Myosotis alpestris


7.


ちらりと時計を見たロザリアはシャワーで濡れた髪をタオルで拭いた。
薄いブルーのパジャマは胸元にリボンのついたチュニック丈の可愛らしいデザインでロザリアのお気に入り。
普段はオリヴィエが帰ってからシャワーを浴びてベッドに入るのだが、今日はもう9時を回っている。
テーブルの上には冷めた料理がランチパラソルの中に寂しく残されていた。
ロザリアはカモミールティを淹れると、ダイニングの椅子に座った。
優しい香りのハーブが眠りに誘ってくれるかと期待したが、その願いはかないそうもない。
連絡もなしに来ない日は今まで一度もなかったのに。
目を閉じると、あふれかえる薔薇の香りがカモミールの優しい香りと混ざり合う。薔薇の香りはとても好き。
でも、誰からでも欲しい花ではない。欲しいのは、たった一人。
ドアをたたく音がして、ロザリアは玄関に走った。

「オリヴィエ!」
嬉しそうに瞳を輝かせたロザリアをオリヴィエは黙って抱きしめる。
長い長い抱擁。いつもより強い力に少し戸惑ってしまう。
「遅くなってごめん。」
「いいんですの。・・・・わざわざ来て下さったのでしょう?お夕食は?」
「ごめん、今日はいいよ。」
じっと、抱きしめられた胸から伝わるオリヴィエのぬくもり。
薄いパジャマ一枚の自分が急に恥ずかしくなって、ロザリアは身をよじった。
それでも、オリヴィエは抱きしめる腕を緩めない。
ロザリアの視界にさらさらと金の髪が落ちる。その耳元でオリヴィエは囁いた。
「今日、帰らないけど、いい?」
ロザリアの心臓がぎゅっと掴まれたように大きく波打った。
唇を開けようとして、声が出なくなる。
優しいキス。背に回された手が熱をもったように熱い。
かすかに頷いたロザリアをオリヴィエは抱きあげた。

ベッドに横たえたロザリアに静かに口づける。
変わらない青紫の睫毛が揺れて、少し唇が開いた。
オリヴィエの舌がロザリアの舌をからめ取ると、初めて交わす激しいキスにロザリアはこわばったように動けなくなる。
全てを奪い尽くすようなキスはもちろん初めてで。
たどたどしく応えようとする唇から首筋へキスを這わせると、ロザリアの体がピクリと動いた。
オリヴィエが左手を服の下から差し入れると、ロザリアから声が漏れる。
手が背中から胸に滑っていくとき、ロザリアの体にザワリとした感触が走った。
オリヴィエの手がふと止まる。
それに気付いたロザリアは無意識にオリヴィエの手を払いのけていた。
「イヤ!」
体を起してオリヴィエから逃れるように、後ずさりしていく。
青い瞳には失意のような、困惑のような、暗い影がにじんでいた。
はだけた前を隠すようにギュッと握られた手は暗闇の中でも白く浮かんで、オリヴィエを拒絶している。
なにも言わずにオリヴィエを見つめた瞳から涙があふれ出した。

ああ、やっぱり、彼女は。

うつむいたオリヴィエが金の髪をかきあげると、いつものように優しい瞳がのぞいた。
嘘をつくのは慣れている。
血が噴き出しそうに痛む胸はまるで自分のものではないようだけど。
ロザリアに悲しい顔はさせたくないから。
「ごめん。もう、しないよ。」
静かに立ち上がったオリヴィエにロザリアは子供のように首を振った。
頬を伝う涙は銀の雫のように綺麗。
拭ってあげたいけれど、手を、触れられない。
オリヴィエはロザリアに背を向けるとため息のように言葉を紡いだ。
「帰らないって言ったけど。それはまた今度にするよ。じゃ、ね。」
靴をはいた音、ドアのしまる音、遠ざかっていく足音。
ロザリアはパジャマを握りしめていた右手を一本一本の指を外すように離した。
左手でパジャマの上から、体に触れる。
オリヴィエが触れた背中。綺麗な指が愛を囁くように滑って、そして。

ロザリアの指先に硬く盛り上がった傷跡が触れた。
背中から胸の下まで、醜くひきつれた大きな傷。
布地の上からでもはっきりとわかる。

知られたくなかった。

パジャマを脱いで見た傷跡は暗闇でもはっきりとわかる。
オリヴィエの手が止まった時、気付かれた、嫌われてしまう、と、そのことしか思えなくて。
傷跡を気にするような、そんな人でないことは分かっていたのに。
一人きりだと実感して、また涙がこぼれた。


人通りのない町のはずれは街灯の明かりだけが灯る暗い夜。
雲に覆われた空は月も星も隠してしまう。
ロザリアは悪くない。
心のどこかで、彼女はまだオスカーを想っているのだろう。
ロザリアとしての彼女が自分を拒んだのだ。なによりも雄弁なその答え。
突然、目の前が靄に包まれたように煙って、オリヴィエは片膝をついた。
膝に当たる冷たい石畳の感触にジワリと冷たい汗が流れる。

そういうことなんだ。

立てた膝に額を寄せるようにうずくまると、不思議に笑えてきた。
しんとした夜の中で笑い声は大きくなって、闇に吸い込まれていく。
顔を上げたオリヴィエの瞳は夜の色に染まっていた。


定時に終わる日、オリヴィエはロザリアの花屋から少し離れた場所で彼女の帰りを待った。
相変わらずオスカーは来ているし、たまにマルセルとランディ、ゼフェルの姿を見ることもある。
オスカーの時、ロザリアは明らかにイヤそうな顔をしていた。
もっとも女王試験のときだって初めはからかわれることを本当に嫌がっていたのだから、先のことはわからない。
いつの間にかオスカーに惹かれていたロザリア。
同じ魂を持つのなら、いつかまた、きっと。
「お待たせいたしましたわ。」
小走りに駆けてくるロザリアはオリヴィエの前で薔薇のように微笑んだ。
オリヴィエはロザリアの手を握ると、ゆっくりと歩き出す。

黄昏のなか並んで歩く二人。
花屋から出てくるロザリアを待っていたオスカーは連れの男を見て思わず息をのんだ。
ロジーがあれほど愛する男を一目見てみたい。そんな気持ちもあったし、つまらない男なら、その場で連れ去ろうと思っていた。
けれど、メイクもメッシュも落としてはいるけれど、その男の顔はどう見てもオリヴィエ。
このところ付き合いが悪くなったと思っていた。女ができたのか、とも。
ロザリアによく似たロジー。
そのロジーの婚約者だという男。それが本当にオリヴィエだとしたら。
偶然だなんて、そんなことがあるのだろうか。
声をかけそびれたオスカーは雑踏の中で立ち尽くした。
行きかう人々の狭間で自分の胸の中で疑念の芽が育っていくのを感じていた。


あれからもオリヴィエはずっと優しい。
拒んだ理由をきちんと話したいと思っても、オリヴィエはあの時の話題を不自然に避けているようにさえ思えた。
一緒に夕食をとって、一日のことを話して、優しい口付けとともに帰っていく。
以前と変わらない時間にロザリアは傷跡のことを話すきっかけを失っていた。
手をつないで帰る途中、隣の子供たちがバタバタと出ていくのが見えた。

「あら、こんな時間からお出かけなんですの?」
ロザリアが声をかけると子供たちはキラキラした瞳を見合わせた。
「今日はね!今から花火大会があるんだよ!」
「あのね、補佐官様の記念なんだって!」
ねーっと二人は笑顔になった。
そう言えば、お客さんたちも口ぐちに今日の夜のことを話していた。
いつもやってくるオスカーも昨日、「明日は仕事があるから君の顔が見れないのが残念だ。」なんて言っていた。
走っていく子供たちを追いかけてきた母親に会釈をするとロザリアはオリヴィエをちらりと見た。
その目が「行きたい!」と言っているようで、オリヴィエは微笑んだ。

「行きたいの?」
「よろしいんですの?」
そう言いながらも、もう心は花火に向いている。
好奇心が強くて、だけど意地っ張りだったロザリア。でもロジーは素直ですぐ顔に出るからよくわかる。
「じゃ、行こう。」
花火大会の場所はよく知っていた。
今日の花火はロザリアの一周忌のために行われる、女王からのプレゼントだったから。
今頃仕事のある守護聖たちは聖殿で大わらわだろう。
嬉しそうにオリヴィエの腕に飛びついてきたロザリアをとがめることもせずに歩きだした。
腕から伝わる彼女のぬくもり。
雑踏を縫うようにして、たどり着いたのはオリヴィエの私邸だった。


「ここは?」
「ん、私の家。ここからならよく見えるから。」
テラスに置かれたベンチに並んで座った。
ロザリアがオリヴィエの肩にそっと頭を乗せる。
オリヴィエはロザリアを抱き寄せた。お互いの鼓動だけが耳に響く優しい時間。
あれから一年が過ぎた。
ロザリアの髪は鎖骨あたりまで伸びて、ゆるくカールしている。
オリヴィエが選んだ紫のリボンが風に揺れた。
混雑した町から離れて、辺りはしんと静まり返っている。
話をするなら今しかない。
「あの、オリヴィエ。」
「なあに?」
オリヴィエの左手が髪に触れる。細い指が黒い髪を巻いた。
「この間のことですけれど・・・。」

ドーン、と大きな音が響いてすぐに細い火が上った。
夜空に大きな花が開いて、色とりどりの鮮やかな火花が次々と光っては消えていく。
大きく眼を見開いて空にくぎ付けになるロザリアをオリヴィエは静かに見つめた。
一瞬で消える花火よりも、ただ彼女を見ていたい。
ロザリアの白い顔に花火の色が映っては色を添える。

綺麗だね。この花火よりも。

しばらく花火をじっと眺めていたロザリアの目が不意に閉じると、肩に乗せていた頭が下がっていった。
「ロジー?!」
白い顔がさらに血の気を引いたように青白くなっていた。
何度も声をかけながら揺すっても目が開くことはない。耳を胸にあてると、鼓動は正常で呼吸もしている。
オリヴィエは倒れたロザリアを抱きかかえると、寝室のベッドへと運んで行った。


ロザリアが目を開けると、豪華な天井の模様が目に入った。
「オリヴィエ・・・。どこ?そばにいてほしいんですの・・・。」
不安になって体を起こすと、すぐそばにブルーグレーの瞳があった。
右手を握ったまま、オリヴィエがロザリアの顔にかかる髪を耳にかける。
「目が覚めたんだね・・・。心配したよ・・・。」
オリヴィエの端正な顔には疲労の色が濃くにじんでいた。握られた手に力が込められたことが分かる。
ロザリアの頬を細い指が滑った。
「丸二日も目を覚まさなかったんだよ?・・・おはようのキスをしてもいい?」
ロザリアは微笑むと静かに目を閉じた。まだ花火の残像がまぶたの奥に残っているような気がする。
オリヴィエの唇が触れて、すぐに離れると、そのまま、両腕で抱きしめられた。
「なにもなくて、よかった。」
目の前で、金の髪が震えていた。

誰よりもわたくしを愛してくれている、たった一人の人。

「オリヴィエ、髪を切りたいんですの。」
「髪?なんで?」
こんなときに? と、不思議そうな顔をしたオリヴィエにロザリアは自分の髪をひっぱった。
「寝ているときに髪が首に当たるのがくすぐったくて。まだ、しばらく寝ていなければならないのでしょう?イヤなんですの。」
確かにくるりとカールした髪はふわふわと毛先を遊ばせている。
「わかったよ。ちょっと待ってて。」
手にハサミを持ったオリヴィエが尋ねた。
「どれくらいに切る?」
「そうですわね。一年前と同じくらい、短くしたいですわ。シャンプーも楽でしたもの。」
くすりと笑ったロザリアの頭がすぐに軽くなった。
耳の少し下で切りそろえられた髪を鏡で見て、にっこりと笑う。
「どうかしら?似合いますでしょう?」
自信ありげなロザリアの言葉にオリヴィエも笑った。


馬車を呼んで家に戻るとオリヴィエはロザリアをベッドに寝かせて言った。
「しばらくベッドで過ごすこと!いいね?」
つまらなそうにしたロザリアの額をこつんと弾く。
「そんな顔すると、ご飯作ってあげないよ?」
「え!作ってくださるのですか?」
ロザリアはベッドのふちに下ろしてかけていた足を素早く元に戻すと、布団をかぶった。
青い瞳が布団のふちから覗く。
「いい子だね。・・・待ってて。」
オリヴィエはキッチンに向かうと紅茶を淹れた。
彼女の好きなダージリン。
独特な香りがキッチン中に広がった。
「これでも飲んでて。」
手渡したカップはブルーの小花が描かれたいつものティーカップで。
「おいしいですわ。」
ロザリアの素直な笑顔にオリヴィエは息がつまる。
懐かしいような柔らかな青い瞳が見つめていた。
その瞳に戸惑いながらもオリヴィエは無理に視線を外して食事の支度を始めた。

「これは、なんですの?」
「おかゆ、っていうらしいよ。病人が食べるもんだって、知り合いに聞いたんだけど・・・。」
ルヴァに聞いたレシピ通りのはずなのに、スープボウルの中のどろりとした微妙なものはなんだかまずそうに見える。
「まあ、食べてみてよ。・・・その前に。」
スプーンを持ってふうふうと息を吹きかけたオリヴィエにロザリアは目を丸くした。
「イヤですわ。そんな子供みたいなこと。」
オリヴィエはスプーンをロザリアの口元まで持ってきた。
「はい、あーんして。」
「え?」
オリヴィエを見ると、まじめな顔でスプーンを持っている。
ロザリアが観念したように口を開けると、口の中にトロッとしたスープのようなものが入ってきた。
「・・・意外ですけれど、おいしいですわ。」
オリヴィエが当然!という表情で次の一口を運んできた。
小鳥のように少しづつではあったが、ロザリアはボウルを完食した。
やはりまだ少しだるいような気がして、目を閉じるとすぐに眠気が来る。
オリヴィエが片付けを終えてベッドのロザリアを見るともう寝息を立てていた。

「好きだよ・・・。」
あんたの幸せが自分の幸せよりも大切なくらいに。

昼過ぎの眩しい日差しが窓越しに差し込んでくる。
オリヴィエは静かにカーテンを閉じると、ロザリアの額にキスを落とした。


次の日、これ以上休めない、とオリヴィエに宣言してロザリアは仕事に戻った。
おかみさんは3日間突然休んだロザリアを責めることもなく、逆に心配してくれた。
それでも薔薇のケースを軽々と持ち上げる姿に安心したのか、「よろしくね。」と奥に入っていく。
ロザリアは休んでいた間の分、たまっていたアレンジの仕事を片付けるために表に出た。
「ロジー。」
振り向かなくてもわかる。
「君が病気だと聞いて、心配していたんだぜ?」
振り向くとすぐにぶつかるアイスブルーの瞳。ロザリアの胸が大きく跳ねた。
手をとって恭しく口づける姿はまさに深紅の騎士で。
ロザリアは手を振りほどくこともせずにオスカーに預けた。
「申し訳ありませんわ。もう大丈夫ですから。」
オスカーの手が耳に触れた。
「髪を切ったんだな。このほうが似合う。」
甘い言葉は心地よく、見つめてくる瞳は魅力的で。聖地中の女性が憧れる素敵な人というのは間違いのない事実。
ロザリアは胸に甘い何かが広がって、そしてそれを静かに眺めている自分がいることに気づいていた。

また毎日やってくるようになったオスカーにロザリアは5日間我慢した。
「オスカー様。」
ロザリアはオスカーをまっすぐに見た。
青い瞳はかつて愛した人と同じ。
俺はこの強い瞳に弱いらしい。とびきりの笑みをロザリアに向けた。
「もう来ないでいただけませんか?」
きっぱりとした言葉に笑顔は苦笑に変わる。
「怖い顔も魅力的だな。わかった。明日はちょうど大切な用がある。一日会えなければきっと君も俺に会いたくなるだろう?」
「この間も3日間お会いしませんでしたけれど。全くそんな気にはなりませんでしたわ。」
ふっと肩をすくめてもオスカーは立ち去る様子もない。
ロザリアはくるりと回ると薔薇を抱えて店に戻って行った。
後ろ姿を見送ったオスカーは彼女のいた場所に何か落ちているのに気づいて、それを拾い上げた。
これには見覚えがある。
拾ったものを胸のポケットに入れると、オスカーはロザリアに声をかけずに聖殿へ戻った。
歩くたびにポケットの中のものが音を立てる。
オスカーは持て余す感情を抑えるようにポケットに手を当てた。

夢の執務室のドアが突然開くと、オスカーが入ってきた。
「どうしたのさ。」
入ってきたなり、ソファにドサリと座ったオスカーは黙って腕を組んでいる。
オリヴィエも話しかけずに机の整理を続け、さらさらと紙の上をペンが走る音だけが響いた。
「オリヴィエ、今晩付き合わないか?」
もし、誘われなくても、自分から誘うつもりでいた。
どうしても言わなければならないことがある。
「いいよ。私も話したいことがあったから。」
「すまないな。」
オスカーがソファから立ち上がった時、腰の剣が音を立てた。
彼女のことを知ったら、この剣で斬られるかもしれないな。
オリヴィエの頭にふとそんなことがよぎった。


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