた様子のアンジェリークに、「オスカーは優しいから、別れたわたくしにもよくしてくださるのね。」と言ったばかりだ。
オスカーなら、そういうことをするかもしれないと、皆が思ってくれて、大げさにはならずに済んだけれど。
自分が罪深い人間だと、あの日ほど思ったことはない。
夜、ロザリアは枕もとの一輪ざしに1本のバラを生けた。
部屋中を埋め尽くす赤い薔薇よりも、ロザリアが大切だったのは、たった一輪の白薔薇。
渡り廊下ですれ違いざま、オリヴィエが残してくれた薔薇だったのだから。

「ただ、気になっているだけでしょう。別れた女が気の毒で、同情しているのかもしれませんわ。」
そう言わなければ、何もかもが壊れてしまう。
たとえ、アンジェリークにでも、あの事を知られたくはなかった。
知られれば、きっと非難される。
たった一度きりの罪だけれど、想いまでを否定されたなら、きっと耐えられない。
「ケーキをもう一ついかが?」
明るく尋ねたロザリアに、アンジェリークも頷いた。

いつかは全てが思い出になり、この想いを打ち明けられる日が来るかもしれない。
ロザリアが寝る前の習慣になったアロマキャンドルに灯をともすと、ぼんやりとした明かりの下で、白薔薇のドライフラワーが小さな影になり揺れていた。


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