1.
「明日は久しぶりに遠出をしましょうか？」
ロザリアは傍らのオスカーに声をかけた。
一足先にベッド入り肩ひじを立てていたオスカーは不意の問いかけに驚いたように顔を上げた。
「すまない。明日はお嬢ちゃんと先約があってな。必ず埋め合わせはする。」
「そうですの・・・。」
ロザリアの声のトーンが落ちた。このところずっと週末を二人で過ごしていない。
女王試験の間にオスカーと結ばれたロザリアは、候補を下り、補佐官になった。
アンジェリークも他の守護聖も二人の決断を尊重し、共に暮らすことが許されたのだった。
公認の仲となった二人は順調な生活を送っていたが、２回目の女王試験が始まり、ともに忙しい日々を送るようになっていた。
「あれ、ロザリアじゃないか？ 日の曜日まで仕事なんてお互いついてないねぇ。」
聖殿の中庭でオリヴィエに会った。
今日は朝から１日補佐官室にこもりきりだった。
女王候補たちも尋ねてこなかったし、普段どうしても滞りがちな通常の執務を片付けるにはちょうど良かった。
「ええ、でもゆっくり仕事ができてよかったですわ。」
オリヴィエと肩を並べるように歩きだした。オスカーに比べれば幾分顔の位置が近い。
そのためか小さな声でも話しやすいといえた。
「今日、アイツはどうしたのさ。」
いつもロザリアの隣にいたあの赤い髪の男。
「オスカーはアンジェリークとお出かけですわ。どこへ行ったかまでは聞いておりませんけど。」
小首をかしげて言った。
すでに二人とも私服に着替えている。
ロザリアは髪をおろして、ブルーの小花のワンピースを着ていた。
水辺を思い出させるようなその色合いにオリヴィエは誘いを向けた。
「まだ、アイツも帰ってきてないだろう？ちょっと湖にでも行ってみない？涼しそうで気持ちいいと思うよ。」
女王アンジェリークの希望で、聖地にも四季ができた。
クリスマスは雪でしょう！という一言で始まったそれは今日という日に夏の色合いをつけている。
まだ日が落ちるには十分に時間がある。
それにこのところ私邸と聖殿を往復する日々が続いていたロザリアにその提案は魅力的に思えた。
「まあ、連れて行ってくださいますの。うれしいですわ。」
思わぬ息抜きにロザリアはにっこりと誘いを受けた。
オリヴィエはロザリアの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれる。
話しながら湖に着くと、珍しく誰もいなかった。
静かな水面が傾きかけた日差しを受けて眩しくきらめいていた。
滝の水がミストシャワーのようにあたりを涼やかな空気に変えている。
「とても気持ちがいいですわね。連れてきていただいてありがとう。」
ロザリアは岸辺にゆったりと横座りになった。
このところオスカーは明らかに元気がなかった。
彼の悩みを抱えた気持ちがロザリアにも移ってくるようで何となくもやもやしていた。
外に出て、さわやかな空気をすったせいか、幾分気持ちもすっきりした気がする。
「どういたしまして。私もあんたとこれてよかったよ。」
オリヴィエはその隣でじっと滝を眺めている。
祈りをささげる相手はもういない。羽を休める場所を見つけてしまった青い鳥。
二人の横をさわやかな風が吹き抜けて行った。
少し離れた茂みの向こうが、かさかさと動いた気がした。
恋人たちの邪魔になっては、と二人は移動する。
ここは「恋人たちの湖」なのだ。場所を譲らなければ申し訳ない。
別の陰に移動して、来たカップルに目をやると、それはオスカーとアンジェリークだった。
（オスカーはわたくしの時もよく湖に連れて行ってくださったわ。）
ロザリアはふとを思い出して温かい気持ちになった。
同じように作られた森の湖で交わした二人きりの愛の言葉、口付け、そして、永遠の誓い。
すべてがロザリアにとってかけがえのない宝物だ。
ほほえましい気持ちで二人を見やった。
突然視界の中の二人が、熱い抱擁を交わすのが見えた。
そしてそのまま口づけを交わしていく。優しいものではない、熱い、すべてを奪うような口付け。
長い時間、二人はただ互いを貪っていた。
長いと感じたのはロザリアの中だけかもしれない。
その光景に何も考えられなかったから。
口付けが終っても二人は抱き合ったままだった。
「オスカー様、わたし、オスカー様が・・・好きです。」
アンジェリークの声が聞こえた。
「俺もだ。アンジェリーク。いつの間にか君を愛してしまっていた・・・。」
オスカーの苦しげな声が聞こえた。
今、なんと言ったの？
ロザリアは激しい耳鳴りで目を閉じた。聞きたくない、この先の言葉は。
「オスカー様・・・。」
「アンジェリーク・・・。君を愛している・・・。」
再び何度も激しいキスを繰り返す。夕闇が訪れるまで、二人は離れなかった。
二人が去ってもまだ、ロザリアは動けなかった。
今見た光景をどうしたら信じられるというのだろう？そして、どうしたら忘れられるというのだろう？
陽がすっかり落ちて、星だけの輝きが空を覆ってもなお、ロザリアは立ち上がることができなかった。
「ロザリア・・・。」
オリヴィエの声が遠くに聞こえた。ロザリアと同じ光景を彼もすべて見ただろう。
あの、熱い逢瀬を。
「帰ろう？ 送っていくから。」
座り込むロザリアの腕をオリヴィエは引き揚げた。
それでも立ち上がろうとしないロザリアを、オリヴィエは前から抱きかかえるようにして立たせた。
人形のように立つロザリアの肩を抱いて、少しづつ歩みを進める。
夜風は夏の終わりの涼しさを二人に与えてくれた。
もっと、冷たければいいのに、なにも考えられなくなるくらい。
ロザリアはただそれだけを思った。
森を抜けて、ロザリアは途方に暮れた。
あの家には、帰れない。オスカーのいるあの家には。
肩に置かれたオリヴィエの手に自分の冷え切った手を乗せた。
オリヴィエの手も同じように冷たいことに安堵する。
「あの家には、帰りたくないの・・・。」
震えるロザリアの声にオリヴィエは優しく答えた。
「うちに来ればいいよ。今日は帰らないほうがいい。」
そのまま、オリヴィエの私邸まで星の明かりだけを頼りに歩いた。
月のない夜空の美しさを教えてくれた人の心は、もう自分の元にないのだろうか？
ロザリアは重い足を動かしていた。
「うん。ちょっと飲ませすぎちゃったみたいでさ、悪いんだけど、泊らせていいかな？ 明日にはちゃんと返すから。じゃ、ね。」
オリヴィエが電話をしている間、ロザリアはソファに座っていた。
頭ははっきりしているのに、体が動かない。心がばらばらになって、体ごとちぎれていくようだ。
隣に座ったオリヴィエの手から暖かい紅茶を渡される。
その香りに思わずカップに口をつけると、とたんに涙があふれてきた。
「ごめんなさい。わたくし・・・。」
止まらない嗚咽にオリヴィエがそっとロザリアを抱き寄せる。
オリヴィエの肩でロザリアは疲れるまで泣いた。
泣き疲れて眠る、ということがあるのを初めて見た。
ロザリアが眠ったのを確かめて、オリヴィエはそっと彼女を抱きあげた。
ソファで寝ていては、いくら夏の陽気とは言え風邪を引くかもしれない。
客室用のベッドに連れていくつもりだった。
ベッドに横にして、枕を当ててやると、「オスカー・・・。」とつぶやくロザリアの声がした。
起こしてしまったかと見ていると、眠ったままの瞳から静かに涙がこぼれおちていった。
オリヴィエはこぼれおちる涙をそっと自分の袖でぬぐっていく。それでも涙は止まることがなかった。
ベットサイドの鈍いテーブルランプの明かりに浮かぶロザリアの顔は見つめるほど悲しく見えた。
オリヴィエはロザリアの枕に両手をついて、そっと口づけた。
夢のサクリアがせめて彼女に優しい夢を運ぶように、願いを込めて。
ロザリアが眠っている続き部屋のソファに、オリヴィエはどかりと腰を下ろした。
客間として使っているその部屋は、リビングと寝室が続いているので、眠っている様子がわかる。
もし、ロザリアが目を覚まして、何かがあってはたまらない。
オリヴィエはここで一晩を過ごすつもりでいた。
カーヴから持ってきたワインのシールをオープナーの先で強引に破り取ると、乱暴にコルクを開けて一気にグラスに注いだ。
ゆるく曲線を描くそのグラスの半分以上までなみなみと注いで飲みほす。
アルコールがはいっても頭はいつもより鮮明だった。
オリヴィエは湖で見た光景を思い出す。
遊びなのか？本気なのか？ オスカーの真意は分からない。
それでもあの顔は確かに苦しい想いに揺れているように見えた。
なによりもあのオスカーがここへ迎えに来ないことがその証のような気がする。
アイツが今までそんなことを許したのを見たことがない。他の男の元に愛しい女を預けるなんて。
オリヴィエはもう一度グラスにワインを注いだ。
大きなブルゴーニュのグラスはボトルのワインを半分以上飲みこんでいる。また一息に飲み干した。
もし、オスカーが本気だとしたら、ロザリアはどうなるのだろう。オリヴィエはフルボディの熟成された香りにむせるように息をついた。
朝が来て、ここがオリヴィエの私邸だと気付いた。そして昨日の出来事が夢ではないことにも。
眠っている間、何かに守られているような気がしたことを思い出す。
ロザリアはそっとベッドを抜け出した。
隣の部屋のソファでオリヴィエが体をはみ出して眠っているのが見えた。
その優しい心遣いに少し温かい気持ちになる。
ロザリアはメモを残すと、そっと自宅へ戻って行った。
オリヴィエは鳥の声とカーテンの隙間からこぼれた一筋の光で朝が来たことに気付いた。
ベッドを覗くともうロザリアはいない。
机の上に残されたメモに「ありがとう。誰にも言わないで。」と書いてあることを確認する。
オリヴィエは大きなため息を漏らした。もっと頼ってくれて構わないのに。
昨日口づけた感触がオリヴィエの心を激しく揺さぶった。
オスカーは明け方の寒さに目を覚ました。近頃は朝晩の寒さで裸のままでは少々寒くなる。
目が覚めて、傍らにロザリアがいないことに思い当った。
いつでもオスカーが目を覚ます前にそっと肌掛けをかけてくれている。
肌を刺す冷気にそのぬくもりがないことに気付いた。
オスカーの胸に重い塊が落ちる。昨夜、ロザリアが帰らなかったことに心のどこかでホッとしていた。
嘘をつくのは苦手だ。
自分が選ぶ道はきっと周りすべてを傷つけてしまうだろう。そしてそのもっとも大きな傷をロザリアが負うこともわかっていた。
それでも。
再び眠ることができずに朝日が昇るその時を待った。
愛のかたち
