マゼンダに溶ける

1.

きらびやかなシャンデリアの下、差し出された手を恭しくとり、フロアの中央に進み出る。
見事な体躯と鮮やかな緋色の髪に会場中の視線が集まるが、彼はそれを慣れたもののように軽く受け流し、女性の腰を抱き寄せた。
二人が身体を寄せあうと、音楽が流れ出し、ステップが始まる。

「お上手ですのね。」
余裕の笑みが口元に浮かぶところを見ると、彼女はおそらく人妻なのだろう。
まさに触れなば落ちんの熟した果実と言ったところか。
大きく開いた胸元がステップのたびに、男を誘うように妖しく揺れ、あきらかに意図を持って身体を寄せてくる女。
誘惑されてみるのも一興か。
オスカーはくすりと笑いながら、彼女の身体をターンさせた。

華やかな香水と人々のざわめきに満ちた空間。
ひと時の夢を見せてくれる、仮面舞踏会。
顔半分を覆うマスクのせいなのか、誰しも常よりも大胆にふるまい、危険な夢に満ちている。

本来ならば、足を踏み入れるはずもない場所だが、以前、執務の一環でこの地に潜入して以来、世話になった地元の名士からシーズンになると必ず招待状が届くようになっていた。
タイミングが合わず、ここ数年分は欠席していたが、今回は聖地で重要な案件を控えているおかげで身体が空いていた。
守護聖全員が聖地外に派遣されるという、いまだかつてない事態。
オスカー自身もその任務がなんなのか、現時点では全くわからない。
ジュリアスにそれとなく尋ねてみても、はぐらかされてばかりなのだ。
ただ、彼の様子からも、事態がただならないことは予想が付く。
…おそらく相当の危機を伴っているのだろう。
その任務前のちょっとした息抜きとして、オスカーはこの舞踏会の招待に応じたのだった。

軽やかなダンスは続いている。
フロア中で公然と繰り広げられる男女の駆け引き。
貴族の避暑地として有名なこの地域のシーズンも、最終日を迎えようとしている。
舞踏会が終われば、人々は次々と元の生活へと帰っていくのだ。
仮面を外すように、いつもの世界へと。

「ねえ、この後、あちらで飲み直しませんこと?」
女性は小首をかしげ、オスカーの瞳を覗き込んでいる。
彼女のいう『あちら』とは、奥の小部屋のことだ。
広い屋敷の大広間の奥には長い廊下があり、廊下を挟むようにして、いくつもの小部屋が並んでいる。
目をつけた相手とダンスを踊り、小部屋に誘えば、あとは自由時間。
秘密の情事を重ねるのが、この手のパーティの定石なのだ。

仮面越しの彼女の瞳は淡いとび色で、光によっては金色にも見える。
その肉食獣のようなきらめきを、オスカーは嫌いではない。
欲望を見せてくる相手は気が楽だ。 …こちらもそれだけで対処できる。

「そうだな。」
今夜はもう収穫がなさそうだとオスカーも感じていた。
パーティも半ばを過ぎ、ちらちらと小部屋に消えるカップルや、そこから戻ってきて、また新しい相手を探す男女が目立ち始めている。
さっきからダンスを踊りながら、誘われ続けたオスカーは、もう断ることにも疲れてきていた。
今もまだ、オスカーの背中には、たくさんの秋波が送られていて、ダンスが終わるのを今か今かと待ち構えている空気を感じる。
今の相手は十分に魅力的だし、後腐れもなさそうだ。
オスカーが、彼女の腰をぐっと抱き寄せ、耳元に声を落とそうとした瞬間、視界の隅に人影が横切った。

蒼いドレスの女性。
ただそこにいるだけなのに、彼女は他の誰とも違う雰囲気をまとっていて。
目が…離せない。

「ねえ?」
ねだるような女性の声に、オスカーは我に返ると、すっと身体の距離をおいた。
ちょうど音楽が終わり、周囲のパートナーが入れ替わり始めたところだ。
女性は改めてオスカーの袖を引くと、さらに誘いをかけてくる。
媚びる目と摺り寄せられる胸のふくらみ。
「いいわよね?」
けれど、オスカーはその手をそっと外すと、わざと恭しく礼をとった。
マナー通りの距離感を保ち、当たり前のように、女性を手を次の男性へと移す。
「ちょっと…!」
女性の抗議の声は、新たに流れ始めた音楽に消え、オスカーはその場を立ち去って行った。


「どこに行ったんだ…。」
蒼いドレスの女性が立っていた場所まで、大股で歩み寄ったオスカーは、辺りを見回した。
すでに彼女の姿はそこにはなく、かといって、ダンスフロアにも見当たらない。
ふと、風を感じて、視線を向けると、テラスへの大窓が開いていた。
テラスから続く中庭もまた、いつもと違うシチュエーションに燃える、かりそめの恋人たちの秘密の場所になっているのだ。
もしかして、すでに彼女は相手を見つけ、テラスに降りたのだろうか。
持て余すような焦燥感を抱え、オスカーはテラスへと降りていった。


手入れの行き届いた中庭は、広大な敷地があり、刈り込まれた植木が整然と並ぶ庭園だった。
真っ直ぐに伸びた中心に噴水があり、その噴水からまた扇形に小道が続き、細かな区画を作っている。
区画ごとにテーマが違う様式は最近流行りのスタイルで、この屋敷の持ち主の名士がかなりの資産家であることをうかがわせた。
もっとも植え込みの意味は、こういったパーティの時に真価を見せる。
ようするに人目につきにくいのだ。
がさがさと不穏な葉擦れのする区画を通りながら、オスカーは苦笑を浮かべた。
彼女がこのあたりにいるとすれば、用件は一つしかない。
それを見つけて、どうするつもりなのか。
いずれにしても野暮な結果でしかないことはわかりきっている。
歩くたびに冷静になる頭が、引き返して、それなりに楽しめばいいと囁いてくる。
その提案に従ってしまおうと、踵を返したところで、オスカーは足を止めた。

小道の向こうの東屋に彼女がいる。
月に溶けるようなブルーを身にまとい。
美しく、儚げで。
それでいて、真っ直ぐに背筋を伸ばして凛と立つ姿は雄々しくもあり。
まるで月の女神だ。

「どなた?」
石畳を穿つオスカーの足音に気が付いたのか、彼女が顔を上げた。
その顔は黒いマスクに覆われ、どんな表情をしているのか、全く分からない。
風にふわりと舞い上がる長い髪とシフォンのドレスの裾。
手を伸ばしたら消えてしまいそうで。
オスカーは慎重に彼女に歩み寄った。

「貴女に引き寄せられた哀れな蝶…だと言ったら?」
「まあ。」
くすっと楽し気に彼女が笑う。
思ったよりも若い声だ。
「真っ赤な羽だなんて、とても珍しい蝶ですわね。」
彼女の視線がオスカーの髪で止まり、触れようとするように手を伸ばす。
オスカーはその伸ばされた手を取ると、彼女の身体を引き寄せ、胸にと抱き込んだ。
柔らかく暖かい身体に、彼女が生きた人であることを実感する。
彼女はわずかに体をこわばらせた後、オスカーの胸に寄り添うように額をつけた。

彼女が何者かなんて、どうでもよかった。
女神のふりをした悪魔でも。

空いていた奥の小部屋のベッドで彼女を組み敷き、浮かされたように唇を重ねた。
呼吸の合間に、もどかしくマスクを取れば、予想以上の美貌が現れる。
白磁の肌に、夜空よりも煌めくサファイヤの瞳。
まだあどけなさすら残る乙女のような素顔に、オスカーは感嘆のため息をこぼした。

「君の名は?」
口づけの合間に尋ねれば、
「…ヴィオレッタ。」
迷うように答えが返ってくる。
「ヴィオレッタ…。 君にふさわしい名だな。」
シーツに広がる紫の髪を一房とり、そこに唇を落とした。
「あなたは?」
「俺は…。」
オスカーは言いかけて、一瞬、言葉を飲み込んだ。
「…オリバーだ。」

咄嗟にオスカーはこの地で使っていた偽名を告げた。
執務に当たるとき以外は、本名や守護聖であることは知られてはいけないという規則があるからだ。
「オリバー。 素敵な名前ですわね。」
確かめるように彼女はオスカーの背に手を回した。
オスカーは言葉を塞ぐように、深い口づけを繰り返す。
彼女の口から別の男の名を呼ばせることに、言いようもない胸の痛みを感じていた。

熱を帯びた口づけを彼女の全身へと落としていく。
全く抗う様子もなく、オスカーに身を委ねる彼女の姿に、見かけよりも慣れた女なのだと、わずかな失望感を抱いた時。
「ん…。」
身を進めたオスカーは、彼女の中にわずかな抵抗を感じて動きを止めた。
思わず見下ろした彼女の顔は、快楽に悦んでいるというよりも苦痛に耐えている。
「まさか、君は…。」
ふと、オスカーが力を緩めると、彼女は閉じていた目を開き、オスカーをまっすぐに見つめた。
「お願い。 最後まで…わたくしを奪って。」
縋るようにオスカーの腕を掴む、彼女の細い指。
ずっと感じていた違和感の理由にオスカーはようやく納得していた。

無垢な少女だったからこそ、駆け引きもなく、オスカーに身をゆだねていたのだ。
なにか理由があるのだろう。
その理由はもちろんわからないし、わからなくてもいい。
ただ、それが彼女の願いならば、オスカーは受け入れようと思った。

「あ…。」
オスカーは身体を倒し、唇を重ねると、そのまま一気に自身を押し進めた。
ぶつり、と何かが弾け、彼女の背が大きく反る。
彼女の抱える重荷を共に抱えられたなら、と、オスカーはその身体を抱きしめた。

嵐のような時間が過ぎ、二人は互いの背に腕を回しながら、ベッドに横たわっていた。
離れがたいのは、おそらくどちらもだ。
けれど、時は確実に過ぎて、かすかに聞こえてくるダンスホールの曲が終わりを告げるワルツへと変わっている。
すっと腕の中の彼女が手を伸ばし、オスカーの髪に触れた。
柔らかく髪を梳く、細い指。
そう言えば、東屋でも、彼女はオスカーの髪に惹かれていたような気がする。

「赤が好きなのか?」
「…わたくしには無い色だから。」
たしかに彼女は青だ。
彼女の持つ色も、彼女の纏う雰囲気も、全てが青い。
優しく髪を梳く彼女の手は心地よく、オスカーはなすがままに任せていた。

「今まであなたが止まった花はどれくらいあるのかしら?」
問い詰めるような口調ではないが、どこか真剣な声にも聞こえる。
彼女の真意がわからずに、
「さあ? 数えたことなどないな。」
軽く応えると、
「…わたくしは、他の花と比べて、どこか違うところがあって?」
いつの間にか彼女の手は動きを止めていて、青い瞳がオスカーを見上げていた。

今までもベッドの中で何度も同じようなことを聞かれてきた。
『私だけよね?』『私は今までの女とは違うわよね?』
いつだって彼女たちは、オスカーの過去の女の中で特別な存在になりたがった。
オスカーは比べたことなど一度もないのに。

「そうだな…。」
『君は特別だ』と、いつものように言いかけて、オスカーは彼女の瞳が揺れているのに気が付いた。
何かを必死で堪えているような、そんな不安げな光。
オスカーは紫の髪の中に手を入れ、そっと彼女を抱き寄せた。
「なにも違うところなどないさ。 君も同じ、美しい花だ。」
柔らかな髪を指に絡めながら、背中を撫でる。
すると、こわばっていた彼女の身体から次第に力が抜け、互いの素肌がぴったりと重なり合った。

特別じゃない事を望む彼女。
…それを寂しいと思うのはオスカーのエゴかもしれない。

やがて、舞踏会の終わりを告げる鐘が鳴り響く。
彼女は背中に回されていたオスカーの腕をそっと外すと、するりとベッドから抜け出した。
目を閉じたオスカーを眠っていると思っているらしい。
柔らかな髪が頬をくすぐったかと思うと、彼女の顔が近づいてくる気配がする。
別れのキスでもくれるのか、と目を閉じたままでいると。
「ありがとう。」
一言だけを告げて、足音は遠ざかっていった。

一夜限りの情事なんて、珍しくもない。
それこそ数えきれないほどの花を愛してきた。
それなのに。
初めて感じる胸の空虚感に、オスカーは彼女の残り香を噛みしめていた。


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