たいせつなもの、ひとつ

4.

「もっと、気楽にいこうよ。」
何度もそう言われているうちに、本当に気楽になれるような気がした。
試験が進むにつれて、ロザリアにもわかってきたことがある。
それは生まれながらの女王候補として育ってきた故の自分の視野の狭さや、人間関係を築くことの不器用さだった。
アンジェリークは実にそのあたりが上手で、人付き合いが苦手というルヴァがアンジェリークに惹かれたのも仕方がないと思えた。
周りをよく見回してみると、もっと人に合わせることや人を喜ばせる態度がわかる。
ロザリアが柔らかくなったと守護聖たちの間でささやかれるようになったのも、そのおかげかもしれない。
そしてそれがわかったのも、この方がいてくれたから。

「どうしたの?」
庭園のカフェでお茶をすることがこのところの日課になっていた。
この時間は試験の話はしない、とオリヴィエは決めているようで、何度か水を向けてみてもはぐらかすだけだった。
そのことでイライラしたりもしたけれど、いつのまにかこの時間を心待ちにしている自分がいることに気づいていた。
「なんでもありませんの。 ただ・・・。」
「ただ?」
じっと見つめられると、なんだか胸がざわざわしてくる。優しい暗青色の瞳はロザリアを包み込んでくれる。
「オリヴィエ様にたくさんのものをいただいたと思いましたの。」
一言一言、ゆっくり言葉を選んだ。
自分が何かとんでもないことを言い出しそうで、ロザリアは戸惑う。

「私もたくさんのものをもらってるよ。」
オリヴィエはテーブルに頬杖をついてロザリアを見つめている。
「これから、まだまだもらうつもりだしね。」
くすり、と笑うオリヴィエにロザリアはうろたえた。
「差し上げるものなんてございませんわ。」
ますます、くすくす笑いするオリヴィエにロザリアは呆れながらも怒れない自分を思う。

いつでも頑張ってきた。初めてその頑張りを認めてくれて、応援してくれたルヴァに応えたいと思ってきた。
そして、それが恋なのだ、自分にとってルヴァは特別な存在だと思った。でも・・・。
今の自分はオリヴィエを誰にも渡したくないと思っている。
この二人の時間を誰にも譲りたくないと。
もし、オリヴィエが誰かを好きだとわかってもその誰かに譲ることは出来そうもない。
これは、どういう気持なのかしら?
目の前のオリヴィエはいつもと変わらずに向かいに座っている。

「あの、オリヴィエ様。また、おかしなことを聞いてもよろしいですか?」 
ロザリアはいつもまっすぐだ。オリヴィエは頷いた。
「誰にも渡したくないと思う人はいらっしゃいますか?」
「そうだねぇ。いると言えばいるし、いないと言えばいない、かな。」
足を組みかえながら答える。
「わたくし、あるお方には幸せになってほしいと思いましたの。でも、あるお方のことは、わたくしから離れないでほしいと思いますの。これはどういうことなんでしょうか?」
なんだ、そんなこと、とオリヴィエは思った。恋をすると独占したくなるもんだよ、と言おうとした。
そして、ふっとある思いに行きつく。

「ねぇ、その離れないでほしい人、っていうの誰?」
ロザリアは心臓が勝手に動き出すのを感じた。この暗青色の瞳にずっと映っていたいと思う。
「あの・・・今はまだ申せませんわ。いつか、お話しします。」
まだ、言えない。
オリヴィエはそのロザリアの真剣な瞳に浮かんだ甘い色を見て、今の推測が間違っていないと思った。
ロザリアは自分を想ってくれている。疎い彼女はそれが恋だと気付いていないけれど。
ずっと温めてきた想いが通じた喜びに、オリヴィエはひそかに微笑んだ。



「あのね、ロザリア。ちょっといい?」
アンジェリークがおずおずと言いだしたのは、土の曜日のお泊まり会でだった。
すっかり仲良くなった二人は土の曜日になるとちょくちょくこのお泊まり会を楽しんでいた。
ロザリアにとって、狭い部屋で誰かと一緒に眠ることは初めての経験だったし、普段なかなか言えない秘密の女の子同士の話は心をウキウキさせた。

「わたし、ランディ様が好きなの。だから、ルヴァ様のお部屋に行くのは少し遠慮したいの。」
うすうす気づいていたけれど。ロザリアはため息をついた。
「気づいてたわよ。あんた達ったらとってもわかりやすいんだもの。」
ふんと、顔をあげてアンジェリークを見た。
アンジェリークは照れたように笑っている。アンジェリークにももちろん幸せになってほしい。
「ランディ様はなんておっしゃってるの?」
「うん・・・。あのね、わたしのこと・・・好きって言ってくださったの!」
キャーッとアンジェリークは枕に顔をうずめた。
呆れ顔のロザリアを半分枕にうずもれたままアンジェリークがつついた。


「ロザリアこそ~、オリヴィエ様とどうなの? ルヴァ様だとばっかり思ってたからびっくりしてるよ。みんな。」
アンジェリークはしまったという感じで口を押さえた。それを見逃すロザリアではない。
「みんな・・・?」
「あ、あのね、ゼフェル様とかマルセル様とか、ほら、ランディ様と一緒にいらっしゃるでしょ? だから、ね?」
仕方がないか、とも思う。毎日通っていたロザリア自身が、一番良くわかっていた。
わたくしにとって、大切なものは何?

黙ってしまったロザリアにアンジェリークが声をかける。
それはまるでいつもと逆にロザリアに何かを教えようとしているようだった。
「ねえ、ロザリア。人を好きになる気持ちって、だんだん変っていくと思うの。だれにも止められないのよ。よく自分の気持ちを考えて。
ロザリアが今、一番必要としている人は誰なのか。」

「必要な人・・・?」
ロザリアの脳裏に優しい暗青色の瞳が映る。
女王候補としてではない、ただのロザリアになれるたった一人の人。
「もし、ずっとその人といたいと思ったら、もう、その人のことを好きなんだと思うの。
わたしはランディ様といると、すごく楽しくてドキドキして、ずっと一緒にいたいなあって思うの。」
また枕に突っ伏したアンジェリークをロザリアは不思議な気持ちで見ていた。

そうね、これが恋するということなんだわ。
オリヴィエといる時間はいつのまにかかけがえのないものになっていた。
誰にも渡したくない、たいせつなもの。
ロザリアは久しぶりにバイオリンを弾いてみたい、と思っていた。



しばらく聞こえなかったバイオリンの音が流れてくる。
ルヴァはその音を聞いたとき、なぜか悲しくなった。
今までの音と違っていた。甘い恋の曲は湖で聞いた曲だ。
けれど、あのときのようにルヴァに響いてくる音ではない。もっと、甘い恋人同士の音。
ロザリアは相変わらず勉強に来てくれている。以前のように無理にアンジェリークを連れてくることもなくなって、そのことは嬉しかった。
けれど、以前に感じていたまっすぐな何かがなくなっていた。
それに、驚くほどきれいになった。
それを思うとルヴァは頭が痛くなってきて、なにかいてもたってもいられないような気がしてくる。

バイオリンの演奏が終わっても、ルヴァの心の中では音が続いている。
いま聞いた音ではない、あの湖で聞いた時の音。
あのとき、ロザリアは何と言っただろう。
「どのようにお感じになりまして?」
確かにそう言った。どう感じたか、本当は・・・。

ルヴァは立ち上がって、窓を眺めた。
部屋から出たロザリアとオリヴィエは楽しそうに笑っている。
オリヴィエの笑顔は今までに見たことがないほど幸せに満ちていた。
あなたは手に入れたんですね。たった一つの大切なものを。
ルヴァは心が熱いもので溢れてくるのを感じた。


「どうしたんだよ! ルヴァ。」
ゼフェルの声がして自分が涙を流しているのに気づいた。
粗野に見えて繊細なゼフェルはルヴァの気持ちに気づいたようだ。
「泣くくらいなら、なんでもっと、早くあいつに言わねえんだよ!」
怒鳴り声がつらそうに聞こえる。
事実、ゼフェルは泣き出しそうな顔をしていた。

ロザリアがルヴァに淡い憧れを抱いていたことはたぶんゼフェルが最初に気づいた。
ルヴァだってロザリアを想っていたはずなのに。
「いえ、私が気づいていなかったんです。大切なものに。失くすまでわからないなんて、私ときたら、本当にぼんやりしていますよね~。」
流れる涙をぬぐおうともしないルヴァにゼフェルがタオルを投げつけた。
ふわり、と顔面にかかったタオルは上手にルヴァの涙を隠してくれた。

「ありがとうございます~。 でも、しばらく一人にしていただけませんかね~。」
タオルをかぶったままルヴァは言った。
恋を運んできた少女は、気付かないうちに飛んで行ってしまった。私の心に恋を残したままで。
ルヴァはひとり、本の山に隠れて失くしたものを思う。
「貴女を好きだったんですよ。」
そのつぶやきは本の中に隠れてゆっくり消えて行った。


FIN
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