Someday

1.

シャトルから一歩足を踏み出したルヴァは、地表から伝わる暑さに、思わず下ろしかけた足をためらった。
立ち上る熱気は、昔故郷で感じた熱さとは全く異質なもの。
コンクリで塗り固められた地面は、太陽の熱をそのまま照り返すような無機質な熱さを示している。
地平線まで続く滑走路は、繁栄の証しなのだろうか。
背後に立つ人の苛立ちを感じとって、ルヴァは最初の一歩を踏み出した。
今日から「地の守護聖」ではない。
ただのルヴァとして、新しい時間を生きていかなければならないのだ。

カウンターで荷物を受け取ると、ルヴァはポケットから一枚のメモを取り出した。
走り書きのような文字は、読みとりにくく、ルヴァは何度も瞬きを繰り返す。
「ええと・・。」
いつの間にか声に出していたのかもしれない。
周囲にいた人がいぶかしげにルヴァを見つめている。
誰ひとり見知った顔はいないという事実に、ルヴァはぼんやりとメモを握りしめて立ち尽くした。
これから、どこへ行こうというんだろう。
なに一つ、あてがあるわけでもない。たった一つ行きたい場所にも未来があるわけではない。
異邦人。
目眩がしそうでルヴァはうつむいた。

「ねえ、どうしたの?」
耳に入った声が自分に向けられている、と気づいたのはしばらくたってから。
「気分でも悪いの?大丈夫?」
ぼんやりと視線を下に向けると、見上げる瞳と目があった。
可愛らしい顔にブルーの瞳。
好奇心半分といった表情でルヴァを見つめている。
話し方からすると、少年なのだろう。
まだ10代と思われる子供に心配されるほど、自分は情けない顔をしていたのだろうか。
ルヴァは気の抜けた声で言葉を返した。

「ああ~。なんでもありません~。ご心配をおかけしましたかねぇ。」
「あのさ、こんなとこに突っ立ってると、おかしな人に目つけられるよ?主星は初めて?行くあてはあんの?」
矢継ぎ早な言葉にルヴァは返事ができずに口ごもってしまう。
まったくのんびりした聖地のスピードはこの地と相性が悪いらしい。それをどう思ったのか、目の前の人物はため息をついた。
「とりあえず、お茶でも飲もうよ。あんた、お金持ってる?」
「はい?」
「だってさ、目だった荷物もなさそうだし、日帰りなの?」
「え?・・・・ええーーーーっ!!」
ルヴァは自分の足元を見て、仰天した。
足元に置いておいたはずの荷物は、いつの間にか消えていた。


目の前に置かれたアイスティーの氷が溶けて、水の層をつくる。
ルヴァは困惑した様子を隠そうともせずに、ため息をついてうなだれた。
盗難届を警察に出しに行くのに、わざわざついてきてくれたのだ。
可哀想なおのぼりさん、とでも思っているのだろう。
連絡先を書けずに、まごまごしているルヴァの手から書類をとると、すらすらと住所を書きこんでくれた。
「とりあえず、ボクの家にしとくから。」
『ボク』と言わなければ、女の子でも通用するかもしれない。
鼻歌交じりで書類を提出した彼がルヴァを連れてきたのが、このカフェだったのだ。

「盗られちゃったもんはしょうがないでしょ?金目のモン以外は後で出てくるって。ここは主星だからね。足がつくようなモンには手を出さないのがセオリーだよ。」
アイスティーをストローで混ぜながら目の前の少年はけらけらと笑う。
少し長めの金の髪。
年はゼフェルくらいだろうか。
屈託のない表情はなぜかルヴァを安心させた。
「ああ、コレは可哀想なおじさんにボクからの奢り。だから気にしないで。」
「おじさん・・でしょうか・・・?私、これでもまだ27なんですけどねぇ。」
「あは!そうなんだ!見えないよ!もう30過ぎてると思った。」
おかしくてたまらないといった顔で、ストローをくわえる少年にルヴァは苦笑した。

「ね、あんた、名前は?」
「はあ、ルヴァといいます。」
「ルヴァ?!」
くわえていたストローを離して、少年はじっとルヴァを見つめる。
綺麗な瞳に浮かぶ不思議な色にルヴァは困惑してしまった。
少年が続ける。

「仕事は?」
どう答えるか迷って、
「まあ、その、なんていいますか、自分探しの旅に出ていると言いますか・・・。」
と、もごもごと口ごもりながらそれだけを言った。
実際、何と言えばいいのか分らない。
目の前のアイスティーがまた少し、薄い色になっていく。
「そっか。仕事探してんだ。それじゃさ、今日、行くとこないんだよね。」
「はあ・・・。」
荷物を取られた以上、身分証明書もなにもない。
財布をポケットに入れておいたことだけは、神に感謝してもいいだろう。
「一緒においでよ。ボクもね、家出中なんだ。」
「え?!」
ぽかんとしたルヴァに少年はウインクして答えた。
「ボクはアンジュ。よろしくね。・・・ところで、そのアイスティー、飲まないの?」


一気に飲んだアイスティーがお腹の中でじゃぶじゃぶと揺れる。
のんびりしたルヴァのペースを理解したのか、アンジュもゆっくりとしたペースで先に立って歩いた。
・・・終始飛び跳ねているのがルヴァには今一つ理解できなかったけれど。
古ぼけたビルの前でアンジュは立ち止ると、重そうな鉄のドアを両手で押しあけた。
コンクリート特有の暗い、ひんやりとした空気が建物の奥から流れ込んでくる。
入ってすぐのホールに手すりのついた階段があって、一人の女性が立っていた。

「あら、アンジュ。素敵なお兄さんを連れているじゃないか。」
どことなくグラマラスな感じのする女性は少し鼻にかかったような声で言った。
「ん?この人、迷子なんだ。ボクがね、世話してあげるの。」
まるで捨て猫でも拾ったように聞こえる。苦笑したルヴァを声をかけてきた女性が値踏みするように見ていた。
「ふうん。ま、悪い男じゃなさそうだね。・・・ここの環境に我慢できるならいいけど。」
くるりと向きを変えて階段を上がっていく女性の言葉にルヴァは首をかしげた。
ここの環境に我慢出来る??
周囲を見てもそれほどひどいようには見えない。
むき出しのコンクリ。ところどころハゲかけて錆の浮いた階段の手すり。
ドアがなぜか鉄製なのが気にはなるけれど、むしろ衛生的といえるくらいだ。
「今の人はね。イライザ。ここのお姉さん、まあ、お局かな。」
手招きしたアンジュに促されてホールの奥のドアに向かう。
「ここがボクの部屋。どうぞ。」

部屋中むき出しのコンクリ。
申し訳なさそうに置かれたベッドとテーブル。ビニールのクローゼット。グリーンのラグに真っ赤なクッション。
「座りなよ。」
差し出されたクッションに腰を下ろしたとたんに、天井が揺れるような衝撃を感じて、ルヴァは飛び上がった。
「な、なんですか?」
アンジュは平然とベッドに寝転がる。クッションを抱えて、ルヴァは天井を見上げた。
一瞬の衝撃が収まって、入れ替わりに聞こえてきたのはピアノの音。

「ああ、いい音だね。ボクも合わせようかな。」
鼻歌交じりでベッドの下からケースを取り出したアンジュは、バイオリンを構えた。
流れるような動作でピアノの旋律をなぞり始めると、いつの間にか見事なアンサンブルへと変わっていく。
アンジュが弓を下ろしたとき、ルヴァは思わず手を叩いていた。
「素晴らしいです!あなた方は一体?」
額にうっすら滲んだ汗をアンジュはタオルで拭き取った。
「音楽家の卵。このマンションは全員そんな感じだから。・・・ま、そのうち慣れるよ。」
いそいそとバイオリンをしまうアンジュの頬は音楽の余韻からか少し赤らんでいる。
なんとなくそれ以上聞かずにいると、ルヴァはいつのまにか横になって眠ってしまったのだった。


目を覚ましたのは真夜中。
はっと時計を見たルヴァはその時刻に驚いて瞬きを繰り返した。
コンクリの床の上に寝たせいか、体中が痛い。
それでも、目が覚めなかったのは極度の疲労のせいだろう。
ふと見ると、ベッドの上にアンジュの姿はない。
ユニットバスを借りて顔を洗うと、ルヴァはそっと、部屋を抜け出した。
鉄のドアを開けると、いろんな音が耳に流れ込んでくる。
さっきまでは気付かなかったが、ここには意外にもたくさんの人が住んでいるようだ。
ピアノの音も一つではない。
一番心惹かれる音色に誘われるように階段を上がると、開いたドアの向こうでイライザがピアノを弾いていた。

「どうしたの?」
両手を鍵盤から離したイライザがルヴァの方に向き直る。
「お邪魔してしまってすみませんね。アンジュの姿が見えないものですから。」
ルヴァの言葉にイライザの肩からふ、と力が抜ける。
「あんたってさ・・・。まあ、いいか。アンジュならバイトだよ。」
イライザの指が鍵盤をなでた。たいした力は入っていないように見えて、紡ぎ出す音は正確で美しい。
ルヴァは黙って、イライザの音色を聞いていた。
彼女は見た目よりもずっと繊細で傷付きやすい心を持っているのだろう。
もし、自分が楽器を弾けたなら、彼女の音に沿わせたい。
そう思わせるような音がする。

「ね、あんたさ、アンジュとは今日初めて会ったのかい?」
途切れることなく続く音にルヴァは頷いた。
「そうなんだ・・・。あんたね、アンジュの王子様によく似てるよ。」
「王子様?!」
およそ自分にふさわしくない言葉にルヴァの声が上ずる。
イライザは手を止めて、くすりと笑った。
「アンジュがいつも話すんだ。ブルーグレーの髪、グレーの瞳。頭がよくて、穏やかな話し方。」
ルヴァの目が丸くなる。
「まるで、あんただろ?」
再び流れ始めた音に、ルヴァはその場を離れた。
王子様とは、どういう存在なのだろう。
不思議に思いながらも、部屋に戻ったルヴァはまたいつの間にか眠りに落ちていったのだった。


ここの環境、とやらが、次第にルヴァにもわかってきた。
マンションに住む音楽家の卵たちは好きな時にそれぞれの楽器を奏ではじめ、気が向けば合奏し、気が乗らなければ勝手に弾きあう。
ピアノだったり、バイオリンだったり、チェロだったり、歌だったり。
アンジュのバイトが終わるのはたいてい真夜中過ぎで、いつもはすぐにベッドにもぐりこんだ。
けれど穏やかな夜もあれば、急に降ってわいたように演奏会が始まる夜もある。
「ああ、もう!眠れやしない!」
アンジュがこう言うのは、合奏したいとき。
ぶつぶつ言いながらもバイオリンを手にとって、誰かのピアノに合わせ始める。
ルヴァはそれを黙って聴いている。
音楽がわからないというのも悪くないと、ルヴァはこの頃思い始めていた。
もし、理屈を知っていたら、きっと、余計なことを言ってしまったり、考えたりしていただろう。

「イライザはさ、すっごく合わせやすいピアノなんだよね。」
いつも通りの顔を合わせない合奏の後、アンジュがポツリと言った。
「ここに来るまで、誰かと合わせたりしたことなかったんだ。初めて、イライザと合わせたとき、こう、世界が広がって、どこまでも行けそうな気がしたんだ。」
バイオリンケースの留め金を閉める音がコンクリの壁に反射する。
「絶対、あきらめない。バイオリニストになる。そう思ったんだ。」

アンジュの金の髪がランプの明かりに輝いた。
その髪よりも輝くのは意志の強い、ブルーの瞳。
この輝きに似た瞳を以前見たことがあった。
女王になる、と高らかに宣言した少女の蒼い瞳。

「あなたならなれますよ。いえ、私は音楽は全く分からないんですけどね。でも。」
ルヴァの手のひらがアンジュの頭に触れる。
「あなたのバイオリンとてもいいと思いますよ。・・・昔、私によくバイオリンを聞かせてくれた少女の音に、少し似ている気がします。」
アンジュは顔を上げてルヴァを見た。
ルヴァの表情はどこか寂しげで、それでいて暖かい。

「ルヴァはさ、その人のこと、好きだったの?」
答えの代りにルヴァはアンジュにまくらを手渡した。
「さあ、寝ましょうか。もう、夜が明けてしまいますよ。」
しばらく不満そうな顔をしていたアンジュも、寝息を立て始めたルヴァにつられるようにベッドに寝転ぶとたちまち眠りに落ちた。
アンジュが眠ったのを見て、ルヴァは起き上がると、ヘッドランプの明かりを一番小さな目盛りに落とす。
「すみませんね。・・・私はウソをつくのが苦手なんですよ。」
好きだった。
そう言うにはまだ、彼女の面影は大き過ぎて。
ルヴァはアンジュの寝顔を眺めながら、窓の隙間から静かに陽が上るのを待ったのだった。


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