2.
「ロザリア、ロザリアってば。」
リモージュの声ではっと顔を上げると、心配そうに顔を覗き込むリモージュとジュリアスの姿が見えた。
「もしかして、具合でも悪いの?今日は元気がないみたいよ。」
リモージュの顔は心配に満ちている。
ジュリアスは咳払いをすると、「今日はもう休むがよい。私は部屋へ戻ろう。」 と、席を立った。
どうしてもという急ぎの話ではないということもあっただろう。
二人きりになると、とたんに昔の友達の顔に戻って、リモージュが尋ねてきた。
「本当に変よ。ロザリア。オスカーと喧嘩でもしたの?」
ただならない親友の様子にどこまでも優しく尋ねる。
いつものケンカならたいていロザリアが怒って、オスカーが謝りに来るのだけど、とドアの向こうを気にしても、誰も訪れる気配はない。
女王の前だろうと構わずロザリアに会いに来るオスカーが、少しうらやましいくらいだったのに。
リモージュはロザリアの手を握ると、「今日はもうお家に帰って。倒れそうで心配だもの。」
女王命令です、と付け加えて、補佐官室へ戻した。
途中で、ジュリアスが待っていた。
「近頃忙しかったから疲れがたまったのであろう。ゆっくり休むがよい。」
厳しく見えるがジュリアスはただ厳しいだけではなかった。
明らかに疲れた様子のロザリアにかける言葉は優しい。
了承の意を告げて、補佐官室に戻った。誰もいない部屋でロザリアは目を閉じる。
考えるのは昨日のことばかり。
執務に身が入らないようでは補佐官失格だという自分自身への叱責も意味をなさなかった。
すでに晩夏と言えるのに、まだ窓からはいる日差しは強い。その強い光を眩しく感じた。
まるで彼女のようだ、とロザリアは思った。
「よお、極楽鳥。」
オリヴィエはオスカーに声を掛けられて立ち止った。
相変わらずの甘いマスクにオリヴィエは心の中で激しく毒づいた。
少し高いその瞳を射抜くように見つめる。
「おっと、ご機嫌斜めのようだな。昨日の礼だ。」
オスカーは一本のワインを差し出した。ロザリアを泊めた礼という意味なのか?
オリヴィエはそれをブラ下げるように持って、そのまま立ち去る。
いつものような軽口を叩ける心境ではない。
オリヴィエの立てるヒールの音が壁に吸い込まれるように静かだった。
オスカーがその背中をじっと視線で追いかける。
オリヴィエの背中は声をかけるのを拒絶しているように思えて、オスカーは何も言えなかった。
静かに日々は過ぎていく。時折暗い目をしたロザリアに何度も声をかけようとしてやめた。
何事もなければそれでいい。
オリヴィエはこのまま時が過ぎることを祈った。
久しぶりの二人きりの日の曜日。
オスカーとロザリアは遠乗りに出かけた。
淑女のたしなみとしてロザリアは乗馬の技術があり、気候の穏やかな時はこうして出かけることも多かった。
今日の目的地は、のどかな草原の続く小高い丘。オスカーの故郷に似ているというその場所にはよく来ていたのだった。
馬をとめ、草はらに横になると、穏やかな風が草をなびかせて流れていく。
ロザリアはオスカーの隣に座った。
馬に乗っている間は話ができない。それをありがたいと思う自分がいた。
オスカーはじっと黙って丘からの眺めに目を向けている。
さわやかな風がオスカーの髪をなびかせて長いピアスが見え隠れした。
アイスブルーの瞳になにが映っているのだろう。
景色ではない、もっと遠くの何かを見つめている気がした。
「ねえ、以前にここに来た時のことを覚えていまして?」
「君が転んで俺のあげたイヤリングをなくしたことか?」
オスカーが冗談ぽい口ぶりで言う。
あのときのオスカーは「いつでも買ってやるから気にするな。」と言った。
それなのに、今日のオスカーは何も言わない。思い出を口にしただけ。
もう思い出を話すだけの関係になってしまったのか、とロザリアは思う。
オスカーが二人の間の未来を望まないことを知ってしまった。
守れない約束はしない人だから。
ロザリアも黙って、景色を眺めていた。
近くにいるのにどんどん離れていくオスカーを感じていた。
その日が来ることを、いつかは予感していたような気がする。
すでに秋を思わせる長雨は、聖地の空気を映すように降り続いていた。
夏の終わりの雨は煙るような霧雨とはいえ冷たい。
絹のように傘を濡らす雨にロザリアは小道を歩いていた。
目の前にアンジェリークの姿が見えたとき、ロザリアは恋の終わりを知った。
彼女の熱いまなざしはこの冷たい雨に打たれていても消されていなかったから。
「オスカー様と、別れてください。」
アンジェリークははっきりと言った。
勝気な彼女の性格はよく理解していたし、彼女が悪いわけではないこともよくわかっていた。
「私達は愛し合っているんです。
でも、オスカー様はロザリア様に遠慮して、なにもできません。
女王になる夢をうばってしまったからって、責任を感じているだけなんです!
オスカー様を解放してあげて!」
叫ぶように言うアンジェリークにロザリアは持っていた傘をそっとさしかけた。
「お行きなさい。あなたは大切な女王候補なのよ。風邪でも引いたらどうなさるの?」
アンジェリークの手に強引に傘を握らせた。
「さあ、お行きなさい。あなたの言いたいことはよくわかりましたから。」
ロザリアはアンジェリークの体を押し出すように前に行かせた。
「ロザリア様。私はあきらめません。」
それでもすでに勝者と敗者がいる。
アンジェリークは恋を手に入れたものの傲慢さでロザリアを追い詰めた。
「さあ、行って。ひとりになりたいのよ。」
わかるでしょうという目でアンジェリークをその場から去らせた。
霧のような雨がロザリアの上に降り注ぐ。
すぐに濡れるわけではなく、次第に全身がしっとりと水を含むように濡れていった。
立ち尽くすその上をさらに優しく雨は降り注ぎ、そしてロザリアはその場にうずくまった。
聖殿を出ようとして、ロザリアの傘が目に入った。
青い小さな薔薇が描かれたそれは、リモージュと買ってきたと言って見せてくれたものに間違いなかった。
声をかけようとして、息をのんだ。
傘の下からのぞく栗色の髪はアンジェリークのものだった。
「あんた、それ、どうしたの?」
自然と険を含んだ声音になった。あの日からオリヴィエはアンジェリークと話すことを拒絶している。
アンジェリークはその険にひるむことなく言った。
「ロザリア様にお借りしたんです。私が雨にぬれていたら、女王候補だから持って行きなさいって。」
聖殿のひさしに入ったアンジェリークは傘をスッと畳んだ。
青い薔薇が小さくしおれたように見える。
「じゃ、ロザリアはどうしてるのさ。」
アンジェリークは傘をオリヴィエに押し付けるように渡した。
「あちらから歩いてくると思います。しばらく一人になりたい、と言われました。」
オリヴィエは思わずアンジェリークの腕をつかんだ。
「あんた、なにか言ったのかい?」
オリヴィエの睨みつけるような目にアンジェリークはまっすぐ視線を返した。
返事はない。
オリヴィエは傘を持ったまま、アンジェリークが来た道を走りだした。
傘をさしている余裕もなく、霧のような雨の中を走った。ゆっくりと髪にしずくが集まり始める。
うずくまるロザリアを見つけて、ようやくオリヴィエは傘があったことに気付いた。
そっと、ロザリアに開いた傘をさしかける。
急に体を濡らす雨が届かなくなったことに気付いたのかロザリアの体がピクリと動いた。
それでも顔を上げることはない。
そのままロザリアをこれ以上濡らさないようにじっと傘をさしかけていた。
オリヴィエの髪からこぼれたしずくが石畳の上で音を立てた。
「ありがとう・・・。」
立ち上がったロザリアは雨に濡れたオリヴィエを見てそう言った。
崩れ落ちそうなロザリアを支えるため、オリヴィエは再び傘を畳んだ。
すでに濡れた体にはもう傘は必要ない。
霧のような雨は心に影を作るように降りやまない。
オリヴィエはロザリアを抱きかかえるようにして自分の私邸へと連れて帰った。
濡れた服を着替えるように言って、オリヴィエは部屋の外に出た。
たくさんの衣装の中でロザリアでも着られそうなものを選んで渡したつもりだった。
シャワーを浴びて着替えをしてからノックをしても返事がない。
何度ノックしても返事がないのに痺れを切らして中に入ると、ロザリアはまだ補佐官服のままで立っていた。
髪や服からぽたぽたと流れるしずくは絨毯に大きなしみをつくっている。
「ロザリア、風邪をひくよ。早く着替えないと。」
オリヴィエは着替えを持ってロザリアの手を取った。
その冷たい温度にドキリとする。
オリヴィエに手を引かれて、そのままロザリアは倒れ込んだ。
彼女の心のきしむ音が聞こえたような気がした。
張り詰めたまま倒れ込んだロザリアは意識を失っていた。
呼吸がなくなることを恐れて、首の飾りを外す。
色を失った首筋が目にはいる。
熱を奪われた体は氷のように冷え、ますます青白い顔色になっていて、まるで彼女が精巧にできた人形のように見えた。
故郷の寒い星では物見遊山で来るうちの何人かが毎年死んでいた。
思わぬ雨雪は濡れた体から急速に体温を奪い取り、死へ誘うのだ。
オリヴィエは迷わずにロザリアのドレスのファスナーを外した。
肌があらわになり、下着姿のロザリアが現れる。
そのまま寝室のベッドに連れて行った。
サイドボードのウイスキーを口に含むとロザリアに口づけて強引にのどに押し込んだ。
ロザリアの喉がウイスキーを飲みこむのを見て、少しほっとして、柔らかな布団をかける。
オリヴィエは着ていた服を脱ぎ捨てると、ロザリアの傍らに滑り込んだ。
二人の肌が触れ合うと、その部分が熱く熱を持ってくる。ロザリアの冷えた体を包み込むようにして抱きしめた。
この熱さがすべてロザリアに伝わればいい。私のすべてをあんたにあげるから。
オリヴィエが自分の頬をロザリアの頬にあてると、ひんやりと冷たかった頬にかすかなぬくもりを感じた。
足をからめ、体を押し付けると、胸を合わせ、背中を抱き寄せた。
オリヴィエはじっとロザリアを抱きしめた。
彼女の体にぬくもりが戻るまで、そのひとときを、抱きしめた。
差し込む日差しに気づいて、ロザリアは目を開けた。
見慣れない天井と部屋の様子にあわててあたりを見回しす。
ここは、どこなのだろう。
ぼんやりとした頭が次第にはっきりするにつれて、ここがどこなのか思い当った。
起き上がろうとして、自分が下着だけの姿になっていることに気付くと、あわてて布団にもぐる。
柔らかな布団の感触に少し心が和んだ。
「目が覚めた?」
ドアが開いて、オリヴィエの声が聞こえると、ロザリアは、布団にもぐったまま、頷いた。
「ごめん。とにかく濡れてたから脱がせたんだ。それだけだから、安心して。」
ロザリアの狼狽を消すように言う。
「乾かしておいたから、とりあえずこれを着て帰るといい。」
オリヴィエが出ていった後、ロザリアはもとの補佐官服を着た。
昨日の出来事をようやく思い出した。
気を失った自分をオリヴィエが連れて来てくれたのだろう。
廊下に出ると、オリヴィエが立っていた。
「今日は休んだほうがいい。家まで送るよ。」
ロザリアは首を横に振った。
「ごめんなさい。またあなたにご迷惑をかけてしまいましたわ。
もし、責任を感じているのでしたら、おやめになって。
確かにオスカーに告白するように勧めてくれたのはあなただけれど、今起きていることはすべてわたくしのせいなのだから。」
うつむいたまま、そう言ったロザリアはとても小さく見えた。
候補時代、いつもロザリアの恋の相談に乗っていた。
キラキラと輝く瞳でオスカーのことを話すロザリアに、「告白すれば。」と軽い気持ちで言ってしまった。
まさか、オスカーが受け入れるなんて、予想もしなかったのだ。
それでもオスカーが本気だと思ったからこそ、じっと耐えてきたのに。
「別にそんなふうには思ってないよ。
たまたまあんたが倒れたから連れてきただけ。湖のことだって、アイツの女癖は知ってるからね。気にしてないよ。」
オリヴィエの冗談めいた口調にロザリアはほっとしたようだった。
「でしたらいいんですの。オリヴィエは何も悪くないんですもの。本当に気になさらないで。・・・ありがとう。」
何度「ありがとう」と言われただろう。感謝なんて欲しくないのに。
ロザリアが帰った後も、オリヴィエは聖殿に行こうとしなかった。
会いたくない人に会ってしまった時、なにをしてしまうかわからない。
オスカーとアンジェリークを見たくなかった。