彼氏の忍耐、彼女の憂鬱

3.

土の曜日、ロザリアは大きな荷物を持ってオリヴィエの家に向かった。
昨日、「明日はあなたの家に行こうと思うのですけれど、よろしいかしら?」と言ったとき、オリヴィエは不思議そうな顔をしていた。
それもそのはず。
今日は映画を見に行く約束をしていたのだから。
でも。

アンジェリークから渡されたメモに書いてあった荷物は膨大で、こんな大きなトランクにしか入らなかった。 渡されたドレスは一番上に入れてある。
ロザリアがトランクを持ってきたのを見て、オリヴィエは一歩後ろに下がった。

「いらっしゃい。お茶でも淹れるよ。」
二人きりの気まずさを紛らわそうとオリヴィエはキッチンに向かった。
その背中が消えていくのを見て、ロザリアは素早くトランクを開けると、トイレに入る。
気が焦って、リボンがうまく結べない。
何度も深呼吸してやり直すと、あわててリビングに戻った。
オリヴィエがキッチンからお茶を持ってくると、ロザリアはソファに座っている。

「どうしたの?!・・・その格好は!?」
「アンジェにもらいましたの。サイズが大きかったのですって。」
そりゃそうだろう!・・・・特に胸が。
オリヴィエは瞬きもできずに凝視してしまった。その視線に恥ずかしそうにうつむいたロザリアは両手をぐっと握りしめた。
『これで落ちなかったらおかしいわ!』
試着したロザリアを見たアンジェリークの言葉を信じたい。

黒いワンピースはギュッとウエストを絞ってあるせいか、その上に載せられた胸はまるでこぼれそうで。
超ミニのシフォンスカートからはすらりとした足がのぞいている。

オリヴィエはリビングから出て、私室にむかうとクローゼットから自分のシャツをとりだした。
何度も深呼吸を繰り返して鏡を見ると、休日でメイクをしていないはずなのに、頬が赤いような気がする。
全く心臓に悪い。・・・きっとアンジェリークの考えだろうけど。
リビングに戻るとロザリアの肩にそのシャツをかけた。
「そんな恰好してたら、風邪をひくよ。」
確かに肌寒かったけれど、ドキドキ動く心臓のせいで顔は火を噴きそうに熱い。
ロザリアは真っ赤な頬でオリヴィエを見上げた。

「わたくしでは、いけませんの・・・?」

オリヴィエは何も言わずにロザリアの腕をシャツに通して、しっかりとボタンをかけた。
「あのね、私はまだあんたとそういうことをしようと思ってないよ。」
したくないわけじゃない。
でも、まだ震えているロザリアがいつか自然に受け入れられるようになるまで、待つと決めているから。
「わたくしが子供だからですの?」
シャツの裾を握った手が色を失っていく。
「ん?焦る必要ないでしょ?私は大丈夫だから。」

大丈夫。他で解消してるから。
そう聞こえた。

「はしたないことをいたしましたわ。今日はもう帰ります。」
ロザリアは可愛らしく微笑むとオリヴィエのシャツを着たまま家を出ていった。
ああいうときのロザリアはなにを言っても戻ってこないことは分かっている。
ふと忘れられたトランクが目に入って、好奇心から開けてしまった。
中に入っていたのは、洗面道具、パジャマ、着替え、そして、枕。
ひらりと落ちたメモにはアンジェリークの文字があった。

『がんばってね! オリヴィエならきっと優しくしてくれるから、そのまま任せといたら大丈夫!』
その下に初めての心得なる言葉が並んでいて。
『好きな女の子から誘われて断わる人はいないから!自信持って!!』
アンジェリークの似顔絵がウインクしながらそう最後に言った。

きっと断わられたと思っただろう。
ロザリアの気持ちに気付かないなんて、なんて情けない。

テーブルの上の冷めた紅茶をオリヴィエは喉に流し込んだ。
喉が渇いていることに気付かないほど、緊張したのは久しぶりで。
らしくない感情がまた彼女を傷つけてしまったことに激しく後悔した。



月の曜日、オリヴィエが廊下に出ると、ロザリアの姿が見えて、思わず隠れてしまった。
前を歩くロザリアはそのままオスカーの執務室に入って行く。
ロザリアがドアを閉めたのを確認して、オリヴィエはドアを背にしてもたれかかった。
どんな話をするのか、気にならないはずがない。
隙間から洩れる話声にオリヴィエは耳をすませた。

「なんだって?」
目の前のロザリアはまるで決闘にでも行くような悲壮感の漂う表情をしていた。
「ですから、わたくしを、大人にしてほしいとお願いしているのです。」
さすがに笑えない。
オスカーは立ち上がると、部屋の真ん中に立つロザリアに近づいた。
一歩近づくたびに顔を赤らめる姿は禁欲的で・・そそられる。

「意味がわかっているのか?・・・本当に俺とそういう関係になりたいと?」
カールした横髪に指を絡めると、ロザリアは顔を上げてオスカーを見つめた。
潤んだ瞳は悩ましげで一瞬、理性を飛ばしてしまいそうになる。
「ええ。・・・それともわたくしではお相手に不足かしら?」
「まさか。うれしいぜ。俺を選んでくれて。」
不安げな青い瞳と視線があった。
オスカーの手がロザリアの頬へ移動して、もう片方の腕が包み込むように抱きしめようとしたとき、勢い良くドアが開いた。

「おいで。」
抱き合っているのではないか、と思えるほどの距離に立つ二人から、オリヴィエはロザリアの手を強引にひいた。
「オリヴィエ?!」
転びそうになりながらも無言で手を引くオリヴィエに、かける言葉が見つからない。
前を向いたオリヴィエの顔はロザリアからは全く見えなくて。
荒々しくヒールを叩きつけて絨毯を踏みつけるように歩いていくオリヴィエ。
手は痛いくらいに強くロザリアの手首を握りしめている。
引きずられるように連れてこられた執務室のドアが閉まると、オリヴィエは後ろ手で鍵をかけた。

「どうなさったんですの?」
茫然と立つロザリアをソファに押し倒した。
驚いて見開いた瞳から目をそらすように唇を奪う。
その荒々しさにロザリアが口を開けた瞬間、強引に舌を入れた。
くぐもったロザリアの声に息が止まりそうになる。
ソファに押し付けた両腕から力が抜けていくのを感じて、オリヴィエは唇を離した。

「私以外とこんなことをするなんて、許さない。」
ブルーグレーの瞳に浮かぶのが怒りのように思えて、ロザリアは身を起こした。
「オリヴィエだって、わたくし以外の女性としたのでしょう?」
一度こぼれた言葉は我慢していた分だけ、止まらない。
「なぜ、いけないのですか? わたくしだって、していいはずですわ! オスカーとだって誰とだって!」

「ダメ。」
さっきまでの荒々しさが嘘のようにオリヴィエはロザリアを胸に抱き寄せた。
「イヤなんだ。私が。あんたが他の男といるだけでもおかしくなりそうなのに。そんなこと、きっと耐えられないよ。」
オリヴィエの手がロザリアの髪をなでる。

「ここ、さっきオスカーが触ったでしょ?」
ロザリアの首筋に唇を寄せた。
「ここも。」
左の頬へ唇を滑らせていく。
「ホントは誰の目にも触れさせたくないんだ。他の男といるところも見たくない。」
嫌われるのが怖くて、手が出せないくらい、好きなんだから。


ロザリアの青い瞳が信じられない、というように大きく開く。
もしかして、オリヴィエは嫉妬しているの?・・・・わたくしがオリヴィエに感じているのと同じように。
だけど、どうしたのかしら?・・・そのことを嬉しいと思ってしまうなんて。

「だって、いつでもあなたはわたくしを子ども扱いなさって。昨日だって、なにも・・・。」
結いあげたロザリアの髪を右手でほどいた。
ゆるやかな巻き毛が背中に降りると、オリヴィエはその髪の上から背中をなでる。
髪から漂う薔薇の香り。
「あんたが望むまでは、って思ってた。子供扱いしてたわけじゃないけど、あんたの気持ち、考えてなかったかもね。」
オリヴィエの瞳がロザリアに近づく。

「ねえ、今夜、ウチに来ない?」
「え・・・?」
ロザリアの頬がさっと赤くなる。
伏せられた睫毛が震えているのを見てオリヴィエはロザリアを抱き寄せた。
「怖いならそう言って。まだまだ時間はあるんだから。」
そう、まだまだ時間はたくさんある。彼女を最後の人にする、と決めたんだから。
オリヴィエの優しい声にロザリアは顔を上げた。
「あの、わたくし・・・。」


突然ドアが激しく叩かれると、部屋中が揺れた。
放っておくにおけない、その激しさに、オリヴィエはいやいやながら立ち上がった。
分厚い絨毯でもはっきりとわかるイライラとしたヒールの音。
「ちょっと!なに!今、いいところ・・・じゃない大切な話をしてるんだけど!」
返事がないまま、ドアはしつこく叩かれている。
不安そうにしているロザリアを横目で見て、オリヴィエはため息交じりにドアを開けた。
とたんに飛び込んで来たのはアンジェリークで。

「ロザリア!」
ソファにうつむいたまま、ちょこんと座っているロザリアにアンジェリークが駆け寄った。
「オスカーが大変なことになったって言うから!大丈夫?何かされた?」
されるように仕向けていたことも忘れ、アンジェリークは心配そうにロザリアの顔を覗き込んだ。
するとアンジェリークの顔が笑いをこらえるように変わって、両手で口を押さえている。
アンジェリークの様子を不思議に思ったロザリアがうつむいていた顔を上げた。

「なんだ、心配して損しちゃった!みんな、行きましょう。邪魔したら、オリヴィエに悪いわ。」
みんな、の言葉によくよく目を凝らすと、ドアの向こうに好奇心と心配の混ざったたくさんの瞳がのぞいていた。
「なんだよ。心配して損したぜ。」
「よかった~。オリヴィエ様と喧嘩したらロザリア怖くなるもんね。」
「オリヴィエ様、頑張ってくださいね!」
「何事もなくて安心しました。」
ぞろぞろと去っていく後ろ姿は心配そうな口調とは裏腹に笑っているようにしか見えない。
不思議に思ったオリヴィエの前になぜか顔を赤くしたルヴァが近付いてきて、いつもよりも言いにくそうな顔で切り出した。

「あの~、オリヴィエ。あなたもそろそろメイクなどはやめた方がいいんじゃないですかね~。素敵な恋人もできたようですしね~。」
「は?」
なにをいまさら? と、言い返す間もなく、今度はオスカーに背中をたたかれた。
「せめて口紅の色はもっと薄いほうがいいな。・・・その方がロザリアにはよく似合う。」
はっとロザリアを振り向いて気が付いた。
彼女の唇と首筋についた刺激的なルージュの色。

「オリヴィエったら~。執務室は禁止よ?」
くすくす笑いのアンジェリークが取りだした鏡を見て、ロザリアも絶句した。
ルージュの色と同じくらい真っ赤に染まった顔に、オリヴィエも天を仰ぐ。
「じゃ、お騒がせしました~~~。」

二人きりになってしんとした執務室で、ロザリアが突然笑い出した。
「わたくしって、赤は似合いませんのね。」
笑っているロザリアの顔をオリヴィエがクレンジングで拭いていく。
激しいキスの跡が消えると、綺麗な青い瞳がオリヴィエをじっと見つめていた。
視線を外したロザリアの小さな声が聞こえてくる。

「あの、今夜、伺ってもよろしいかしら?」
「もちろん。」
約束のキスは唇を合わせるだけの優しいキス。
久しぶりの快晴の聖地の太陽が大きな窓から射しこんでいた。



静まり返った夜の闇で、あたたかな毛布にくるまったアンジェリークはうつぶせのままつぶやいた。
「ロザリア、うまくいったかな~。」
「え?どういうことだい?」
大きな毛布は二人でくるまってもまだ十分に余裕がある。
すぐ隣にいるランディに、アンジェリークは可愛らしい笑みを向けた。
「あのね・・・。ううん、なんでもないの。ねえ、もう、勝手に我慢したりしないでね!」
耳を引っ張られたランディは子犬のようにうなだれた顔をした。

「君が会議であくびしてたからさ。疲れてるから早くした方がいいと思ったんだ。でも、それもつらくてさ。しないほうがいいのかなって。」
「わたし、心配だったんだから・・・。」
「ごめん・・・。」
くすぐりあった二人の声がだんだん甘いものに変わっていくと、部屋の電気が暗くなる。
仲直りのしるしの綺麗な星が空に輝いていた。



女王の間に大きな二つのあくびが響くと、アンジェリークとロザリアは顔を見合わせた。
「はあ~。」とアンジェリークがため息をつくと、「ふう~。」とロザリアも大きなため息をつく。
「ねえ、ロザリア。」
「なんですの?」
「わたしたち、失敗しちゃったかな?」
アンジェリークの声に、ロザリアも大きくうなづいた。

「そうかもしれませんわね。」
「だって、ランディったら全然寝かせてくれないんだもの~~~。」
机に突っ伏したアンジェリークの背中をロザリアが優しくなでる。
そして、濃い目に入れたペパーミントティーをテーブルの上に置いた。
「オリヴィエもですわ。全然寝かせてくれないんですの。夜更かしは美容に悪いと言っていたはずですのに。」
目が覚めるようにと入れたハーブティをロザリアは顔をしかめて飲み込む。
アンジェリークも渋い顔でそれを飲み込むと、すぐにまたあくびを始めた。

「ねえ、アンジェリーク。わたくし思ったのですけれど。」
優雅な動作でカップをソーサーに戻したロザリアはアンジェリークのメモを取り出した。
「これは、お泊りに必要ないんじゃないかしら?」
どれどれ、とメモを覗き込んだアンジェリークがロザリアのさした文字を見る。
「たしかにこれは必要ないわね。だって、使わないもの!」
アンジェリークは手にしたペンで『枕』に二重線を引いた。
「いざとなれば、腕枕をおねだりしちゃえばいいしね!」
「そうですわね。」
にっこりとほほ笑んだ二人の言葉とともに、大きなくしゃみが二つ、それぞれの執務室に響いたのだった。


FIN
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