Myosotis alpestris


6.


「ロジー!」
マルセルの声がして、ロザリアは薔薇の入ったケースを冷蔵室に戻した。
この頃はアレンジも少しだけやらせてもらえるようになっている。
今も注文を受けたアレンジのバスケットに合わせた薔薇を選んでいる最中だった。
上品な感じがいい、と客の評判も上々でロザリアは嬉しかった。

「いらっしゃいませ。マルセル様。」
片手に薔薇を持って礼をしたロザリアをマルセルはにっこりと見つめた。
初めはロザリアに似ていることが気になって話しかけたけれど、この頃はロジー本人がとても好きになっている。
「今日はね、この前の種が花を咲かせたから、家に見に来てほしいと思って誘いに来たんだ!この後は空いてる?」
「もうそんなに?」
マルセルがパンジーを種から育てると言って買ってから、いつの間にかそんなにも日が経っていたことに驚いた。
「そうだよ! もう3カ月だからね。やっと花が咲いてきたところなんだ。」
まるで自分の子供のように育ててきた花を見せたいというマルセルの気持ちはよくわかる。
オリヴィエの顔がちらりと浮かんだが、そう遅くなることもないだろう。
「このアレンジが終わるまで、お待ちいただけますか?」
マルセルが外に花を見に行くと、ロザリアはアレンジを進めていった。

薔薇にハサミを入れるたびに、なにか胸がもやもやとする。
マルセルの家。
なぜかセンス良くまとめられたガーデンが頭に浮かんでくる。少し大人の遊びが感じられる庭。
ワインの瓶が花壇のふちに並べられていたあの庭はどこだろう。
ぼんやりしていたせいか、鋭い棘で指を傷つけた。
ロザリアはその小さな痛みを心の片隅に押しやるとなんとかアレンジをつくった。
二人で花屋を出ると、マルセルの私邸まで歩いていく。
少し伸びた影が二人の前で並んでいる。

「同じくらいだね。」
ふふっと笑うマルセルにつられてロザリアも微笑んだ。
「入って。こっちだよ。」
アーチ形の門をくぐると一面に広がるガーデン。
見たことがある。
ロザリアは頭の中に流れ込んでくる景色に目を伏せた。
きっとこの向こうに薔薇園がある。
お茶を淹れにマルセルが中へ入っていくと、ロザリアは引き寄せられるように庭の奥へ足を踏み入れた。
薔薇の香りが強くなってくる。

塀の向こうで馬のいななく声が聞こえた。
裏手に当たる薔薇園は聖殿からは一番近い入口になる。
すでに帰宅したマルセルを追ってきたオスカーは馬を下りると書類を手にした。
どうしても今日中に返事がほしい書類をジュリアスから預かってきたオスカーは、マルセルの名前を呼びながら庭に足を踏み入れた。
むせかえるような薔薇の香り。
彼女を思い出すその香りは今のオスカーには疎ましい。

早足で通り過ぎようとした白薔薇の中に、彼女がいた。
足音に顔を上げたロザリアは自分を見つめる氷青の瞳に気付いて動きを止めた。
薔薇の中の青い瞳。
オスカーは走り寄ってその瞳を抱きしめた。
「ロザリア!」
腕の中の彼女は以前と変わらない暖かさで。オスカーは右手で彼女の頭を胸に押さえつけるように力を込めた。

「ロザリア・・・。」
彼女の感触に息が止まりそうになる。
抱きしめた時に香る薔薇の香り。探し続けた彼女のぬくもりにオスカーは我を忘れた。
離れようともがく彼女はロザリアと同じ声で言った。
「お放しくださいませ。誰かとお間違えですわ。」
耳に入った言葉に腕を緩めると、彼女はロザリアと同じ瞳でオスカーを睨みつけた。
彼女の顔を縁取る黒い髪。肩先でゆるくカールした髪が風に揺れる。
その瞳はオスカーを見知らぬ男だと告げていた。

「すまない。・・・君があまりにも、俺の恋人だった女性に似ていて。」
素直に謝罪したオスカーをロザリアは距離を取りながら見つめた。
赤い髪。鋭いけれど甘い氷青の瞳。
ドキン、と胸が大きな音を立てた。
「俺はオスカー。炎の守護聖だ。君は?」
オスカー。その声も名前も心を溶かしてしまいそうになる。
「わたくしは・・・。」

「あ!オスカー様!ロジー、その人はすっごく危ないから近付いちゃダメ!」
マルセルが大声を上げながら近づいてきた。
「オスカー様は可愛い女の子なら誰でも手を出すんですね!でも、ロジーはダメ!僕の友達なんだから。」
二人の真ん中に立ちはだかったマルセルに苦笑したオスカーは手に持っていた書類を渡すと用件を告げた。
ペンを取りに再び中へ戻ったマルセルが消えると、また二人が取り残される。

オスカーはロザリアの横顔を見つめた。
似ている、なんてものじゃない。
「ロジー。君は花屋で働いているんだろう?」
再び合わさる視線。
「ええ。なぜご存知ですの?」
「マルセルとは仕事仲間なのさ。君のことも聞いている。」
まあ、と見開いた瞳が柔らかく微笑んだ。笑顔の印象は少し違う。
「本当にすまなかった。・・・本当に間違えたんだ。それくらい君は似ている。」
つらそうに顔をゆがめたオスカーは、きっと自分に似ていた女性を愛していたんだろう。
ロザリアは突然抱きしめられたことを、もう許している自分に気付いた。
なぜだろう。彼を見ていると心がざわめく。
白薔薇の中で物思いに沈んだロザリアをオスカーは静かに見つめた。
凛と立つ彼女は同じ気高さで、辺りの薔薇を圧倒する。
失ったロザリアと同じ気高さで薔薇の名前を持つ女性。
惹かれないはずがない。
落ちた花びらを拾い上げる細い指。
優雅に頬笑みを浮かべた唇。
全てがロザリアに通じている。

「すみません、オスカー様、お待たせしました!」
マルセルの姿にロザリアの視線が移る。
自分を一度も見ようとしない。そのことが彼女がロザリアではないことをオスカーに嫌というほど知らしめる。
オスカーの胸がねじれたように痛くなった。
どんな女性でも自分の方を向けさせて見せる。・・・彼女であれば、なおさら。
オスカーは書類を受け取ると、聖殿に戻って行く。
塀の向こうで馬が鋭い声で啼いた。


「この薔薇を全部くれ。」
オスカーが店にやってくるのは決まってロザリアの仕事が終わる1時間前。
「花がなくなれば、君の仕事は終わりだろう?俺と話をしてもいいよな?」
初めて店に現れたのはマルセルの薔薇園で会った次の日。
そう言ったオスカーにおかみさんは苦笑しながらも、
「オスカー様に言われたら仕方ありませんね。薔薇はどうなさいますか?」
オスカーがウインクすると、おかみさんまで赤くなっている。
「彼女が持って帰るから、包んでおいてくれ。」
しばらくして渡された花束にロザリアは困惑して言った。
「会ったばかりの方にこんな高価なものを受け取るわけには参りませんわ。どなたかもっと親しい女性にプレゼントなさってはいかがでしょうか?」
「美しい女性にプレゼントをしたくなるのは男なら当然だろう?君と親しくなりたい。その理由では不十分か?」
見つめてくる氷青の瞳からロザリアは目をそらした。
なぜか、彼のひとつひとつが心を揺らす。
誰を見たときにも感じなかった、こみ上げるような不思議な気持ち。
例えるなら、大切にしていたお気に入りのぬいぐるみを久しぶりに見つけた時のような懐かしい気持ちがする。
そんな思いで、初めに受け取ってしまったのがいけなかった。
それから当然のように毎日やってくるようになったから。

二人はアレンジを待つ客用のテーブルセットに座った。
傾きかけた日差しがオスカーのピアスにきらりと反射して、ロザリアは目を細めた。
「今日はどんな話をしようか?・・・俺がここへ来た時の話なんてどうだ?」
長い脚を組んでゆったりと座るオスカーは確かに素敵で、たいていの女の子ならたやすく恋に落ちるかもしれない。
でも・・・。
もっと素敵な人をわたくしは知っている。
「あの、オスカー様。今日で10日になりますわ。そろそろわかっていただきたいんですの。」
「なにをだ?」
ロザリアはふう、と短いため息をついた。
「わたくしには婚約者がいますの。ですから、こうして来ていただいてもなにもおこりませんわ。」
「まだ、結婚したわけじゃない。そうだろう?」
テーブルに右腕を乗せて、斜めからロザリアを見たオスカーになぜかドキッとした。

「初めて見たときから運命だと思った。俺は自分の勘を信じている。」
「・・・あなたは死んだ恋人の面影をわたくしに見ているだけですわ。」
マルセルから聞いていた。
自分に似た女王補佐官。オスカーの恋人だった女性。
オスカーの瞳が一瞬揺れた。
「初めはそうだったかもしれないな。彼女は俺にとって忘れられない人だ。でもな、今は君と彼女の違うところを探している。君を知りたいんだ。」
オスカーの瞳がロザリアを捕らえようとする。
また不思議な感覚がして、ロザリアは息をのんだ。
以前にも感じた甘い胸のうずき。
その時、掛け時計の音が勤務終了の時刻を告げた。
ロザリアは会釈をして立ち上がると、おかみさんから薔薇の花束を受け取る。
「では、失礼いたしますわ。彼が来ますの。」
オスカーに向けられた微笑みは淑女の笑みでそれ以上引き留めさせてはくれない。
花束を抱えて悠々と去っていくロザリアの後ろ姿をオスカーは苦笑して見ていた。

ロザリアに追いついたオスカーは彼女が持っていた花束をひょいと取り上げた。
「君の家まで届けよう。」
一瞬オスカーをちらりと見たロザリアは何も言わずまっすぐ歩いていく。
素早く前に回り込んだオスカーにロザリアは仕方なく足を止めた。
オスカーの長い影がロザリアの上に落ちる。
「なんですの。配達は不要ですわ。でしたらどこかへお持ちになってくださいませ。」
「君に渡したいんだが。」
「結構です。」
花をはさんで押し付け合う二人を見たオリヴィエは息をつめて建物の影に隠れた。
早く終わったから、と花屋まで迎えに来てみたら。

なぜ、あの二人が。

言葉は聞こえない。甘い雰囲気でないこともわかる。それでも二人が一緒にいることが信じられなかった。
オリヴィエはじっと自分の作る影を眺めた。
夕方の忙しい街に流れる雑踏すら耳に入らない。全ての色が失われる視界。

運命はやはり二人の間にあるのだろうか。
私はただ、彼女を愛しているだけなのに。

強引に押し付けられた花束を抱えてロザリアが歩き出す。
ロザリアを見つめるオスカーの瞳はいつか見たときと全く同じで、オリヴィエの胸に突き刺さった。
ロザリアはどんな顔をしているのか、花束と西日が作る陰影でわからない。
オリヴィエは目を閉じて壁にもたれた。
渡したくない、と初めて生まれた感情が渦巻く。
愛されることを知ってしまった後、再び失くすことを選べない。
カツ、と石畳をヒールが蹴ると、やけに大きく響いたその音に胸が痛んだ。


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