CROSS ROAD

3.

その時は突然やってきた。
突然だけれど必然のことでもあり、いつかは来ると知っていても、到底受け入れられることではなく。
感覚として、それを知ったロザリアは、足元を登る暗い影に飲み込まれるように、その場にうずくまった。
息をすることも苦しくて、思わず歯を食いしばる。
とうとう永遠に彼を失ってしまう。
守護聖交代の議題が出たのは、その翌日の会議だった。


忙しさで気がまぎれればいいと、オリヴィエはなるべく執務の予定を詰め込んだ。
新しい守護聖への引き継ぎの業務も加わると、あっという間に時間が過ぎていく。
明日、下界へ降りるという夜、久しぶりにオリヴィエの屋敷を訪れたオスカーは、当然のようにいくつものボトルを抱えていた。
「今度の夢の守護聖は15歳だよ。ま、あんまり苛めないであげてよね。」
「俺がいつそんなことをしたんだ。」
残る時間はわずか。
お互いに長い時を過ごしてきた同士は、最後の時を静かに迎えようとしていた。
「二人で飲むのは久しぶりだな。」
オスカーの言葉にオリヴィエもうなづく。

意識して避けていた、とは言えなくても、やはり彼を真正面から見ることに抵抗がなかったわけではない。
あれからもオスカーはなにも変わらなかった。
女性への態度は相変わらずマメだし、女官と浮名を流すこともよくある。
けれど、オリヴィエは女官が話しているのを聞いてしまった。
オスカーに声をかけられても、深い付き合いになった女性は誰もいない、と。
まだ彼女のことを忘れられないのか。いまでも愛しているのか。
オスカーが想い続ける限り、彼女はオリヴィエのモノにはならない。
それでも待つつもりでいたのだ。
まさか永遠の別れが訪れるとは、思いもせずに。

「最後に二人で飲んだ日のことを覚えているか?」
忘れるはずもない。あの日だ。
オリヴィエはあいまいに首をかしげ、グラスを空けた。
すぐにオスカーが空になったボトルをわきへ寄せ、新しいシールにナイフを入れる。
開け放たれたみずみずしい香りにオリヴィエは目を丸くした。

「あんたが白なんて珍しいね。」
「ああ、これだけだ。」
グラスを変え、中身を注ぐと、少し琥珀がかった淡い色味がライトの明かりで波打った。
細い優美なボトル。彼女の残していったものだとすぐに分かった。
「白は飲み頃が早いからな。…もう遅いくらいだ。」
オスカーはグラスを目の高さまで掲げ、オリヴィエに向けると、味わうように一口飲んだ。
「心残りはないのか?」
氷青の瞳はオリヴィエを見つめている。
「…ないよ。」

ありすぎて、言えない。
オリヴィエは口端を上げ、グラスに口をつけた。
自分が去った後、彼女はどうするだろう。
オスカーともう一度やり直すかもしれない。いや、きっとそうなるだろう。
一人の人間として、オスカーは魅力的だし、もともと彼女は彼の恋人だったのだから。
考えれば考えるほど苦しくて。
苦い思いを抱えたまま、舌先に触れたワインは、やはり彼女に似ている気がした。



補佐官室のソファにもたれたまま、ロザリアは何度も時計を見上げ、そのたびにため息をついた。
もしかして、オリヴィエが来てくれるかもしれない。
自分から拒絶したのに、そんな夢を捨て切れず、補佐官室で一夜を明かしてしまった。
いつの間にか朝日が窓から差し込んでいる。
もう、彼に会うことはできない。


昨日、いつもの渡り廊下でオリヴィエと会った。
立ちつくすロザリアの前から、彼が歩いてくる。
心が痛いと言うのは、こういう痛みなのだ。大切なものを失うのは2度目。
女王の夢を失った時よりも、遥かに大きな痛みが、今、ロザリアを苛んでいる。
いつもならそのまま通り過ぎるオリヴィエが目の前で立ち止まり、ロザリアを見た。
一瞬ではなく、ブルーグレーの瞳に自分の姿がはっきりと映る。
声も出せずに、見つめ合った。お互いの瞳に、この時を焼きつけるように。

「もう、雷は怖くない?」
オリヴィエの声がする。二人きりで話すとき、彼はとても優しい声だった。
愛しくて、切なくて、涙がこぼれそうになる。
けれど、泣いてしまえば、オリヴィエの姿がにじんでしまうから。それがもったいなく思えて、ロザリアは涙をこらえた。
「後悔、してる?」
ロザリアは大きく首を振った。
「いいえ。もう一度、同じ夜があったとしても、わたくしは同じように、あなたを。」
「私もだよ。この先、何度繰り返しても、同じ夜を過ごしたい。」
後悔はしていない。
想いを通じあえたことは、なによりもの喜びだった。
でも、もしも、誰も傷つけることのない出会いならば、と思わずにはいられない。

それ以上、言葉はなかった。
穏やかな風が花壇の花を揺らすと、花弁が舞うように二人の間をすり抜ける。
先に目をそらしたのは、ロザリア。
頭を下げ、オリヴィエの脇を通り抜けると、風に流れた彼の金の髪がロザリアの身体に触れ、一瞬心が揺れた。
離れたくない。
無理なのだ、と頭では理解しているのに、何度も、何度も振り返ってしまう。
そのたびに、ただ空を見つめているだけの彼の横顔が見えて。
角を曲がれば、完全にオリヴィエが見えなくなる場所で振り向いたとき、ようやく彼がこちらを向いた。
視線が絡み合うと、堪えていたモノがあふれだしてくる。
視界がぼやけてかすんでいく中、オリヴィエの唇が動いたのがわかった。
たった5つの文字。
ロザリアも同じ文字を返すと、オリヴィエが背を向ける。
遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、暖かい雫が頬を伝うのをどうしても止めることができなかったのだった。



「ロザリア!!」
ドアの向こうで大声で名前を呼ぶアンジェリークに、知らずににじんでいた瞳をぬぐうと、ロザリアはドアを開けた。
びっくりした緑色の瞳がすぐに心配そうな色に変わる。
「徹夜したの?!ドレスがしわしわよ?」
アンジェリークはどんどん中へ入ると、手にしていた袋から白い布をとりだした。
「いいわ、もう。どうせそのドレスはいらないし。」
「え?」
怪訝に眉をひそめたロザリアにアンジェリークはにっこりとほほ笑んだ。

「早く着替えて。このワンピース、私が選んだのよ?絶対ロザリアに似合うと思うの。」
「ちょ、ちょっと、待って。どうして?どこへいくの?」
アンジェリークはワンピースを広げると、ロザリアに当てて見せる。
「うん。やっぱり似合う。…どこって、決まってるじゃない。オリヴィエが待ってるわ。」
「どうして…?」
ロザリアは茫然とアンジェリークを見つめた。
この想いは誰にも知られてはいけない。そう思って、必死に隠してきたはずなのに。
ロザリアの気持ちを察したように、アンジェリークは「気がつくわ。親友のことだもの。」と、胸を張った。

「オリヴィエのこと、好きなんでしょ?ロザリアを連れてくるから、門のところで待っているように言っておいたの。
もし行かなかったら、オリヴィエが行き倒れになっちゃうわよ。」
「でも…。」
追いかけたい。
迷う気持ちのまま、それでも動き出せないのは、どうしてもこの想いを知られたくない人がいるからだ。

「…誰も傷つかない恋なんてないわ。」
アンジェリークの腕がロザリアを抱きしめる。
その腕の中にいると、まるで柔らかな光に包まれているような気がした。

「わたし、オスカーのことが好きなの。女王候補の時からずっと。」
ロザリアの息がとまる。
アンジェリークは彼女が動けないように抱きしめる腕を強めた。
「でも、オスカーは最初から、ロザリアしか見てなかったし、二人が想い合ってるならいいと思ってたわ。今もそうよ。だけど…。
ロザリアがオリヴィエを好きなら、追いかけてほしいの。オスカーが少しでも、わたしを見てくれるかもしれないから。」

気がつかなかった。
いつでも一番に祝福してくれたアンジェリークがそんな想いを隠していたなんて。
『誰も傷つけたくない』
そう思いながら、一番近くにいたアンジェリークを、ずっと傷つけていたのだ。

ロザリアはアンジェリークの腕をほどくと、白いワンピースを手に取った。
ワンピースはアンジェリークの好みどおり、ひらひらとたくさんのフリルとレースが付いている。
彼女らしさに思わず笑みがこぼれてしまった。
「このワンピース、あんまりわたくしの好みじゃないけど、いただいていくわ。」
これ以外は、もうなにもいらない。

素早く着替えたロザリアは、オリヴィエの待つ門へと駆けていった。
門の脇に、なびく金の髪が見える。
「オリヴィエ!わたくしを連れて行って!」
彼が両手を広げた。
髪を彩っていたピンクのメッシュも、華やかなメイクもない。
素のままのオリヴィエが、ロザリアを受けとめるために両手を広げ、立っている。
彼の中に飛び込んだロザリアは、昨日声に出せなかった言葉をようやく口にした。
「私もだよ。」
重なり合う口づけは、離れていた長い時間を埋めるように、しばらく続いていた。



「ホントにこれで良かったの?」
遠くからでも、ロザリアの輝くような笑顔がわかる。
付き合いだした頃、彼女がいつも見せてくれていた、あの笑顔も、このごろは全く見ることがなかった。
「ああ。これでよかったんだ。陛下には無理な願いを聞いてもらって、本当に感謝している。」
おそらく、自分が言ったとしても、ロザリアは受け入れなかっただろう。
オスカーへの罪悪感から、オリヴィエを想いながらも別れて行ったはずだ。

渡り廊下で二人を見た時、初めはただの偶然だと思った。
ただすれ違い、通り過ぎていくだけで、特別な会話をすることもない。
けれど、偶然も重なれば必然になる。
午後のお茶の時間の少し前、オスカーが2階の反対側の窓から下を眺めると、ちょうど渡り廊下が見えた。
何もない時はいつでも、二人はそこにいる。
そして一瞬だけ、視線を交わした。本当にお互いが瞳に映るか映らないかの、ほんの一瞬だけ。
そのことに意味があるとすれば、思いつくことはひとつしかなかった。
恋人だった彼女と、親友の彼と。
けれど、なにかがあると思うには、あまりにも二人は、普通どおりに過ごしていて、どうしても確信が持てなかったのだ。

そして、昨日、初めて想いを交わす二人を見た。
『愛してる』
オリヴィエの唇がそう動いて、彼女を見つめている。
『愛してる』
同じ言葉をロザリアが返す。
そして、彼女は泣いていた。
崩れ落ちるように、涙で溶けてしまうのではないかと思うほど、いつまでも。

オリヴィエの屋敷を訪ねた時、心はすでに決まっていた。
おそらく、あの夜、二人の間にはなにかがあったのだろう。
今さら、それを聞くつもりもない。そしてオリヴィエも決して話すことはないはずだ。
だが、長い年月を友として過ごしてきた。
心残りがないというオリヴィエの嘘はすぐに分かる。
だからこそ、深夜にもかかわらず、女王に説得を頼んだのだ。



「オスカーは強いのね。それに、とても優しいわ。」
オリヴィエがロザリアの手を握り、門の外へと歩いていく。
ロザリアの長い青紫の髪がふわりと流れると、二人は見つめ合い、微笑みあった。
「それは違うさ。…俺は、自分がこんなに弱い人間だと思わなかった。」
「どうして? ロザリアの幸せのために、わたしに説得を頼んだんでしょう?」
ふっと、オスカーが笑った。
たしかにそう見えるかもしれない。
けれど。

ロザリアがオリヴィエを想って泣く姿を見るのがつらかった。
自分ではない誰かを想って泣く姿を。
このまま、オリヴィエと別れれば、いつかは自分をもう一度愛してくれるかもしれない。
けれど、もし、ロザリアが彼を忘れなかったら。
オリヴィエを想い続ける彼女を、ずっと傍で見ていくことができるだろうか。
今の彼女を見ているだけで、こんなにも胸が痛いのに。

「ロザリアのためじゃない。…俺は、俺のために、彼女を手放したんだ。」
本当に強い男なら、手に入れるまで離したりしない。
彼女の涙も悲しみも全てを受けとめ、待ち続けることができるはずだ。
強さを司る自分の心に、こんな弱さがあったことを、愛が教えてくれた。

ロザリアの姿が小さくなっていく。
そして、いつしか二人が門の向こうに消えた。

風が彼の緋色の髪をさらい、その氷青の瞳を晒した。
冷たい湖面のような静かな青は悲しみの色。
見てはいけない気がして、アンジェリークは目をそらした。
オスカーはアンジェリークがどうやってロザリアを説得したのかまでは知らない。
あの頑固なロザリアが、オリヴィエと去る決意をしたのが、ただ一人の親友のためなのだ、ということも。

「ね、オスカー。ちゃんと約束は守ってくれるんでしょうね。」
「ああ、ロザリアの代わりにこき使ってくれ。」
「じゃあ、まずはお茶の準備をしてもらおうかしら。」
「おっしゃる通りに。」
仰々しく胸に手を当てて、礼をしたオスカーを、アンジェリークが笑う。

これほどまでに愛した人を失う痛みよりも、今は。
彼女に幸せでいてほしいと、そう願った。


FIN
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