濁流

3.

あれはひばり?いいえ、ナイチンゲールよ。
遠くで鳥の声が聞こえた。薄明かりがあたりを照らし始める。 
いいえ、ナイチンゲールではないわ、あれは、朝を告げるひばり…。
暗い夜が明け、朝日が照らしだしても、ロザリアはまだ動けなかった。
来てくれる、と思っていた。
もし、オリヴィエがすでにロザリアに何も感じていないとしても。
来ないとは思っていなかった。
バルコニーからベッドの上に倒れ込む。
目を閉じても、思い浮かべるのはオリヴィエの姿だけ。
このまま別れになってしまうのか。
仰向けになったまま、涙がこぼれていくのをとめることができなかった。

(ひどい顔をしているでしょうね。) 
永遠に止まらないのでは、と思った涙でも時が来れば次第に収まるものだ、と初めて知った。
腫れあがった目は隠しようもなかったし、休むわけにはもっといかない。
なかば、やけくそのような気持で屋敷を出た。 
それでもいざ近づくとそこにいる人のことを考えずにはいられない。
(わたくしは、うまく笑えるかしら。) 
涙の跡は笑いが出た。
少なくとも好かれていると思っていた自分がおかしくて笑えてしまった。
気がおかしくなったのでは、と自分で思った。それでも、笑い続けることもできなかった。
馬車が聖殿に着くと、ロザリアは帽子を目深に直して、補佐官室に向かった。


ロザリアが来た気配に気づくと、オリヴィエは執務室で息をつめた。
昨日の夜、オスカーと何があったのか、問い詰めるようなことはしたくない。
それでも聞かずにはいられない。
オリヴィエはロザリアの元に向かうために執務室を出た。
ノックをする。二人に決められた合図をくりかえした。

「ねぇ、オリヴィエ、ノックする回数を決めてくださらない?」 
そう言われたのは告白を受けてすぐ。
「どうして?」
「だって、ノックのたびにあなたではないか、とドキドキしてしまうんですもの。体がもちませんわ。」
花のように笑っていた。あの笑顔を取り戻したい。
ノブを回すとドアにはかぎが掛けられていた。

「ロザリア、話がしたいんだ。開けてくれないかな?」 
オリヴィエはドアの前で何度も声をかけた。
ロザリアの気配がして、お互いにドアをはさんで立った。
ほんの10cmの距離が永遠のように感じる。
「ロザリア、いるんでしょ?ワタシに話をさせてよ。」
答えはない。
泣いている? その気配にオリヴィエの呼吸が止まる。
「お会い、できませんわ、今日は。 なぜ、そんなことをおっしゃるの・・・?」
ドアをたたく音にオリヴィエは身を引いた。 
「あなたには、見られたくない。 もう、来ないで・・・。」
ドアをずるずると這う音が耳につく。ロザリアの背中がドアを押していた。
オリヴィエは何もいうことができない。
オスカーと何かあった? ワタシをまだ愛してる? 
聞きたいことは山ほどある。
「また、来るよ。アンタに、会えるまで、何度でも。」 
オリヴィエは扉に額を付けて、そういうのが精いっぱいだった。


オリヴィエの声を聞いた時、愛されていないとわかってもなお、心が動きだすのを止められなかった。
もし、もう一度出会っても、やはりオリヴィエを好きになるだろう。
悲しい別れが待っていたとしても。
ロザリアは机に座って、静かに執務を続けた。やることがあるほうがずっといい。
忙しい仕事を今日ほど感謝したことはなかった。
痛めた足首はまだ腫れがひどい。
歩けないほどではなかったが、無理はしないように念を押されていた。
昼食の時間が来ても、ロザリアは仕事を続けた。

「申し訳ないのだけど、昼食を用意してもらえないかしら。簡単なもので構わないわ。」
ロザリアは女官に声をかけた。
朝から明らかに様子のおかしい補佐官をみな遠巻きに気にしていたことは分かっていた。
「ごめんなさいね。足が痛んで昨夜はほとんど眠っていないの。」 
ロザリアのほほ笑みに安堵の空気が流れる。
周囲を巻き込んでしまったことを申し訳ないと思った。

補佐官室から出てきた女官に、オスカーは声をかけた。
「補佐官殿は今日もご機嫌麗しいかな?俺に教えてもらえると助かるんだが。」
大げさに尋ねると、緑の髪の女官は声をひそめてオスカーに近づいた。
「実は、なんだかおかしいんです。ずっと閉じこもってらっしゃいます。お疲れみたいですわ。」
「仕方ないな。俺が慰めてやるか。おっと、他の奴らには秘密にしてくれよ。」
オスカーは女官の耳元に囁いた。
それだけで顔を赤らめてうつむいてしまう。
「あの、では、お昼を用意して差し上げてください。足が痛くてどこにも行けないとおっしゃっておいででした。私、オスカー様の味方です。」
女官はそう言うと、走って行ってしまった。
オスカーはロザリアの好みを思い浮かべて、聖殿をでた。

「昼飯の差し入れだぜ。気に入るものがあると嬉しいんだが。」 
オスカーが両手いっぱいの荷物を持ってやってきた。
「俺の食べたいもので悪いがな。これがお勧めだ。」 
ターキーのサンドイッチは具がこぼれそうなほどボリュームがあった。
ロザリアは驚きで目を丸くしたが、心づかいは不快ではない。
足を引きずるようにして、ソファに移動する。

「わたくしはこれでよろしくてよ。」 
ロザリアが選んだのはタマゴの入ったサラダ。
オスカーはその上にバケットのサンドものせた。
「それだけじゃだめだ。このサンドも食べるんだな。」 
ロザリアは二つの包みを受け取ると、素直にお礼を言った。
「ここで食べてもかまわないだろう?」 
NOという間もなく、オスカーは包みを開け始める。

飲み物を持ってきてくれた者が下がると、補佐官室に二人きりになった。
向かい合って座ると息遣いまで聞こえそうだ。
オスカーといる緊張感でロザリアはサラダすらのどを通らない。

「一人で泣いたのか?・・・目が赤い。」 
オスカーがロザリアを見つめた。
ロザリアは目を伏せて、気付かれたことを恥じた。
オスカーはロザリアの頬に手を伸ばすと、目の周りをそっとなでた。
「俺の胸で泣けよ。たとえ誰のための涙でも、俺は受け入れる。君を愛しているから・・・。」
ロザリアの瞳から静かに涙がこぼれた。
オスカーは声を立てずに泣くロザリアを心から愛おしいと思う。
前の時もそうだった。
きっと、今までも誰にも気づかれずに泣いていたのだろう。
美しい青い瞳がぬれてさらに輝きを増す。泣く女を美しいと思ったのは初めてだった。
抱きしめる許可が必要だとは思わない。
それでも、ロザリアが受け入れてくれることを願って、そっと隣に移る。
腕を伸ばして、胸に抱き寄せる。
そのまま崩れ落ちたロザリアの髪を、オスカーは優しくなでた。


どれくらい時が流れただろう。
やがて顔を上げたロザリアはもういつものように凛としていた。
「ありがとう、オスカー。」 
ロザリアの微笑みに胸を打たれる。いままで過ごしたどの夜よりもこのひと時を惜しんだ。
「構わないさ。言っただろう? 君のすべてを受け入れると。」 
ほどけた髪のひと房に口づけして答えた。
オスカーはロザリアの頭の後ろを支えるようにして、自分の瞳に閉じ込める。

「俺の手をとってくれ。君に悲しい思いはさせない。」 
氷青色の冷たい色に熱い輝きが宿る。
深く求める瞳にロザリアは流されていく心を感じた。
本当に求める色はもっと深いダークブルー。
思い出すだけで、体中がばらばらになりそうな、あの甘い暗青色。
それなのに心が飲み込まれていく。
ロザリアは背に腕が回される感触とともに、熱い唇を受け入れた。

「今夜、会いに行く。」 
オスカーは帰り際にそう告げた。
「わたくしは、まだ・・・。」 
ロザリアはためらう。
「俺は受け入れるなら、窓を開けておいてくれ。今日でなくても、毎日、君のところへ行く。」
オスカーはまっすぐにロザリアを見つめた。
この熱い想いを誰が拒絶できるというのだろう。
初めてぶつけられる想いにロザリアはただ流されるのを感じた。


中庭の薔薇はすっかり色を落としていた。
この間まで咲き誇っていた薔薇は褪せ、今は別の花壇の薔薇が咲いている。
花も時とともに移っていく。人の心も変わっていくのだろうか? 
オリヴィエを忘れられる時が本当に来るのだろうか。
ロザリアは枯れた花を一つづつ切り、土に返した。
薔薇の世話を庭師に聞いたのは幼いころだった。
美しい花は古いものを切り取ることでより美しくなる。
こうして変わってしまうのだ、何もかも。
ロザリアは手袋をとって、自分の唇に手を当てた。
初めての口付けは薔薇の香りではなく、ムスクの香り。 あれほど願った人ではない。
寝不足のせいか、頭がふらつく。まだ引きずる足では支えきれずに、その場に倒れ落ちた。

額に冷たいタオルが乗せられていることに気付いて、目が覚めた。
淡い色の天井が目に入る。
見慣れた風景に驚いて、起き上がろうとしたが体を起こすことができずにタオルだけを取った。
「気がついたんだね。」 
一番聞きたいのに、聞きたくない声がした。
「中庭を通ったら、アンタが倒れてたから、ここまで連れてきちゃった。ごめんね。会いたくなかっただろうに。」
ロザリアを気遣う優しい声にまた涙が溢れそうになる。
泣いても泣いてもなくならない涙がロザリアには恨めしかった。
グッとこらえて、体を起こそうとしたロザリアの体をオリヴィエが支えた。
体を包む薔薇の香りと優しい腕にロザリアは胸が潰れそうに感じた。
このまま、時が止まればいい。

ロザリアを抱き起こしたオリヴィエはその支えた手が熱く熱を持つように感じられた。
背中にまわした手からロザリアの熱が伝わってくる。
このまま抱き寄せてしまいたい。オリヴィエは熱い想いと葛藤した。
「大丈夫かい? 何か飲む?」 
ロザリアは首を振った。本当に何も欲しくなかった。ただ、吐息だけが熱い。
「少し飲んだほうがいいよ。」 
レモン入りのミネラルウォーターをロザリアに渡した。

グラス越しに触れ会った手に驚いて、ロザリアの手からグラスが滑り落ちる。
グラスは絨毯の上で鈍い音を立て、絨毯の上をしみが一斉に広がっていく。
ロザリアはあわてて絨毯を拭こうとタオルを置いた。
その手をオリヴィエが優しくとめる。
「いいよ、後で片付けるから。アンタはまだ動いちゃダメ。」 
今度はロザリアの前までグラスを持ってきてくれた。

隣に座ったオリヴィエから両手を添えて、受け取る。
口に含んだ水は本当はのどが渇いていたことを思い出させた。
思えば、結局昼食もとっていない。朝からほとんど何も口にしていなかった。
「やっと、会えた。」 
オリヴィエの瞳がロザリアを映している。そのやわらかな色にロザリアは目を伏せた。
「なぜ、わたくしに優しくなさるの?もう、何とも思っていらっしゃらないのなら、どうか、わたくしにかまわないで。」
グラスにじっと視線を合わせたままロザリアがつぶやいた。言葉がこぼれおちる。
「アンタが好きだから。 アンタがだれを好きでも、ワタシはアンタが好きなんだよ。」
オリヴィエがそっとロザリアの手を取った。グラスをテーブルに戻すと、そのまま抱き寄せる。

「ロザリア・・・。アンタを不安にさせてごめん。ワタシを許してほしい。」 
オリヴィエの言葉が耳元で響く。
「子供だなんて思ってなかった。一人の女性として、アンタを自分のものにしたいっていつも思ってた。
 でも、震えてたアンタを大切にしたいとも思っていたんだ。それがワタシのアンタへの愛し方だと思ったから・・・。」

ロザリアは答えない。
オリヴィエはもどかしい思いで、腕を緩めた。
どうしたら、この想いをロザリアに伝えられるのか、言葉にすれば空々しいことは分かっていた。
それでも、繰り返すしかなかった。
 
「ロザリアを愛している。」 と。

あれほど望んだ言葉をロザリアは遠くに聞いた。
なぜ、昨夜来てくれなかったのか、言ってくれなかったのかと心の奥で叫ぶ。
その言葉をわたくしはずっと待っていた・・・!
腕の中のロザリアは静かにオリヴィエを見つめていた。

「わたくし、ひばりの声を一人で聞きましたわ。」
「え?」
「もう、遅いのです。なにもかも。」 
オスカーを受け入れてしまった。

ロザリアは立ち上がった。
引きずる足を心配したオリヴィエの見送りを断って、ロザリアは一人で歩いた。
部屋に残されたオリヴィエは、ただ何も考えられなかった。
このままロザリアを失うことがどうしても信じられなかった。

ロザリアはまだ確かに自分を愛していると思う。
失いたくない一心でオリヴィエは追いかけた。
しかし、すでにロザリアは補佐官室に入っていくところだった。
光のさす廊下でオリヴィエはロザリアの消えた影をじっと見つめていた。

「あ、あの・・・」 
女の声で意識が戻る。少し離れたところに補佐官付きの女官が立っていた。
「なあに? ワタシに何か用?」 
普通に答えたつもりなのに、目の前の女官はますます小さくなった。
「申し訳ありません。 あの、昨日の手紙ですが、受け取っていただきましたでしょうか?」 
すっかりうつむいて、声も小さくなっている。
「オスカー様に伝言をお願いしたのですが、心配で・・・。ロザリア様はお元気がないし、あんなにオリヴィエ様と仲がよろしかったのに・・・。」
まだ年若い女官はロザリアを尊敬していた。
そのロザリアの打ちひしがれた様子に、何とも言えず不安になったのだ。

「なにも受け取ってないけど。」 
オリヴィエは驚きを隠せない。
女官はか細い声で告げた。
「青い薔薇の封筒に入った手紙です。足を痛められていたので、私がお持ちしたのですが、オリヴィエ様がいらっしゃらなくて、その、オスカー様に・・・。」     
青い薔薇の封筒には記憶があった。
「今夜、お待ちしております。」 
あの手紙はオリヴィエにあてたものだったのか。

自分の愚かさに頭が痛くなる。
なぜ、オスカーだと思ったのか。ロザリアを疑った自分を責めた。
「ひばりの声を一人で聞きましたわ。」 
そう言ったロザリアの沈んだ瞳になぜ気付かなかったのだろう。
傷ついた心に言葉が届かないのは当たり前のことだった。
オリヴィエは組んだ腕に力を込める。
この娘に怒っても仕方がない。女官を下がらせると、オスカーの部屋に向かった。


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