2.
聖地に戻るとすぐに、オスカーはジュリアスから呼び出された。
「女王試験…ですか。」
「そうだ。」
話には聞いたことがある。
現女王選出の際にも行われ、任期の長い3人は、その時も立ち会ったはずだ。
それにしても現女王が即位してまだ数年。
あまりにも早い…。
「考えるな。 オスカー。」
ジュリアスの声がオスカーの思考を断ち切る。
「我々にできることは、女王の意思に沿い、宇宙を安寧に導くことのみだ。」
守護聖の責務はよくわかっている。
オスカーはさっきまでの考えを消去して、ジュリアスに向き直った。
「頼りにしているぞ。 オスカー。」
「はい。」
女王候補は二人。
試験開始の日に、謁見の間に現れた少女を見たオスカーは、驚きのあまり言葉を失った。
金の髪のアンジェリークと、もう一人。
青い瞳をもつ少女は、スカートを摘まむと、優雅な淑女の礼をとる。
「ロザリア・デ・カタルヘナと申します。」
完璧な所作は、名家の令嬢らしい。
礼の後、守護聖を見回したロザリアは、オスカーの顔を見て、一瞬、目を見開いた。
驚きと困惑。
その中に、ほんの少しの喜びを感じ取ったのは、オスカーの気のせいだろうか。
けれど、ロザリアはすぐに平然とした無表情に戻り、ディアやジュリアスの話に耳を傾けている。
オスカーはそんな彼女の姿を、暗い影を宿した瞳で見つめていた。
夕方、オスカーは女王候補たちが暮らす候補寮へと向かった。
ディアやアンジェリークと共に飛空都市を見て回っていたロザリアも、そろそろ帰ってきているはずだ。
ばあやを通して、面会の意思を伝えてもらうと、ロザリアは明らかに渋々と言った様子で、オスカーを部屋に通してくれた。
「お茶はいらないから、しばらく二人きりで話をさせてくれ。」
部屋から出て行こうとしなかったばあやを、あっさりと追い払うことができるのも、守護聖の肩書のおかげだろう。
ただの男であれば、大切なお嬢様と部屋で二人きりにさせたりなどしないはずだ。
洗練された調度品が揃えられた部屋。
聖地から用意されたもの以外にも、彼女は多くを持ち込んでいるらしい。
主星でも1、2を争う名家のお嬢様なのだから不思議はないが、彼女に似合うブルーで統一された部屋は、どこか寒々しい印象もあった。
「何の御用でしょう?」
ロザリアはつんと顎を上げ、オスカーを睨み付けている。
オスカーはニヤリと笑うと、彼女の腕を引き、胸の中へと抱き寄せた。
「な・・・!」
ロザリアがなにか言うよりも早く、唇を奪う。
懸命に抵抗して、オスカーの胸を叩いていたロザリアだったが、キスが深くなるにつれて、身体から力が抜けるように大人しくなっていった。
長いキスの後、
「ヴィオレッタ。」
唇を離して囁けば、ロザリアは我に返ったように、オスカーの胸を強く押し、
「わたくしはロザリアですわ。」
きっぱりと言い切る。
キスの余韻で潤んだ瞳と真っ赤になった頬。
そんな顔でいくら睨まれたところで、オスカーにしてみれば、可愛い子猫にしか見えない。
「俺は一度でもキスをした女を忘れることはないんだ。」
ニヤリと笑って、彼女の顎を持ち上げる。
「な…!」
言い返そうとするロザリアに顔を近づけ、唇が重なる寸前で止めた。
「この唇、あの夜のヴィオレッタだ。 そうだろう?
違うというなら、もっと別の場所に聞いてみてもいいんだが。」
すっとロザリアの腿へと手を滑らせると、途端に彼女の身体が固まる。
ふう、と大きく息を吐き出したロザリアは、さらに強い力でオスカーの身体を押しのけると、一歩後ずさって、距離を取った。
「わたくし、オスカーなんて方は存じておりませんわ。」
精一杯の抵抗だろう。
腰に手を当てて、ふんぞり返る様は猫が背中の毛を逆立てているようで面白い。
「ほう、では、誰なら知っているというんだ?」
わざと彼女の前で緋色の髪をかき上げてみせる。
「君はその男と何をしたんだ? 教えてくれるか?」
「そ、それは…。」
ロザリアはジリジリ後ずさる。
もう一押しでボロを出すのは確実だけれど、オスカーはそれ以上の追求を止めた。
彼女が認めようが認めまいが、結局は…同じことなのだ。
急に黙り込んだオスカーに、ロザリアはソワソワと落ち着かない様子でいる。
オスカーはふっと唇に笑みを乗せると、
「応援してるぜ。 お嬢ちゃん。」
「お、お嬢ちゃん?!」
ロザリアの頭にポンと手を置いた。
そして、唖然としているロザリアを残したまま、部屋を後にする。
しばらくして扉の向こうのロザリアが
「お嬢ちゃんだなんて! わたくしにはロザリアという名前がありますわ!」
やっと言い返してくる声が聞こえたけれど、オスカーは引き返すことはしなかった。
ヴィオレッタ。
もう一度、会いたいと願っていた女性。
あんなことなどしなくても、一目見た瞬間、オスカーはロザリアがヴィオレッタだと確信していた。
高慢なお嬢様を装っていても、彼女の魂はあの日と同じ。
凛としているのに儚くて、オスカーを離さない。
なぜ名を偽ったのか。…なぜ、あんなことをしたのか。
彼女なりの理由があるのは間違いないけれど。
女王候補としては…出会いたくなかった。
オスカーは自嘲の笑みを浮かべると、薄闇に包まれ始めた候補寮を見上げたのだった。
女王試験も半ばを過ぎた、とある日の曜日。
オスカーとロザリアを含めた数人は、森の湖にピクニックに来ていた。
オスカーが誘いをかけても、二人きりだとロザリアから断られてしまう事が多い。
あのことで警戒されているのはわかっていたし、オスカーとしては別に二人きりでなくても構わなかった。
彼女を外に連れ出すことができれば、それでいい。
だからアンジェリークを経由して、大勢で出かけることが必然的に増えてしまっていたのだ。
この頃はアンジェリークもよくわかっているようで、オスカーが誘うと、
「はい! ロザリアも一緒にですよね!」
と、にっこり笑ってくれる。
無理にでも誘い出さなければ根を詰めて、勉強ばかりになるロザリアを心配しているのは、アンジェリークも同じだった。
常春の飛空都市は晴天続きで、風も爽やか。
中にいるよりも、外で過ごすほうが気持ちがいいくらいだ。
木陰のシートに座っているアンジェリーク達を横目に、オスカーとロザリアは湖のほとりでワイワイと騒いでいる。
二人の言い争いは、もはや飛空都市で見かけない日はないと言っていい。
周囲から生ぬるい目で見られている事も知らず、二人はここでも言い合いを繰り返していた。
「おっと。」
オスカーの手に握られているのは、ロザリアの帽子。
湖に着いてすぐ、風に攫われてしまったのを、オスカーが咄嗟に受け止めてくれたのは良かったのだが。
「ありがとうございます。」
手を差し出したロザリアをからかうように、オスカーは帽子を自分の頭に乗せていた。
「返してください!」
「怒ると美人が台無しだぜ。 お嬢ちゃん。」
「お嬢ちゃんと呼ばないでくださいませ!」
真っ赤な顔をして睨み付けているロザリアから、ひらりと帽子を躱す。
「オスカー様!」
ロザリアが本気で飛び上がっても、オスカーの頭上には全く手が届かない。
じゃれつく子猫と遊んでいる…と、オスカー自身は思っているのだが、ロザリアは本気で怒っているのかもしれない。
ひとしきりからかうと、オスカーはロザリアの前で膝をついた。
そして、帽子を彼女に差し出すように頭を傾ける。
「…。」
恐る恐る伸ばされたロザリアの細く長い指がオスカーの緋色の髪をかすめる。
ドキリとする間もないほどの一瞬。
ロザリアの手が震えると、オスカーの脳裏にあの時のことが浮かんで来て、その手を掴んでしまいたくなる。
けれど、
「ねえ、あの二人って、なにに見える?」
「…ケンカップル、って言うんじゃないでしょうか?」
「それはどういうことですか~?」
「ケンカしてる風に見えて、いちゃついてるってことでしょ。」
「なるほど~。」
ひそひそと聞こえてくる話し声に、オスカーは立ち上がる。
帽子をかぶりなおしたロザリアも、すたすたと、そのままアンジェリーク達のいる方へ行ってしまった。
「ロザリアったら、またオスカー様とばっかり~。 わたしとも遊んでよ。」
アンジェリークがくすくすと笑って言うと、
「おかしなことを言わないでちょうだい。 遊んでいたわけではなくってよ。」
バスケットからお菓子を取り出して、みんなに振る舞いながら、ロザリアは顔をしかめている。
オスカーが一方的にロザリアに絡んでいるのは事実だ。
彼女は女王候補として、どの守護聖とも平等にふるまっている。
育成でも、所作の点でも完璧な女王候補。
けれど、その完璧の仮面を唯一剥がしてしまうのがオスカーだ。
からかわれて、ついムキになって返してしまうロザリアを、さらにからかって怒らせて。
ロザリアで遊んでいるようにしか見えない。
「あんたもとんでもない奴に気にいられたもんだねぇ。」
お菓子を食べながら、オリヴィエが苦笑する。
「でも、オスカー様といる時のロザリアは、すっごく元気よね。」
「ええ、そう思いますよ~。 楽しそうです。」
「楽しそうだなんて…思ってもいませんわ!」
ふいっと顔を背けたロザリアは、お菓子をぱくりと頬張る。
その仕草が可愛らしくて、ルヴァとオリヴィエは思わず彼女にバレないように俯いて、にんまり笑ってしまった。
「オスカー様もいかがですか?」
アンジェリークが手招きするのに、オスカーは首を横に振り、空を見上げた。
髪にまだ残る熱が引くまで、あと少し。
一人で想いに浸っていたかった。
彼女の手が髪に触れた一瞬。
たしかにロザリアも、あの忘れられない一夜のことを思い出していたはずだ。
女王に恋は許されないという不文律がある。
まだ候補とはいえ、ロザリアは女王を目指しているのだ。
だからこそ、何も言わない。 何も言えない。
初めから何もなかったのだと、そう思わなければいけない。
風がオスカーの赤い髪を薙いで行く。
そのオスカーの横顔を、帽子の影からロザリアがそっと見つめていた。
女王試験は予想に反した結果に終わりそうだった。
初めのうちこそ、ロザリアの圧勝だった建物の数が、じわわじとアンジェリークに追いつかれ、そして、ついに追い越されている。
そのせいか、ここ最近のロザリアは、まさに鬼気迫るという状態が続いていた。
誰からの誘いもすべて断り、アンジェリークとのお茶会もお休み状態になっている。
育成や学習に走り回り、寝る間も惜しんでいる様子が、オスカーにも伝わってきた。
実際、聖殿の廊下ですれ違っても、からかえるような雰囲気ではない。
青い瞳の輝きも疲労でくすんでいた。
「よう、お嬢ちゃん。」
先を行くロザリアに、馬上から声をかけると、彼女は足を止め、淑女の礼をとった。
美しい所作だが、やはりどこか元気がない。
オスカーはロザリアに手を差し出した。
「ちょっと出かけないか?」
「え?」
怪訝そうに首をかしげるロザリアにオスカーはニヤリと笑ってみせる。
「散歩に付き合ってほしいだけだ。 まさか乗れないわけじゃないだろう?」
「…乗れますわ。」
良家の子女であれば、乗馬は嗜みのひとつだ。
ロザリアも生家では自分専用の馬を飼っている。
ロザリアは少し迷って、オスカーの手を取った。
グイ、と力強くその手を引くと、慣れた様子でロザリアは鐙に足をかけ、馬の背に上ってくる。
前に横座りしたロザリアの身体をオスカーは片腕で包み込んだ。
ぴったりとくっついて抱きしめるような形に、ロザリアの身体が硬くなる。
「捕まっておけよ。」
ロザリアが頷いたのを合図に、手綱を引く。
軽い駆け足で馬を走らせると、ロザリアがぎゅっとオスカーにしがみついてきた。
自分でまたがるより不安定で、心配なのだろう。
腕の中にある、柔らかな身体と甘い花の髪の香り。
力を込めたくなるのを堪えて、オスカーはただ前を向いていた。
断崖絶壁の飛空都市の端まで来て、手綱を緩める。
先に降りたオスカーは、ロザリアが飛び降りるのを抱きとめて、ゆっくりと下におろした。
「慣れたもんだな。」
「帰りはわたくしが乗せてさしあげてもよろしくてよ?」
ツンと顎を上げて、可愛げのない言葉を吐く彼女に
「抱きしめてくれるなら喜んでそうするぜ。」
ウインクをして笑ってみせた。
真っ直ぐに崖の方へと向かうロザリアの後を、手近な木に馬を繋いだオスカーが追いかける。
煽るように舞う風に、ドレスの裾がはためき、長い髪が吹き上がった。
ロザリアは、目の前に広がる空のパノラマをまっすぐに見ている。
雲のじゅうたんが流れていき、まるで、自分が空に放りだされているような気がするような、一面の空景色。
途方もない宇宙の中で、人間はなんて小さなものなのかと思い知らされる。
けれど、小さくか弱いからこそ、生きるためにあがくのかもしれない。
「赤は好きですわ。」
ぽつり、とロザリアが呟く。
一瞬、息を飲んだオスカーは、そっと背後からロザリアの身体を抱きしめた。
身体の距離以上に、心が近くなる。
ロザリアは頭をオスカーの胸に靠れかけて、空を見続けていた。
「好きだけれど、ドレスもリボンも赤はもっていませんの。
…青の方が落ち着いていて、女王候補らしいと言われていましたから。」
あの舞踏会の日も、飛空都市で再会してからも、ロザリアは青ばかりを身に着けていた。
彼女の髪にも瞳にも、青は良く似合っていたから、不思議とは思わなかったが。
「わたくしはずっと、『女王候補』として生きてきましたわ。
周りの人は皆、両親でさえも、わたくしを女王候補として扱いましたの。
したいことがあっても、ふさわしくないと諦めさせられて。
何かできても、当たり前だと認められなくて。」
ロザリアの美貌や聡明さは生まれつきだろう。
けれど、知識や教養や礼儀は、あとから身に着けたもののはずだ。
その全てが『女王候補』だからで片付けられたとしたら、それはとても…哀しいことに違いない。
「わたくしは女王候補としてしか存在意義がない。
でも、女王の代替わりは滅多にないことも知っていましたから、いずれは女王候補の立場もなくなると思っていましたわ。
しかるべき時がきたら、婚約者と結婚して、カタルヘナ家を継ぐ。
そうすれば…。」
ただのロザリアに戻れる。
女王候補ではない、ロザリアに。
でも、女王試験は行われることになってしまった。
女王になれば、本当に名前を失い、ただ女王として生きることになる。
「女王試験の知らせを聞いた時…たまらなくなりましたの。
女王になりたくないわけじゃありませんでしたわ。
小さいころから、目指してきたことには誇りを持っていますし、自信もありましたもの。
ただ…
一度だけでも、女王候補ではない、普通の女の子のロザリアになりたかった。」
誰も自分を知らないところへ行きたい。
そう願って、父の伝手で仮面舞踏会にもぐりこんだものの、どうしたらいいのかわからなかった。
時々、誘いをかけてくる男性もいたが、駆け引きのできないロザリアが物足りないのか、すぐに離れていってしまう。
結局、女王候補という肩書がなければ、誰一人近づいてさえ来ない。
少しだけ飲んだカクテルの酔いも気になって、中庭に出たところで会ったのが、オスカーだった。
今思えば、自暴自棄だったのかもしれない。
けれど、彼の前で、ロザリアは一人の女の子になれたのだ。
「ロザリア。」
抱きしめる腕に力を込めて、彼女の名前を呼んだ。
ロザリアが勢いよく振り返ったのは、オスカーが彼女の名前を呼んだのが初めてだったからだろう。
「お嬢ちゃん、でよろしいのに。」
「ロザリア。」
想いを込めて、もう一度呼ぶ。
今ココにいるのは、他の誰でもない。 女王候補でもない。
一人の愛しい女性。
ロザリアなのだと伝えたかった。
女王試験が終わったのは、それから数日後のこと。
第256代女王に選出されたのは、アンジェリーク・リモージュだった。