3.
ロザリアは家に帰らずにそのまま聖殿に向かった。
オリヴィエが乾かしてくれた服は少しくたびれたようになってはいたが気にならない程度だ。
まっすぐ女王の部屋を訪ねた。
「あら、ロザリア。どうしたの?こんなに早く。」
リモージュは少し驚いたように言った。
よく見れば、ロザリアは化粧もしていないし、髪も結いあげていない。
尋常でない様子に胸が騒いだ。
「わたくし、オスカーのところを出ようと思いますの。どこかに家を用意していただけないかしら?」
顔色が悪い。リモージュはロザリアの元に近づいた。
「ねぇ、顔色が悪いわ。疲れているんじゃない? 少し休んで…。」
ロザリアはリモージュの手を取って言った。
「別のところに行きたいの。お願い・・・。」
リモージュの手にロザリアの涙がこぼれる。
ぽたぽたと落ちる涙の粒にリモージュはロザリアを抱き寄せた。
いったい何が起こったのだろう。
「ディア様が住んでいたところが空いているの。そこなら家具もすべてそろっているわ。今からでも使えるから。」
リモージュは手をつないだまま、ロザリアをソファに座らせた。
「少し、ここで休んで。用意ができたら言うから。」
「アンジェ。誰にも言わないで。お願いよ・・・。」
いつも強気なロザリアがこんなにもつらそうにしているのを初めて見た。
リモージュは自分を頼ってくれた親友に精一杯優しく微笑んだ。
女王に呼び出されたオスカーはその怒りの表情に内心動揺していた。
「オスカー、正直に言って。ロザリアと何があったの?」
オスカーはゆっくり頭を上げた。そのアイスブルーの瞳がきつく揺らめく。
「申し訳ありません。今はまだ何も言えません。」
リモージュは声を荒げた。こんなことは今までなかった。
「言いなさい。言うまでここから帰しません。」
お互いに一言も発しないまま時が流れた。オスカーは頭を垂れたまま動かない。
扉が開いて、ロザリアが現れた。
「アンジェ、いいのよ。」
オスカーの元にロザリアは静かに歩いた。冷たいヒールの音が耳に残る。
「今までありがとう。わたくしたち、別れましょう。」
それだけ言って、部屋から出た。
元の部屋に戻りソファに座ると泣き崩れた。
これほど愛する人を失うことが信じられなかった。この先、彼を失って生きていけるのかもわからない。
ただ、涙がこぼれた。これほどの痛みをこれから一人でずっと耐えていかなければならないのだ。
オスカーとリモージュがまた二人で取り残された。
「お聞きになった通りです。俺はロザリアに別れを告げられました。それを受け入れるだけです。」
玉座のリモージュがつかつかと降りて来て、オスカーの頬を打った。
静かな部屋に頬を打つ音が響く。
オスカーはそのまま頭を下げると、退出して行った。
打たれた頬に痛みはなかったが、心に重い枷がついたように感じていた。
リモージュの薦めで執務を休むと、ロザリアはディアの家に向かった。
聖殿の裏手にあるその家は、通りから引き込まれるように建てられていて、人目につかないひっそりとした立たずまいだった。
長い間だれも住んでいなかった家は少しかび臭いにおいがした。
使われていない家具に白い布がかけられている。
ロザリアはオスカーのいない隙に荷物をまとめ、この家に来た。
もともと候補寮からすぐにオスカーの家に移ったので、ほとんど荷物はなく、自分のものと言えるのは、着替えと日用品くらいだった。
オスカーとの暮らしの間のすべてがトランク一つになってしまったことに驚く。
あんなにも心に満ちた日々はなかったのに。
ロザリアは床にトランクを置くと、明かりもつけずに横になった。
雨戸をあけない室内はうす暗いままで、ロザリアは膝をかかえてその暗闇で息をひそめた。
誰も、いない。
時計すらもない、その家でロザリアは目を閉じた。
ロザリアがオスカーの家を出たという噂は瞬く間に聖地に広まった。
もともと目立つカップルであったし、だれもがうらやむ二人の別れはかなりの衝撃を与えていた。
そしてすぐ翌日から、ロザリアは執務に出た。
私用で休むことは自分のプライドが許さなかったのだ。
一つの恋を失うことの重さは人によって違う。
ロザリアの気丈な様子はそのダメージが小さいように見せていた。
ジュリアスの執務室でオスカーはその峻厳な瞳の前に立っていた。
「噂は本当なのか?」
重い空気があたりを包む。紺碧の瞳は嘘を許さない空気をまとっている。
この手の話に疎いジュリアスの耳にまで入っているということは、すでに聖地中の人間が知っているということか。
オスカーの心に苦い澱が落ちる。
すれ違うロザリアはあまりにも凛として、かえって誰も受け付けない空気をまとわせていた。
その様子が今までと違っていることは誰の目にも明らかだ。
「本当です。もうロザリアは家を出ました。」
頭を垂れたまま、オスカーは答えた。
「なぜだ?そなたたちは永遠の愛を誓ったのではなかったのか?」
その言葉にオスカーははじめて顔を上げた。
アイスブルーの瞳がジュリアスにまっすぐに向けられる。
その瞳に後悔はないが、深い苦悩が浮かんでいて、ジュリアスは言葉を失った。
「お言葉ですが、心は変わるものです。誰かを愛したことがもしあるなら、そのことが分かるはずです。」
ジュリアスは眉を寄せた。
誰も愛したことのないものには分かるまい、と言われているような気がした。
「もうよい。 しかし、そなたのしたことは許されることではない。」
ジュリアスは窓に目を向けた。
青い空は穏やかに雲を流している。雲でさえ変わっていくのだ。
心が変わっていくのならば、なぜ自分は変われないのだろう。
オスカーが下がっても、ジュリアスは雲を眺めていた。
執務の時間も忘れてしまうほど、ジュリアスはただ一人の心の内を思った。
ロザリアは一人になるために新しい家に使用人を置かなかった。
幼いころから必ず誰かがそばにいる暮らしに慣れてしまっていたロザリアには、初めてのことだ。
ばあやの入れてくれた紅茶が飲みたいと思う。
もう、この世にいない、ロザリアのそのままを愛してくれた人。
荷物を下ろすと、暗い家の床に横たわる。
心が疲れて、なにも考えられなかった。
目を閉じてもすぐに眠りにつくことはないけれど、絨毯の下の固い床からくるひんやりした冷たい感触が心地よい。
毎日すぐに目が覚めてしまう。長い夜を独りで過ごす孤独。
体の芯まで冷たくなるようなその毒に心が浸食されていく。
ロザリアは重い体をどさりと床に投げ出した。
このまま目が覚めなければいいのに、と思った。
遠くでドアをたたく音がする。
オスカーの家を出てから、聖殿にいるとき以外誰とも口をきかない日が続いていた。
リモージュともまだまともに話せない。
きっと口に出せば、また泣いて彼女を困らせてしまうだろう。
リモージュの悲しそうな顔は見たくなかった。
音が続いても、ロザリアは動かない。
床に横たわり、ただ音を聞いていた。
真っ暗な家はまるで時が止まったように見え、人の気配が全くしない。
固く閉じられた雨戸が人を拒絶しているようだ。
オリヴィエが、ノックに疲れてドアに手をかけると、自然に開いていくことに驚いた。
鍵さえも掛けられていないなんて。
本当にロザリアはここにいるのだろうか。
まったく明かりのない暗い室内は白い布のかけられたままの家具がそこかしこに置かれていた。
よどんだ空気に胸が苦しくなる。
オリヴィエは手探りでスイッチを探すと、灯りをつけようとした。
しかし何度スイッチを入れてみても、全く反応はなく、室内は暗いまま。
なんとか明かりがほしいと、窓を開ける為に分厚いカーテンに手を伸ばした。
聖殿で見かけるロザリアはひどいうわさの渦中にあっても凛としていた。
今まで通り仕事をこなし、補佐官として女王候補たちの指導も続けていたのだ。
アンジェリークは明らかにロザリアを敵視していたから、自然とその仕事は減っていたけれど。
それでも日に日にやつれていく様子にどうしても放っておけなかった。
おせっかいならば、それで構わない。
雨戸を一枚あけると月明かりが差し込んで、部屋の中が見えるようになる。
白い布をかけられた家具の間に、ロザリアが横たわっていた。
月明かりの中でも動かないロザリアを見て、オリヴィエは駆け寄った。
「ちょっと、ロザリア、どうしたの? 気分でも悪いの?」
目を開けたロザリアの瞳は虚ろに見えた。
「オリヴィエ・・? どうしたんですの? 執務のことなら明日伺いますわ。 今日は、お帰りになって・・・。」
横になったまま答える。
オリヴィエから逃れようと動かした手に家具にかけてあった白い布があたり、ふわりと落ちた。
「灯りはどこ?」
ロザリアは首を振る。
「ないの?」
今度は頷く。
オリヴィエは立ち上がった。
さらに雨戸をもう一枚あけると、降るような星の明かりでかなり部屋は明るくなって、ようやくロザリアがはっきり見えるようになった。
白い顔が月明かりでますます青白く、下ろしたままの長い髪が床に散らばっていた。
オリヴィエは床に小さく膝を抱えて丸くなって横たわるロザリアを見て、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
こんなにも彼女は傷ついている。
その心をどうしても助けたい。
オリヴィエはロザリアの隣に座り、彼女を抱き寄せた。
オリヴィエの胸の鼓動がロザリアの耳に流れ込んでくる。 暖かい鼓動。
そっと体にまわされた手からも暖かいぬくもりが伝わってくる。
夢のサクリアだろうか。
ロザリアは目を閉じると、そのままゆっくり眠りに落ちて行った。
眠ったロザリアを起こさないようにオリヴィエは体を起こした。
今まで眠っていなかっただろうから、今日はゆっくり寝かせてあげたい。
ソファのクッションを枕にしようとしたが、あまりに埃っぽいのでやめた。
仕方なく自分の上着を枕にしてロザリアを寝かせることにした。
かたい床は仕方がない。
彼女の安らかな顔を久しぶりに見た気がした。
朝日とともに開けられた窓から光が差し込んできて、その眩しさにロザリアは目を覚ました。
朝日を見るのは久しぶりだ。
今まで眠れないまま暗いうちから聖殿に行って、身支度をしていたから。
ふと、自分の下に敷かれた上着に気付く。
それからはオリヴィエの香りがして、ロザリアは暖かい気持ちになった。
その日から毎日、オリヴィエはロザリアの元に通った。
ロザリアが帰る気配に合わせて、オリヴィエも聖殿を出る。
先に執務が終わった日でもオリヴィエは執務室でロザリアが帰るまで時を過ごした。
一緒に帰ることはしない。
ロザリアが部屋について、着替えたころに着くようにしたかった。
もし、灯りがついていたらそのまま帰ってもいい。
けれど、ロザリアの家に明かりがつくことはなかった。
いつでもカーテンを開けて、月明かりだけで過ごした。
秋の終わりは一番星がきれいに見える時期だ。
二人でじっと星空を眺めていると、特に言葉はなくても、寄り添うだけで心が満たされる気がした。
オスカーといたときのあのドキドキした感じではないけれど、心がふと温かいものに守られている感じがする。
「星がきれいだね。」
オリヴィエが囁いた。
じっとその肩にもたれていたロザリアは小さくうなづいた。
昔、オスカーと庭園で星を見た。
「星のきらめきを見ろ。」 と言って、力強く自分の背中を押してくれた。
その強さを誰よりも愛した。
日に日に、オスカーのことを思い出すたびに感じていた、あの身を切られるようなつらさが薄らいでいくのがわかる。
家具にかけられた布を取り、掃除をして、少しづつ自分だけの家に変えていった。
ロザリアが眠ると、オリヴィエは必ず家に戻る。
朝、目が覚めて一人でいるさみしさをロザリアはだんだん気にするようになっていた。
今日も眠るロザリアの顔を見て、オリヴィエは立ち上がる。
ずいぶん血色も良くなったし、暗い表情を見せることもなくなってきた。
もう少し、もう少ししたら以前のロザリアに戻れるだろう。
オリヴィエはロザリアの頬に手を寄せた。
無防備な寝顔に胸が熱くなる。
もう少ししたら、そのあとは?
オリヴィエは心にのぼるその答えを引きのばそうとしていた。
これ以上、ロザリアの心に立ち入ってはいけないと心のどこかでは思う。
しかし、それ以上にこのときを手放したくない。
オリヴィエは自分の中で揺れる心に答えが出せないでいた。