4.
女王試験もそろそろ終盤に差し掛かろうとしていた。
今ではオスカーとアンジェリークの仲はみなに知れるところになっている。
そのことをリモージュから聞いたとき、ロザリアの胸は再び重い物を飲み込んだように苦しくなった。
あのときの痛みと苦しみが、ふさがりかけた傷口から血しぶきをあげて流れ出してくる。
ロザリアは暗いままの家に帰ると、すぐに窓を開けた。
明るい月明かりが肌寒い冷気とともに流れ込んでくる。
季節の移り変わりは、すでに冬の色をしていて、庭先の落ち葉が暗い闇に埋もれていた。
オリヴィエが歩いてくるのが見える。
ロザリアは玄関に走ると、入ってきたオリヴィエの胸にそのまま飛び込んだ。
「オリヴィエ・・・。」
オリヴィエは胸のロザリアの肩に手を乗せると、体を押し戻して距離を取った。
「どうしたの?」
優しい微笑みの中でロザリアは少しショックを受けた。
オリヴィエが抱きしめられることを拒んだような気がしたからだ。
「オスカーがアンジェリークと一緒に暮らしているというのは、本当なのですか?」
オリヴィエの手がピクリ、と動いたことで返事がわかる。
「やはり、そうなのね・・・。」
ロザリアはいつもの位置に腰を下ろした。
一番良く窓からの景色が見えるその場所はいつも二人で過ごす場所だった。
オリヴィエが静かにその隣に座る。
暖かな毛布に二人でくるまると、白い息がふたりの間を行きかう。
いつものように肩にもたれて、ロザリアはつぶやいた。
「不思議ですわね・・・。
そのことをリモージュから聞いたとき、わたくしは気が遠くなりそうでしたの。
胸が張り裂けそうなほど苦しくて。 早く夜が来ればいい、と思いましたわ。
こうしてあなたといると、何もかも忘れてしまうの。
ただ、こうしていたいと・・・。」
オリヴィエはロザリアの髪をなでた。
星だけの灯りが夜のしじまに冴えわたる。
オリヴィエは何も言わなかった。
ただ、いつものようにロザリアが眠りにつくまで寄り添っていた。
やはりいつの間にかいなくなってしまったオリヴィエの姿を探して目を向けると、テーブルの上にリンゴが置いてあった。
残されたメモに 「必ず食べること。」 とあって、思わず微笑んだ。
最近は朝食を取ることもできるようになっている。
ロザリアはシャワーを浴びて身支度を整えると、リンゴを持って、聖殿に向かった。
リモージュの部屋に行って、リンゴの皮をむく。
「あら、どうしたの?そのリンゴ。 一つちょうだい!」
リモージュが伸ばしてきた手をパチンとたたいた。
「これはあげられないわ。大切なリンゴなの。」
ロザリアは久しぶりに心から笑えた。
リモージュにもその気持ちが伝わったのか、「ケチ~。」 と言いながら笑いかえしてくる。
ロザリアの笑顔を見て、ようやくリモージュはほっと安心したのだ。
以前のロザリアがやっと帰ってきたと思えて、涙が出そうになった。
リモージュの部屋から出ると、ジュリアスがいた。
彼らしくない緊張した面持ちに首をかしげる。
「ずいぶん体調も回復したようでなによりだ。よければ今晩食事でもどうだろうか?ゆっくりそなたと話がしたい。」
ジュリアスの紺碧の瞳が優しい色に変わる。
そう言えば、仕事も手につかない間、すべての執務を肩代わりしていてくれたのはジュリアスだった。
そのジュリアスの申し出を断れるはずもない。
「まあ、ありがとうございます。喜んでお受けいたしますわ。」
ロザリアはにっこりと微笑み返した。
照れたように微笑むジュリアスの顔は新鮮で、ロザリアにもほほえましく映る。
その時、ロザリアがリンゴを食べたか知りたくて、廊下に出たオリヴィエは、二人が笑いあうところを見た。
微笑むジュリアスの紺碧の瞳はロザリアへの愛にあふれている。
ロザリアは鈍いから、きっと気付いていないだろうけれど。
ジュリアスなら、ロザリアを渡せるかもしれない。
その厳しさが優しさからくるものだということをオリヴィエは理解していた。
そして誰よりも実直で堅物な彼なら、きっと、ロザリアだけを永遠に愛してくれるだろう。
オリヴィエは静かにその場を離れた。
オスカーの時のような思いは二度としたくない。
「またこのような機会を持ちたいものだな。」
ジュリアスのエスコートは完ぺきで、ロザリアは久しぶりに食事を楽しめた。
オスカーのことを全く話題にしない心づかいがありがたかった。
まだ、思い出というには生々しすぎる記憶。
家まで送るというジュリアスの申し出を丁重に断って、ロザリアは小道を急いだ。
オリヴィエがいるかもしれないと、それだけで足が速く動くような気がする。
細い小道を抜けて大きく景色が開かれたその場所にオリヴィエがいた。
金色の髪が月明かりに輝いて、その姿を鮮やかに浮かび上がらせている。
ロザリアは息を切らせて、オリヴィエの前に走り出た。
吐いた息がすぐに白い煙に変わる。
「待っていてくださいましたのね! 急いで帰ってきてよかった・・・。」
ロザリアの瞳が輝いた。
星を抱いた瞳にオリヴィエの姿が映る。
ロザリアの薄く上気した頬とつややかな唇が暗い夜でもはっきりと見えた。
その美しい表情にオリヴィエは胸が痛くなる。
一瞬、オリヴィエは目を閉じて、思い出をたどるように息をついた。
「もう、いいよね。」
顔をそむけたオリヴィエをロザリアは不思議そうに見上げた。
「他の男と遊べるようになったんだ。そろそろ私を解放してくれるよね。」
今にも抱きしめられそうな距離にいたロザリアが一歩下がる。
「夜遊びもやめてあんたに付き合ったんだよ。オスカーを薦めた罪滅ぼしだと思ってさ。
まあ、思ったより早く立ち直ってくれてよかったけど。」
ロザリアの目が驚きで大きくなった。
青い瞳は冬の夜空のような輝きをたたえている。
その瞳が、オリヴィエの言葉を確かめるように何度も瞬きをした。
「え?」
「もう、来ないよ。これからはジュリアスに慰めてもらうといい。」
背を向けたオリヴィエにロザリアがすがりついた。
「待って。どういうことですの?もしジュリアスのことを気にしているのなら、もう行きませんわ。だから・・・。」
オリヴィエはわざと大きな声で笑った。
誰も来ないこの家は聞かれたくない話をするにはちょうどいい。
「ジュリアスなんて関係ないよ。私が飽きたんだ。もう、十分いてあげたでしょ? 子供の付き合いは沢山なんだ。」
振りかえり、ロザリアのあごに指を当てて上を向かせる。
星を受けた瞳が大きく揺れていた。
「それとも、私に抱いてほしいの?」
ロザリアの顔がさっと羞恥に染まる。
さらに一歩下がるとオリヴィエとの間に距離ができる。
冷たい空気に心まで凍りそうだ。
「それならいつでも抱いてあげる。 オスカーとどっちがいいか、教えてよ。」
ロザリアの顔が苦痛にゆがんだ。
足が震え、呼吸さえも苦しそうだ。
「オスカーには負けないよ。あんたを喜ばせてあげる。」
顎をとらえたまま、強引に唇を重ねる。
その甘い刺激にオリヴィエは思わず何もかも受け入れてしまいそうになった。
その思いを必死で振り払い、わざと乱暴に彼女を味わっていく。
その愛のない行為にロザリアは愕然とした。
この人は誰?
ロザリアは力いっぱいオリヴィエを押すと、家の中に駆け込んだ。
かたくドアが閉じられた音がする。
押されたオリヴィエは尻もちをついて、冷たい土に座りこむと、そのままひざを抱えてうずくまった。
これでもう、二度と彼女は私を愛さない。
自分で選んだことなのに、心が千切れそうに痛む。
誰かの心に深く入りこむのはもうたくさんだった。そのために傷つくことも。
だれにも愛されたくない、愛したくない。ずっとそうして生きてきたのに。
オリヴィエはゆっくり立ち上がると、一度も振り返らずに小道の向こうに消えていった。
また、一人になった。
立ち去るオリヴィエを窓から見ていたロザリアはその恐怖に震えた。
今日もリモージュのところへ行かなかった。
心配しているかしら、と思ったが、この顔を見せられない。
心にぽっかりと空いた穴はロザリアを打ちのめした。
まだ心に残る傷跡の上からさらに新しい血が流れ出してくるのだ。
「ロザリア。」
ジュリアスが補佐官室に入ってきたことにも気付かなかった。
ジュリアスの気遣わしげな瞳がロザリアをじっと見つめている。
「どうしたのだ。元気がないようだが。」
ジュリアスは急に無理をさせたのではないかと不安気だった。
その気配を感じて、あわててロザリアは微笑を浮かべる。
「いいえ、少し気になることがありましたの。なんでもありませんわ。」
きちんと笑えているだろうか?
ジュリアスの安堵の表情で自分が笑えているようだと思う。
「それを聞いて安心した。」
ジュリアスの顔がほころんだ。
いつも厳しい顔をしている彼のこんな顔は珍しい。
「また、誘ってもいいだろうか?」
ジュリアスの瞳がロザリアに向けられる。
その紺碧の瞳はどこまでも優しい。
ロザリアのうなづく顔にジュリアスは心の中で密かに喜んだ。
ジュリアスが補佐官室から出てくるのが見えて、オリヴィエは息をひそめた。
思ったよりずっとジュリアスはロザリアを想っているらしい。
このまま、ロザリアがジュリアスを愛してくれればいい。 二人が結ばれればいい。
そう思いながらも苦しくてオリヴィエは壁にもたれたまま目を閉じた。
それからもジュリアスの誘いは続き、周囲もロザリアとジュリアスの中を噂し始めていた。
「今日は執務が終わりそうもありませんの。」
補佐官室へ誘いに来たジュリアスにロザリアはそう告げた。
いつの間にかほぼ毎日夕食を一緒に取るようになっていた。
どうせ家に帰ってもやることなどないし、一人でいればオリヴィエのことばかり思い出してしまう。
「それでは仕方がない。また後日に。」
ジュリアスの背中を見送る。
今日は、きっとオリヴィエも帰らないはずだから。
補佐官の立場上、執務の量がわかってしまう。
今日のオリヴィエの仕事はきっと時間内には終わらないだろう。
冬はすぐに闇を連れてくる。
聖殿の明かりが一つまた一つと消えていった。
オリヴィエの執務室の明かりはまだ消えていない。
ロザリアはぼんやりと、オリヴィエの部屋のドアの前に立った。
話がしたい。いいえ、そばにいるだけでも構わない。
なんどもなんどもドアノブに手をかけては下ろした。
ドアの前の気配にオリヴィエの胸が騒いだ。
もし、ロザリアが来たら、彼女を拒むことができるだろうか。
『あなたがいなければ、こんなに誰かを憎んだりしなかった。』
その言葉がいまでもオリヴィエの心をナイフのように傷つける。
遠ざかる足音にオリヴィエはロザリアを失うことの大きさを感じていた。
夕食の後、ジュリアスはロザリアを送るようになっていた。
暗い道は、星の明かりだけで十分に照らされる。
隣を歩くロザリアの顔は月明かりに照らされて匂うように美しい。
この頃の彼女は以前よりも憂いを帯びた表情を見せるようになっていて、時折はっとするように大人に見える。
「私の妻になってはくれないだろうか・・・?」
ジュリアスの声は月明かりに消えそうなほど小さかった。
「すぐにとは言わぬ。そなたが私を想ってくれてからでかまわぬ。ただ、私がそなたを想っているということを分かってほしい。」
ロザリアは答えられなかった。
ジュリアスのことは尊敬しているし、仕事のパートナーとして信頼もしている。
それでも、愛する人はただ、一人。
ジュリアスの想いを知りながらもロザリアはただ一人を見つめる事を止められなかった。