濁流

2.

すっかり暗くなった道をロザリアとオスカーが並んで歩いてくるのが見えた。
二人の距離が少し近づいたような気がしてオリヴィエは心臓が潰れそうになる。
門燈の前に立つオリヴィエに気付いたのはロザリアだった。
「オリヴィエ? どうなさったの? こんな時間に。」 
ロザリアの困惑の口調に傷つく。
「せめて夕食を、と思ってね。ちょうどよかった。もう済ませてきた?」 
オリヴィエは明るく尋ねた。
心の中のどす黒いしみを気付かれたくなかった。暗さで表情が見えないことに感謝する。

「ごめんなさい。食欲がありませんの。今日は早く休みますわ。」 
そう言って、オスカーに視線を向けた。
「今日はありがとうございました。」 
いつもの言葉をオリヴィエは自分の隣にいる男のために聞いた。
たまらない。顔をそむけるオリヴィエをオスカーは横目でとらえた。
「お休みのキスはまたにさせてもらうぜ。今日はギャラリーがいるからな。 じゃ、またな。」
オスカーの話し方が癇に障る。オリヴィエは自分の醜い心を嫌でも自覚した。

ロザリアが邸の中に入るまで、二人で見送った。
「おまえ、キスもしてないのか。」 
オスカーが前を向いたまま言った。
オリヴィエがオスカーの胸ぐらをつかんで壁に押し付ける。
こんな目をしたオリヴィエをオスカーは初めて見た。

「あんた、なにかしたの?」 
鈍く光る瞳にオスカーですら小さな恐怖を感じる。
「ロザリアは今日、俺の胸で泣いたぜ。」 
オリヴィエの手に力がこもる。振りほどくことができないほどの力の強さ。
凶悪な色がオリヴィエの瞳ににじんだ。
「このまま、殺してやろうか・・・?」 
端正なだけに壮絶な表情。暗い門燈の灯りの中にオリヴィエの金の髪が揺れた。
「やめろ。お前とやりあう気はない。お互い無傷じゃ済まないだろ?」 
けれど、オリヴィエの力は緩まない。

「そんなに好きなら、なぜロザリアに言ってやらないんだ。」 
オスカーも負けじと言い返す。ここで引くわけにはいかない。
「それとも、ロザリアを女として見ていないとでも言うのか。自分のものにしたいと思っていないのか。」
「俺は違うぜ。ロザリアを俺のものにしたいと思ってる。」
不意にオリヴィエの手が離れた。
「ロザリアに何かしたら許さない。」 
オリヴィエの声は静かだった。その声に宿った凶器のような鋭さに、オスカーは一瞬色を失った。
暗い明かりの下に二人の息遣いだけが流れる。
「彼女が望むまでは何もしないさ。ただ、明日の気持ちは分からない。そうだろう?」
 オスカーの言葉にオリヴィエは答えない。
立ち去る靴音が消えると、オスカーはようやく動けるようになった。
オリヴィエの想いの強さにようやく気付いた気がした。
それでも譲れない。オスカーもまた自分の想いにはっきりと気付いた。


ベッドルームの鏡台でロザリアは髪を梳いていた。長くつややかな青紫の髪が背中に流れる。
ロザリアはふと思った。
(オリヴィエはいつから待っていてくださったのかしら。)
今日はいつもより帰りが遅かった。あんな風に泣いてしまうなんて、と思いだして困惑する。
オスカーはロザリアを一人の女性として見てくれている、そのことが嬉しかった。
オリヴィエは自分を嫉妬していたのだろうか、と想像して首を振る。
(そうね、心配していたのかもしれないわ。ただの、心配・・・)

ロザリアはブラシを鏡台に戻すと、トワレをまとった。
オリヴィエの好きなローズの香り。オリヴィエの前でつけたことはないけれど。
オリヴィエと一緒に眠っているようで、ロザリアは落ち着いた気持ちになれるのだ。
「君と夜を過ごしたい。」 
そう言ったオスカーの顔を思い出す。
わたくしを求めてくださるの? 
ロザリアはベッドの中で小さく体を丸めた。
もし、大人になれば、オリヴィエにふさわしい女性になれるのかしら? 
そのまま眠りに落ちた。

「悪いな。しばらくここには寄らないつもりなんだ。 俺のおごりにするから好きなだけ飲んでくれ。」
オスカーは店の女性に声をかけると、そのまま店を出た。
もう、ほかの女は必要ない。
少し回り道をして、ロザリアの私邸の前を通った。
明かりの消えた窓が見える。
俺の手をとれ、そんな顔はさせない、と今すぐ言いたい気持ちが押し寄せる。
オスカーはしばらく眺めた後、ゆっくりと家路についた。



「この書類にサインをいただきたいのですけど。」 
ロザリアは執務で仕方なくオリヴィエの部屋を訪れた。
オリヴィエは綺麗に足を組んで、執務に取り組んでいた。
実際、何かしていないと暴れ出しそうな自分がいる。
オリヴィエは「うん。」と言葉を返したまま、ロザリアを見ない。
ロザリアはその場から逃げだしたいように足が震えた。
いつも温かく迎えてくれた暗青色の瞳が自分にむけられない。
ただそれだけで、目の前が暗くなる。

動かないロザリアに「そこに置いといてよ。あとでもってくからさ。」 と告げる。
オリヴィエのため息のような吐息が耳を打った。 
ロザリアは震える声で退室を告げると、走り出した。
そのロザリアの残り香にオリヴィエは顔をゆがめた。
顔を見たら、抱きしめてしまいそうだ。
彼女の意志と関係なく、そのすべてを欲しいと思ってしまう。
傷つけたくない、と思いながら、それを望んでいる自分が怖かった。


(嫌われてしまったのだわ。) 
ロザリアに絶望が襲う。 
昨日、オリヴィエはどんな顔をしていただろう。まったく思い出せない。
子守のようなままごとから抜け出せた。
お役御免とばかりにもう、笑いかけてもくれないのだろうか。

初めて気持ちを告げた日のことを思い出す。
森の湖はとても静かで、湖面は穏やかに光の反射を繰り返していた。
木の枝は踏みしめるたびに小さな音を立てて、ロザリアは動悸が激しくなっていくのを感じた。
ずっとオリヴィエだけを見てきた。
女王候補のころから変わらない、優しい人。すべての涙がオリヴィエとともにあった。
試験に敗れた時、オリヴィエがいなければ自分は立ち直れなかったかもしれない。
その気持ちが恋に変わっていくのは自然なことのように思えた。

「オリヴィエ、わたくし、あなたをずっと想ってきましたの。あなたはわたくしを、どう思っていらっしゃるの・・・?」
声が震えているのがわかった。
人生で一番勇気を出したのだ。ロザリアの中でその一瞬が千日にもなるように感じた。

「ありがとう。ワタシから言えばよかったね。アンタに言わせてごめん。ワタシも、アンタが好きだよ。」
あのときのオリヴィエの瞳はきっと一生忘れないだろう。
金の睫毛に縁取られた暗青色の瞳に自分が映っていた。そのまま抱き寄せられる。
優しい頬へのキスと繰り返される抱擁。その間ずっと震えていたロザリアにオリヴィエは優しく微笑んでくれた。
こんなに近くで大好きな人に触れられたことはなかったから。ずっと、こうしていられると思っていたのに。
足がもつれて、ロザリアは倒れた。
足をひねったようで、立ち上がることもできない。
床に座り込んで足を見ると、足首が腫れたようになっていた。
片膝を立てて、廊下の壁をつたってゆっくり歩いた。
誰にも見られたくない。泣いている姿も、こんなふうにみじめな自分も。


補佐官室に辿り着くと、執務机ではなくソファに座った。
無理をしたせいか、足がさっきよりも腫れているように感じる。
女官に湿布を持ってこさせると、ロザリアは自分の足にそれを巻きつけた。
冷たい感覚が熱を奪っていく。
(しばらく動けそうもないわ。) 
頭を冷やすためにもそのほうがいい。ロザリアは執務に専念した。
ノックの音がして、オスカーが現れた。
「ロザリア、ランチに行こう。いい店を見つけたんだ。」
オスカーは今にも手をとって歩きだしそうにする。
立ち上がらないロザリアにいぶかしげに視線を向けた。

「どうした?先約でもあるのか?」 
不安の色がよぎる。
ロザリアは少しスカートをつまむと、湿布の巻かれた足を見せた。
「ごめんなさい。今日は足を痛めてしまいましたの。歩くと痛むので、どこへも行けませんわ。」 
ロザリアの声は心なしかほっとしたように思えた。
オスカーに引きずられてしまうことが怖かったのだ。

「それなら。」 と、オスカーはいきなりロザリアを抱きあげた。
「これなら、足を使わずに行けるだろう。暴れるなよ。」 
軽々とロザリアを抱きあげたまま、オスカーは外へ歩きだした。
「おやめください!」
ロザリアは声を荒げて抗議する。
しかし、オスカーは全く耳に入らないようにずんずん歩いて行った。
聖殿を出て、一瞬立ち止まる。2階の窓にオリヴィエの姿があった。
ロザリアはますます狼狽して、「おろしてください。!」と叫んで暴れた。
「そんなに暴れるなら、もっと強く抱きしめてしまおうか?」 
オスカーの顔が間近に迫る。
「俺はそれでも構わないんだが。それともこのままさらってしまおうか・・・?」 
オスカーの鼓動をロザリアは感じた。

少し早い鼓動にオスカーの緊張がわかる。
ふ、と抱き締める手に力がこもったような気がした。
オスカーが強く自分を求めているのを感じる。ロザリアに見せる甘い表情は心をマヒさせるようだ。
「君を、愛している。俺のものになってくれないか・・・。」
オスカーの顔がロザリアの目の前に近づいてくる。オスカーの腕に抱かれて、ここがどこなのかさえ忘れそうだ。
唇が近付いてきて、ロザリアは思わず目を閉じた。


開け放った窓の真下から、声が聞こえてきた。
(ロザリア?) 
立ち上がり、窓辺に移る。ちょうどその下に、ロザリアを抱きかかえたオスカーがいた。
ロザリアは足首に包帯を巻いている。
そのロザリアを抱きかかえたオスカーは下からオリヴィエをねめつけるように視線を向けた。
その氷青色の瞳が告げる。
返してほしければ、ここに来い、と。
オリヴィエは何も考えずに執務室を飛び出した。


「ちょっと、ワタシのロザリアをどこへ連れて行くつもり?」 
オリヴィエがオスカーの肩をつかんだ。その強い力にオスカーは顔をしかめる。
ロザリアに近づけようとしていた唇がすっと離れた。
「オリヴィエ・・・。」  
安心して漏らした言葉に、オリヴィエの視線がぶつかる。
はしたない姿を見せたことに、ロザリアは羞恥で顔を赤らめた。

真っ赤になったロザリアを見て、オリヴィエから怒りのオーラが立ちあがった。
(オスカーと何をするつもりだった?)
責める言葉がのど元までせりあがる。
醜い嫉妬を見せたくない。それでも激しい気持ちが言葉にあふれそうだ。
その怒りのオーラがロザリアまで届いてくる。
(どうして怒ってらっしゃるの?わたくしのことなんか、もうどうでもいいのでしょう?)

揺れたロザリアの瞳にオリヴィエは言葉をとめた。
「補佐官殿が足を痛めたようだったのでな、俺がレストランまで連れて行くつもりなのさ。」 
オスカーは肩をそらせて、オリヴィエの手を振り払う。
「ワタシが連れていく。」
オリヴィエがロザリアを取り返そうと手を伸ばした。
「おいで。」 
オスカーの腕から逃れて、ロザリアは片足で地面に立った。
足が痛んで、立っていられない。
よろめくロザリアをオリヴィエが抱きとめた。

「ワタシが連れて行ってあげる。どこに行きたい?好きなところを言って。」 
子供をあやすような口調にロザリアは青い瞳を燃やした。
「子ども扱いなさらないで!」 
痛めた足に強引に力を入れて立ち上がる。
「一人で歩けます。お守など、必要ありませんわ。」 
足も心もちぎれそうに痛い。
手を貸そうとするオスカーに 「かまわないでくださいませ。」 と淑女の礼をして聖殿へ戻って行った。

「おまえはロザリアのなんだ? 保護者か? 兄代わりだとでも言うのか?」 
オスカーがオリヴィエににじり寄る。
足もとの敷石がオスカーの長靴に蹴られて鋭い音を立てた。
「もしそうならこれ以上邪魔をするな。」 
氷青の色が険しく燃え上がる。
ロザリアに対する想いがオリヴィエの中に流れ込んでくるように感じた。
「そうやって、子ども扱いして彼女から逃げるだけなら、お前に彼女を手に入れる資格はない。」 
オリヴィエの肩にぶつかりながら、オスカーは歩いていく。
オリヴィエは何も言えなかった。


そのまま聖殿の外階段に腰を下ろす。どこかへ行く気力も出ない。
キラキラした瞳で綺麗に巻いた髪をなびかせていた女王候補のころから、オリヴィエはロザリアを見てきた。
すぐ怒って、泣いて、でもきれいな笑顔で。素直じゃない、けれどその繊細な心を誰よりも理解していると思った。
試験に負けて、それでも補佐官になってくれたロザリアとずっと一緒にいられることを密かに喜んだ。
いつまでも少女だと思っていたのに。

森の湖で告白を受けた時、ずっと震えていたロザリアを思い出す。
あのときから、ロザリアから逃げていたのかもしれない。
自分の激しい想いが彼女に拒まれることを恐れた。
失ってしまった過去にこだわって、一歩距離を置くことで自分を保とうとしていた。
もしロザリアに拒まれるくらいなら、何も求めないほうがいい、と思ってしまったのだ。
(わかっていなかったのは、ワタシだけだったのかもしれないね。)
人は変わっていく。その当たり前のことに今更気付いた。



午前中にあずかった書類をロザリアに届けなければならない。人を使うことも考えた。
しかし、ロザリアのところに行くチャンスを人に渡したなんてことが知れたら、聖殿の口さがない連中になんて言われるかわからない。
オリヴィエは立ち上がった。
書類のほかにロザリアのために取っておいたお菓子も持っていくことにした。
ついでにお茶の時間にして、ゆっくり話をしたかった。

ノックをしたが、返事がない。
失礼、と声をかけて扉を開けると、やはりロザリアはいなかった。
書類とお菓子を机の上において、ロザリアの帰りを待つことにした。
ふと、机の上の手紙が目に入る。濃い透かしの薔薇の入ったブルーの封筒。まだ封はされていない。
何となく開けて中を見る。オリヴィエの顔色が変わった。

「今夜、お待ちしております。」 
几帳面なロザリアの字がブルーの便せんに書かれていた。
わざわざ手紙を出す相手が自分であるとどうしても思えなかった。
(オスカーに?) 
オリヴィエの中でそれが確信に変わる。
オリヴィエは手紙を元通りに戻すと、その場を立ち去った。

「ロザリア様、大丈夫ですか?」 
女官に肩を借りて、ロザリアは部屋に戻ってきた。
無理をしたせいか、足の腫れはまったくひかず、医務室に行く羽目になった。
大げさに巻かれた湿布にロザリアは顔をしかめる。
痛むのは、足よりも心。手紙に封をしようとして、封蝋の赤にオスカーを思い出した。
「君を、愛している・・。」
あんなにも誰かに強く求められたのは初めてだった。
もう一度、あの瞳で見つめられたら、その時は・・・。
オスカーに流されて、おぼれてしまいそうになる。その流れに逆らえなくなる。そう思った。
ロザリアは手紙に封をすると、女官に託した。

「オリヴィエのところに持って行ってほしいのだけど、いいかしら?」 
足のことがなければ自分で言いたかった。
あんなにコドモの対応をしてしまった。でも、オリヴィエにはっきり言えたことで、少し心が軽くなった。
キチンとぶつかってみようと思う。今夜、もしオリヴィエが来てくれたら。
子ども扱いせずに、本当の自分を見てほしいと。


「オリヴィエ様、ロザリア様からの手紙を持ってまいりました。」 
女官がドア越しに声をかけても、夢の執務室は応答がなかった。
何度かノックを繰り返した女官はどうしたものか、と途方に暮れた。
オスカーが偶然前を通りかかった。
困り顔の女官を放っておけるわけもない。もちろん声をかけた。
「どうした?黒い髪の君。」 
オスカーに声を掛けられて、女官は飛び上るほど感激した。

「あ、あの、オリヴィエ様にお手紙をお持ちしたんですけど、いらっしゃらないみたいで・・・。」
つい、用件を話してしまう。
女官としてはあるまじき行為だ。女官の手の青い薔薇の封筒がオスカーの目に入る。
「俺があずかっておこう。後で会議があるからその時にでも渡しておくさ。」
手紙を受け取ると、オスカーはウインクをして、「ロザリアには確かに渡した、と言っておいてくれ。俺を信じてくれよな。」と、言った。
女官は舞い上がって、そのまま行ってしまった。
女官の姿が消えると、オスカーはその場で手紙を開けた。書かれた言葉にショックを受ける。
オスカーは手紙を握りつぶすと、歩きだした。
会議があるのは本当だ。でも、手紙を渡すわけにはいかない。廊下のゴミ箱にそのまま投げ捨てた。


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