濁流

4.

オリヴィエはノックもせずに扉を開けた。
オスカーは執務机に座り、書類を書いている。
「ずいぶんと卑怯な真似をしてくれるじゃないか?」 
オリヴィエはオスカーの机までまっすぐ歩くと、手のひらを机に叩きつけた。
オスカーはオリヴィエの怒りに満ちた視線をまっすぐに受け止める。
椅子を引いて、ゆっくりと足を組みなおした。
その余裕の態度にオリヴィエはちりちりと胸が焼けつく。

「それがどうした? すべてお前が原因だろう?」
オスカーは悪びれずに続けた。
「お前がしっかりロザリアを捕まえておけば、俺だって思い出すこともなかっただろう。
 お前が傷つけなければ、ロザリアが俺を受け入れることもなかっただろう。すべて、お前の責任だ。」
オリヴィエの眉がピクリと動く。
ロザリアがオスカーを受け入れた? 
時計の音とオリヴィエの鼓動が重なってオスカーにまで聞こえそうなくらいの拍動になる。
静まり返った部屋でオスカーが立ち上がる。オリヴィエの肩に手をかけて言った。

「俺はロザリアとキスしたんだぜ。ロザリアも受け入れた。」
オリヴィエがすっと動いて、オスカーの頬に拳を入れた。
華奢に見えてもオスカーを吹き飛ばす力を持っている。
倒れ込んだオスカーは口の中に血の味が広がるのを感じた。
「黙りな。あんたがそんなことを誰かにしゃべったなんて知ったら、あの子は舌を噛んで死んでしまうよ。
 それほどのプライドをあの子は持ってる。そんなこともわからないくせに、手を出すんじゃないよ。」
腕を組んでオスカーを見下ろすオリヴィエは確かに怒っていた。
暗青色の瞳が怒りでギラギラと色を付けている。オスカーですらすぐに立ち上がれない。
けれどその怒りがロザリアの唇を奪ったことではなく、彼女を守るためだと知って、オスカーは驚いた。

「他に何も言うことはないのか?俺に何も感じないのか?悔しくないのか?」 
オスカーは馬鹿げた質問だと思いながらオリヴィエに聞いた。
殴られた頬が熱く熱を持つ。
オリヴィエの熱さが移ってきたように。
オリヴィエは片膝をついて、転がったままのオスカーの胸ぐらをつかんだ。

「あのとき、殺しておけばよかったと思ってるよ。」 
乱暴に振りすてる。
机にもたれたまま、オスカーが立ちあがるのを待った。
カツカツと机を打って鳴るヒールが分厚い絨毯に吸い込まれていく。
「あんたがだれと何をしようとワタシには全然興味はない。ただ、ロザリアのことを軽々しく口にするんじゃないよ。」 
腕を組んだまま、オリヴィエはきつい視線を向けた。

オスカーは倒れたまま、突然笑い出した。
あまりの大声にオリヴィエも毒気を抜かれてぎょっとする。
「負けたよ、オリヴィエ。」 
胡坐をかいたオスカーはまっすぐにオリヴィエを見た。その氷青色の瞳に嘘はなかった。
「お前は変わってるな。」 
立ち上がったオスカーが殴られた頬をさすりながら言った。

「ふつう、キスしたことに怒るだろう?俺のことを恨むんじゃないのか?」 
「ちゃんと一発入れたでしょ?しばらくいい男ぶれないだろうからね。あんたにはいい薬。」
オリヴィエは肩をすくめた。
「キスくらいで何だっていうのさ。あんただって、ワタシだって何回だってしてるじゃない?それ以上のことだってさ。」
オスカーはオリヴィエに並んで机にもたれる。さすがに向かい合うのはきつかった。
「でもな、ロザリアは初めての・・・。」
「あ~、あ~、あんまり言うとさすがにムカつくからやめてよね。」 
オリヴィエが両手で顔を覆った。
オスカーは少し身構えたが、オリヴィエのオーラはいつものままだった。
安心して、そのまま隣に並ぶ。

「初めて、ね。 確かにワタシだって、初めてのキスの相手は覚えてるよ。きっと忘れないだろうね。」 
オリヴィエは顔を覆っていた手のひらから目だけ出してオスカーを見た。
「俺だって、覚えてるぜ。忘れられないだろうな。」
「でもさ、ワタシはロザリアの最初の男になりたいわけじゃない。最後の男でいたいんだ。」
左手を机に置くと、オスカーの肩に右手を乗せた。ふわりとおかれた手にオスカーは言いようのない重みを感じた。

「だから、最初の1回くらい譲ってあげるよ。あんたの本気に免じてさ。」
そして肩に置いた手をオスカーの鼻先に突きつけた。
「残りのキスは1回だって譲らないからね。」
オスカーは両手をあげて、降参のポーズをとった。事実、争う気はなくなっていた。
これほどの愛を、一体どれだけの人間が持てるだろう?
「本当にお前は変わってるよ。」 
ロザリアに対する激情を封じ込めるようにオスカーはつぶやいた。
「そうお? でも、これがワタシの愛し方だから。」
「ロザリアを許せるのか?」 
きっと聞くまでもない、それでも、ロザリアを責めないでほしいと思った。
「許す?だって、全部ワタシの責任だよ。 ロザリアの気持ち、わかってなかった。ちゃんと向き合ってなかったんだ。
ロザリアはあんなにワタシを求めてくれていたのに。」
たった一つの花がいつか自分のほうを向いてくれるように。オスカーはその大きな愛に深く心を打たれていた。


「手紙のことはあとで落とし前つけてもらうから。」 
オリヴィエの言葉にオスカーはぎょっと目を開いた。
「まだあるのか。」
殴られた頬をさする。
「あたりまえでしょ。」 
横目で睨まれて、首をすくめた。沈黙が下りる。
「俺が言うのもなんだが、ロザリアはお前のことを愛してるぜ。」
「わかってる。」 
即答するオリヴィエが少し憎らしい。
「ロザリアはとても繊細だから、きっと気にして心を閉ざしちゃうかもしれない。でも、大丈夫だよ。」 
オリヴィエがオスカーを見る。
「だって、ワタシがついてるから。」 
オスカーがオリヴィエの肩をたたいた。
悪友の笑顔にオスカーは想いつづけた青い薔薇を今度こそ手放した。


オスカーの部屋を出て、ロザリアを探した。
「もう、遅いのです。なにもかも。」 
そう言ったロザリアの昏い瞳を思い出す。
補佐官室に、手紙のことを教えてくれた黒髪の女官がいた。
「ねえ、ロザリアはどこ行ったの?」 
オリヴィエの真剣なまなざしにひるんだように後ずさる。
いつも補佐官室にいるもう一人の緑の髪の女官が、
「お答えできません。補佐官様からどなたにも教えないように言われておりますので。」と答えた。
「緊急の用事なんだ。教えて。」
オリヴィエはイライラと壁を拳で叩いた。コツコツとその音だけが響く。

「今日は陛下のところからそのままご帰宅される予定です。」 
黒髪の女官が声を上げた。
「ですから、後で私邸をお尋ねになったほうが・・・。」 
緑の髪の女官ににらまれながらも教えてくれた。
「ありがと。」 
オリヴィエは補佐官室を出て、自分の執務室に戻った。
帰ってくるのなら、問題はない。オリヴィエはゆっくりと目を閉じた。
あまりにいろいろなことがありすぎて、うとうとする間に眠ってしまったようだ。
気づけばあたりはうす暗い闇に包まれ始めていた。



御前から私邸に戻ったロザリアは一番にシャワーを浴びた。
食欲はまったくなかったし、心に積もった重い塵を取りたかった。
バスタブにローズのオイルを入れる。女王候補のころにオリヴィエからもらったそのオイルをロザリアは愛用していた。
もう何本目になっただろうか?
なくなるたびに買い直して、今はもうロザリアの香りになっている。
バスタブに入りながら、ロザリアは唇に手を当てた。今日一日で何度もその行為を繰り返している。
あのときオスカーを確かに受け入れてしまった。
心はオリヴィエでいっぱいなのに、オスカーのキスを受けてしまった。
オスカーに流された自分を恥じた。きちんと言わなくては。
まだ、オリヴィエを忘れることはできない、と。

窓はしっかりと閉めた。分厚いカーテンも閉じた。通りから見れば、閉まっていることがわかるだろう。
それでもロザリアは眠れなかった。もし、オスカーが来たら、その時は・・・?その激流に流されてしまうかもしれない。

コンコン。
窓ガラスがなった。
ロザリアはカーテンを必死に閉じる。けれど、閉じた手が震えて、そこにロザリアがいることを知らせてしまう。
「ロザリア、開けて。」 
耳を疑った。
「ロザリア。」 
思わず、カーテンを開ける。
そこにいたのは間違いなくオリヴィエだった。

「入れてくれる?」 
オリヴィエの声が呪文のように聞こえた。心の扉をあける不思議な呪文。
夜の闇にためらいや戸惑いの気持ちが溶けてなくなる。
心のままにロザリアは窓を開けて、オリヴィエを部屋に迎え入れた。
オリヴィエがロザリアの部屋に来るのは初めてだった。
ほのかな月明かりの中で、ロザリアの部屋は落ち着いた海のように感じた。
漂う月明かりに人魚のように美しいロザリアがいる。

「どうして・・・?」 
月光に白い顔が浮かび上がる。青い瞳が夜の星を抱くように瞬いていた。
「恋の翼で飛び越えてきました、と言えばイイ?」 
オリヴィエの瞳にロザリアの顔が映る。
青紫の髪が夜に溶けてしまいそうだ。オリヴィエはそっとロザリアの頬に手を伸ばした。
「アンタと離れて生きるくらいなら、ここで死んだほうがいい・・・。」
ロザリアは首を振った。
「わたくしにそんな言葉をいただく資格はありませんわ。」 
ロザリアの瞳が揺れる。煌めく星が青い睫毛に隠れて見えなくなる。
オリヴィエはロザリアを抱きかかえた。
オスカーに抱かれた時とは違う、オリヴィエの香りにロザリアは胸が熱くなった。

「ワタシもこうしたかったんだ。ただ、勇気がなかっただけ。」
オリヴィエがささやく。そのままベッドまで運ばれた。
ロザリアを下ろすと、オリヴィエはそのふちに腰かける。
二人でこんなふうに向かい合うのは一体何日ぶりだろう。
オリヴィエは片手でロザリアを抱き寄せる。オリヴィエの胸にロザリアは顔を寄せた。

「もっと、早くこうしてたらよかった。」 
オリヴィエの言葉にロザリアは何も言えなかった。
どれほど望んだだろう。オリヴィエがそばにいてくれる夜を。
オリヴィエの手がロザリアの頬を包んだ。一瞬、甘い視線が絡む。
唇が、ロザリアに降りてくる。それを、ロザリアは両手で止めた。

「オリヴィエ、わたくし、もう・・・。」 
言葉が続かない。何を言えばいい? ロザリアの瞳に影がさした。

「何も言わないで。目を閉じて。」 
魔法にかかったようにロザリアは目を閉じた。
オリヴィエの唇が重なる。他の音が何も聞こえないくらい鼓動が熱くなった。
オリヴィエの舌がロザリアの中に入ってくる。からめとられて息もできない。
そのままオリヴィエはさらに深く口づけた。初めての感触にロザリアはただオリヴィエに翻弄される。
ロザリアが小さく声を漏らすたびに、オリヴィエはどんどん中に入って行った。限界まで、ロザリアの口の中を味わっていく。
ようやく離れた唇にロザリアは目を開けた。オリヴィエの欲情を乗せた瞳に顔を赤らめる。

「これがキス。ずっとアンタとしたかった・・・。」 
オリヴィエはロザリアの唇にチュッともう一度口づける。
「これはあいさつ。」 
わかった? とロザリアに顔を向ける。
ロザリアの胸が熱くなる。
「アンタの初めてのキスは、ワタシのものだから。」 
オリヴィエの暗青色の瞳が優しくロザリアを見つめた。
「だからもう、何も言わないで。」


静かな部屋で二人の吐息だけが重なる。
何度もキスを繰り返す、今までのすれ違いを埋めるように。
遠くでナイチンゲールの鳴く声が聞こえた。
「オリヴィエ、なぜ、昨夜は・・・・?」 
ロザリアが腕の中で尋ねた。あれほどの想いで過ごす夜はきっともうない。
「ごめんね。手紙に気付かなくてさ。今日、アンタが帰ってから知ったんだ。許してくれる?」
オリヴィエの真剣な声にロザリアは頷く。
もし、何かがあったのだとしても、もう知る必要はない気がした。今、ここにいることがすべての答えだから。

「ロザリア、眠っちゃったの?」
その安らかな寝顔にオリヴィエは頬を寄せた。
たった一人の愛しい人。
ロザリアの頭を自分の腕に乗せて、そっと抱きしめる。
朝、起きた時に生真面目な彼女はどんな顔をするだろう?
その楽しみな想像にオリヴィエは微笑んだ。

オリヴィエの髪がロザリアの鼻先をくすぐる。ロザリアはそっと目を開けた。
知らないうちに二人で眠ってしまったようだ。
胸を埋める甘い薔薇の香りは確かにオリヴィエの香りだった。
もう一度瞳を閉じて、そっと寄り添った。
(たとえこの先に、激しい嵐や激流があったとしても、わたくしは大丈夫。だって、きっとあなたがそばにいてくれる。
 あなたがわたくしのたった一つの道しるべだから。)

いつの間にか、朝ぶれのひばりが鳴いていた。一人でひばりの声を聞く朝はきっともうないだろう。
寄り添う二人は朝もやの中で静かに微笑んで眠っていた。


FIN
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