8.
バーの重いオークのドアを開けると、通いなれた店のカウンターが目に入る。
古びたカウンターテーブルは今時珍しい一枚板の重厚な造りをしていた。
よく手入れされた古びた木の質感が心地よい。
黙ってグラスを重ねるオスカーの隣でオリヴィエのグラスの氷が溶けて崩れた。
ロックで頼んだスピリッツは溶けた氷の水分がアルコールの上に放射状に流れていく。
グラスの中でいつの間にか混ざる水とアルコール。
想いもこんなふうに心に溶けて消えてしまえばいいのに。
オリヴィエはグラスの中の透明な液体を見つめた。
「ロジーはロザリアなんだろう?」
オスカーの置いたグラスがカタンと鋭い音を立てた。
明かりを反射して氷が暖色に染まる。
古いスピーカーから流れるピアノ曲は、何度もマスターに曲名を尋ねては忘れてしまう、スタンダードナンバー。
答えないオリヴィエの前にオスカーはポケットの中のものを置いた。
「お前からもらったと以前ロザリアが言っていた。」
恋が叶うローズクォーツの薔薇。
本当の恋しか叶わないというのなら、それはきっと、彼女とオスカーのもの。
「私があのコを見つけた時、あのコは記憶を失ってた。だから恋人だって、言ったんだ。」
ロザリアはそれを信じただけ。
彼女を責めないでほしいとそう言外に告げた。全ては自分のせいなのだ、と。
オリヴィエは頬杖をついてグラスを傾けた。
喉を焼くアルコールが内腑にしみていく。
長い沈黙の間、ピアノの音だけが二人の間を流れていった。
昔、誰かが恋を伝えるために奏でた曲が、恋の終わりを告げる。
「愛されてみたかった。一瞬の夢だったけど、愛されてると思えた時があった。」
ほのかな明かりに浮かぶオリヴィエの横顔にオスカーは責める言葉を失う。
メイクを落とした一人の男としてのオリヴィエを今になって初めて知った。
こんなにオリヴィエが彼女を愛していたことに気付かなかった。
見守る愛はあまりにも大きくて。
「怒らないの?」
ブルーグレーの瞳は静かにオスカーを見つめている。
「彼女を救ってくれて、感謝している。」
再び沈黙がおりた。長い夜にもう語ることはない。
「オスカー、最後の頼みを聞いてくれる?」
オリヴィエの言葉にオスカーは頷いた。
この前の夜、オリヴィエは別れのキスの後にこう言った。
「たまには外で待ち合わせしない?」
恋人同士みたいでしょ?と楽しそうに言うオリヴィエにロザリアも瞳を輝かせた。
「ええ、楽しそうですわね。おしゃれをしていきますわ!」
笑顔のロザリアにオリヴィエは長いキスを繰り返した。
「好きだよ・・・。」
オリヴィエの両手がロザリアの頬に添えられた。
ブルーグレーの瞳は海のように静かで波ひとつ感じない。
「わたくしも、あなたを好き・・・。」
背伸びをしたロザリアが自分から唇を寄せると、オリヴィエは彼女を強く抱きしめた。
息が止まりそうなほど、強く。
目の前に金の髪が揺れた。
「じゃ、ね。」
サヨナラを告げたオリヴィエはいつもより、優しかった。
約束の日、ロザリアは庭園の東屋のベンチに一人で座っていた。
ここまで足を踏み入れる人はほとんどいない、庭園の奥。
木々がちょうど人目を避ける恋人同士を隠すように植えられていた。
約束の時間にはまだ早い。
ちらりと時計を見てスカートの裾を直した。
風が流れるたびに髪が頬にかかる。
短い髪はまとめられないのが不便。何度も耳に髪をかけ直した。
今日はきっと忘れられない日になる。
傷跡に鈍い痛みを感じて、左手でそっと抑えた。。この傷のことをきちんと話したい。
なぜオリヴィエを拒んでしまったのか、理由を伝えたい。
そして、「今日は帰らないでほしい。」と言いたい。
ロザリアは胸に手を当てた。
こんなに願いをかけたいのに、ネックレスが見つからない。オリヴィエがプレゼントしてくれた大切なネックレスだったのに。
失くしたことを告げたらどんな顔をするだろう?
『新しいのを買ってあげるよ。』
そんな言葉を想像して微笑んだ。
「ロジー。」
何度も聞いた声にため息が漏れる。
「オスカー様。今日は日の曜日ですし、わたくしはこれからデートなんですの。ですから。」
立ち上がったロザリアはオスカーの方へ振りむいた。
今までにない真剣なアイスブルーの瞳。
ロザリアの胸がざわざわと波打った。
なぜ、あなたがここに? 言葉が喉に張り付いたように出てこない。
ロザリアの視線がオスカーの持つ花束の上で止まった。
小さな青い花が揺れている。
赤い髪にあまりにも不似合いな青い花。オスカーには薔薇のような華やかな大輪の花が似合うはず。
そんなことを思いながら動けないロザリアの前にオスカーは花束を差し出した。
「オリヴィエから頼まれたんだ。君に渡してほしいと。」
目の前の小さな花は花束になってもどこか寂しげに揺れている。
『私を忘れないで』
・・・・青い花がそう告げた。
「オリヴィエはどこに?」
渡された花束を持つ手が震えた。
オスカーは答えない。
「君は本当はロザリアという名なんだ。そして、この聖地で女王補佐官をしていた。君と俺は恋人同士で・・・。」
「おやめになって!」
オスカーがロザリアを抱きしめた。
この腕の中にやっと戻ってきた愛する人。
今はまだ思い出せなくても時が来れば、きっと再び愛し合える。いや、思い出させてみせる。
待っていた時間を埋めるようにオスカーはロザリアを強く抱きしめた。
「君は俺を愛していた。忘れるはずがない。そうだろう?」
ロザリアは花を持った手でオスカーの胸を押し返す。
黒髪がさらさらと風になびいて、青い瞳がオスカーを見つめた。
「教えて下さい。なぜオリヴィエはあなたに?」
ため息とともにオスカーの顔によぎる影。
「あいつはもういない。」
オスカーが顔を向けた方角は聖地の門。左耳のピアスがきらりと光った。
「さっき、聖地から出ていった。」
木々が風に揺られて葉を揺らした。
木漏れ日の作る陰影がロザリアの白い顔を通り過ぎる。
「まさか、サクリアが?」
ロザリアの声が震えた。
「こんなに早く?なぜ?あなたの方が先に聖地に来ていたはずですわ。
ジュリアスだってクラヴィスだってまだここにいるのでしょう?なぜオリヴィエが?」
ロザリアを見つめたオスカーの瞳が見開かれた。
氷青の瞳に浮かんだ驚愕。
「君は・・・。記憶が戻っていたのか?」
ロザリアの肩に手を置いて、彼女の体を揺する。
聖地のことも、守護聖のことも、全て忘れていると聞いていた。
思い出していたなら、なぜ、黙っていたのか。
「あのコが記憶を取り戻したとき、そばにいてあげてほしいんだ。」
ネイルを落とした細い指がグラスを弾いた。
「連れて行かないのか?今の彼女はお前を・・・。」
オリヴィエはふっと唇の端を薄く上げて自嘲気味に笑う。
「ロザリアはね、やっぱりあんたを好きなんだ。心の奥では私を拒んでる。だからね。」
グラスが揺れるたびに氷の音が響く。
「あんたに愛されることがあのコの幸せなんだ。もし、記憶を取り戻したとき、あんたがいなかったらきっとロザリアは悲しむから。」
悲しむ顔は見たくない。
ロザリアが幸せでいることが、なにより私の望みだから。
「最初は泣くかもしれない。でも、あんたならなんとかできるよ。」
歪んだように見えた顔はいつもの顔になっていた。
「幸せにしてあげて。」
そう言って、オリヴィエは席を立つ。
残されたグラスにルージュの跡はなく、もうオリヴィエが夢の守護聖ではないことを教えてくれた。
ロザリアの瞳がオスカーを見つめて揺れる。
「オスカー、ロザリアはあなたを好きでした。あなたに恋していましたわ。
けれど、今のわたくしは。ロジーはあの方を愛しているのです・・。」
絞り出すように告げられた言葉。
ロザリアという名前も、女王補佐官の立場も、全て捨てて。
オリヴィエとともに生きることを選んだ。
強い決意を秘めた瞳にオスカーはロザリアから手を離した。
今まで彼女のぬくもりを感じていた指先が冷えていく。
頷いた黒髪が頬を滑るように流れた。綺麗に巻いた青紫の髪をなびかせて歩くロザリアはもういない。
「その花を、俺にくれないか?」
ロザリアの手の中の青い小さな花。
両手で花束を抱えたロザリアは静かに首を振った。
「あなたにこの花は差し上げられませんわ。・・・わたくしのことはどうか忘れて下さいませ。」
向かい合ったオスカーの横を通り過ぎて、ロザリアは走って行った。
振り返ったオスカーの瞳に映ったのは、愛する人を追いかける、黒髪の少女。
思い出さえも捨てろというのか。
君を二度も愛した俺に。
ロザリアの座っていたベンチにオスカーは腰を下ろした。
胸ポケットのネックレスが重く音を立てる。
緋色の髪をかきあげると、上を向いた顔に当たる日差しを避けるように手の甲を額にあてた。
上を向いたまま緩やかな風に身を任せたオスカーの瞳にきらりと何かが光ったように見えた。
珍しく雪の降らない日。それでも低い気温のせいで息が白く煙る。
オリヴィエは踏みしめるようにゆっくりと道を歩いた。
十分舗装のされていない道路のせいでキャリーケースが腕にきつい振動を与える。
ヒールを脱いでブーツに履き替えた足もまだ歩くのに慣れていない。
ぶつぶつ独り言を言いながら歩き続けた後、ようやく目の前に景色が広がった。
故郷の町はこの坂の下にある。
重い雲の隙間から時折陽が射した。窓のように小さな雲間から覗く青い空。
ロザリアはどうしているだろう。
オスカーといて、記憶を取り戻しただろうか?・・・愛を取り戻したのだろうか?
「オリヴィエ。」
ロザリアの声が聞こえる。そんなはずはないのに。
「ここへ来れば会えると、思っていましたわ。」
目の前に、ロザリアが立っていた。
「わたくしをお連れくださると、約束しましたわ。なぜ、一人で行ってしまうのですか?」
オリヴィエは胸に飛び込んできたロザリアを抱きしめることができずに立ち尽くした。
「なんでここに?オスカーは?」
オリヴィエの背に手をまわしたままロザリアは顔を上げた。
潤んだ青い瞳に自分の顔が映る。
何を犠牲にしても手に入れたいと思った青い瞳。
「女王候補の頃も補佐官の頃も、わたくしは子供でしたわ。
憧れと愛の区別もつかない、あたりまえのように包んでくれる優しさにも気付かない。
眩しい月明かりで本来の星の美しさを見失っていたのですわ。・・・いつでもそばにいる人に気付くことの大切さをあなたが教えて下さったのです。」
「ロザリア…!」
女王候補の頃、二人で星空を見た。
オスカーを好きだと言ったロザリアに想いを伝えようと思ったわけじゃなくて。
ただ、私が綺麗だと思ったものをロザリアに見せたかっただけなんだ。
オリヴィエは下ろしたままだった腕を彼女の背に回した。
「思い出してたんだね。・・いつから?」
「花火の時、夜空に浮かぶ火を見ていたら事故のことが頭に浮かんで・・・。
目が覚めて、あなたの顔を見たとき、思いましたの。このままあなたのそばにいたい、と。」
記憶が戻ったとわかれば、オリヴィエは離れてしまう。
髪を切ったのは、ロザリアを捨てるため。
「私を許してくれるの?」 嘘つきな私を。
オリヴィエの瞳にロザリアが映る。
穏やかなブルーグレーの瞳には、いつでも彼女だけがいた。
「わたくしを見つけてくれてありがとう。あなたがいてくれてよかった。」
穏やかな日差しの中に風花が舞い始めた。
寒いはずなのに、二人でいる世界はこんなにも暖かい。
「愛してる・・・。」
耳にかかるオリヴィエの声。
ロザリアの黒い髪を六花のヴェールが覆い始めた。
白い息とともに降りる暖かな唇。
抱きしめた腕をもう二度と忘れない。
「あなたに渡したいものがありますの。」
すぐそばに置かれたスーツケースの上にオスカーに預けた花束が乗っていた。
「これを、私に?」
オリヴィエの腕から出て、ロザリアは笑顔で両手に花束を抱えた。
思い出にしてほしいと願いを込めた青い小さな花。
「今のわたくしはなにも持っていませんの。あなたに差し上げられるのはただ、これだけですわ。」
Myosotis alpestris。
勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』。・・・・・そして『真実の愛』。
FIN