Someday

2.

なんとなくではあったが二人の暮らしは続いていた。
アンジュはバイトとバイオリンの繰り返しで、家で過ごす時間は短い。
ルヴァもほとんどを本を読むだけで一日を終えていた。
ルヴァは何度か警察を尋ねて荷物の行方を聞いたが、なんの手がかりもなかった。
時折、財布からメモを取り出すと、しばらくそこに書かれている文字を眺める。
「明日、行ってみましょうかねぇ。」
そう言いながら、朝になると、行く気にはなれなかった。

ある日、朝というには遅すぎる時間、アンジュはまだベッドで眠っていた。
少しづつ朝は涼しくなってきている。
スーパーに買い物に行こうと、アンジュを起こさないようそっとルヴァは部屋を出た。
部屋に食べ物は全くない。
起きてすぐ飲む紅茶さえ、昨日で最後だったのだ。

以前、砂糖を借りにイライザの元へ行ったことがある。
「全く今までどんな生活をしていたのでしょうねえ。」と、首をかしげたルヴァにイライザは笑った。
「そうさねえ。なんとかやってたみたいだよ。もともとは何不自由ない生活してただろうにね。」
ルヴァはもっとアンジュのことを聞きたいと思ったが、イライザはピアノに向かってしまった。
あの時はそれで話が終わってしまったけれど。
ホールにかすかな音色が聞こえている。
アンジュが寝ていることを知っているのか、子守唄のような曲だった。


ふらりとドアから外に出たルヴァは、一人の女性がマンションを見上げていることに気付いた。
清楚な雰囲気の白いワンピースに、長い髪。
流れた風にあおられて、女性の顔があらわになる。
ルヴァは上着のポケットをぎゅっと握りしめた。
その中の財布にあるのは一枚の写真。
遠い思い出の中にいる大切な大切な人が写っていた。

女性はじっとマンションを見つめている。
金縛りにあったように動けないルヴァとふと目があった。
まっすぐに見つめる瞳は少しくすんだブルー。
彼女の瞳はもっと鮮やかな蒼だった。見ているだけで引き込まれそうなほどに蒼く、美しかった。
再び風が流れて、女性の長い青紫の髪が揺れる。
いつだろう?
二人で湖にいたとき、こんな風にロザリアの髪が風になびいていたのを覚えている。

「あの・・・。」
声も、似ている。
「こちらにお住まいの方なんですの?」
話し方も、似ている。
ルヴァは声を出すこともできなかった。
どれだけ忘れようとしても忘れることのできない人に、目の前の女性はあまりにも似すぎていたから。


突然、ルヴァの後ろのドアが開いて、背中に何かがぶつかった。
「イタイなー。ちょっと、勝手にどこ行くのさ?びっくりするじゃんか!」
ぶつかってきたのはアンジュで、ルヴァだと気付くとすぐにそんなセリフが飛び出してきた。
「ええと、ですね。紅茶を切らしていることに気付いたものですから。その、スーパーまでね。」
「あれ、そうだった?でもさ、声くらいかけてくれてもいいじゃん。」
ルヴァの服の裾をアンジュはきゅっとつまんだ。
「すいませんね。」
返事をしながらルヴァが前を向くと、もう、さっきの女性の姿は消えていた。
「どうしたの?」
アンジュがルヴァの肩越しに顔をのぞかせた。
「あのですね、今ここに、人がいたんですけど、あなたは気付きませんでしたか~?」
「全然。」
即答するアンジュに引っ張られるように、ルヴァは通りに歩き出した。

幻、だったのだろうか?
ポケットの奥がちりちりと熱を持ったように熱い。
幻でもいい。もっと見ていたかった。
心の中に湧き上がる想いにルヴァは苦笑する。
鮮やか過ぎる幻は、いまだに自分がロザリアを想っていることを如実に告げていた。


スーパーまで、のつもりがいつのまにかカフェでブランチをしよう、に変わっていた。
「ねえ、なんかおかしいよ?」
ずっとぼんやりしたままのルヴァにアンジュが声をかける。
ルヴァはすっかり冷めてしまった紅茶を慌てて口に含むと、その苦みに思わずせき込んだ。

「あんた、いつもぼんやりだけど、今日はいつもよりさらに上いってるよ。」
空になった自分の皿の前に肘をついたアンジュは全く手をつけていないルヴァの皿をフォークでつついた。
「ああ~、すいません。」
強引に口に入れたレタスが大き過ぎて、ルヴァはまた、せき込んだ。
「ちょっと、落ち着いてよ。あんたっておもしろいよね。本当に頭いいの?」

先に食べ終わって退屈だったのか、アンジュはカウンターのそばに積まれた雑誌を手に取ってきた。
写真のいっぱい載った週刊誌を平らになった指先が器用にめくっていく。
カラフルな紙面からあふれるのは賑やかなイメージ。
ポーチドエッグから流れ出た黄身をフォークですくいながら、ルヴァもなんとなく雑誌を目にしていた。
『今年のトレンド』と、大きな見出しのついたページでアンジュの指が止まった。
決めポーズの女の子たちが最新のファッションを身につけて、笑顔を見せている。
ページの真ん中のクレジットを見て、ルヴァも手が止まった。
フォークの先から黄身が垂れて、皿のふちについても二人はそれに気付かない。
『BR&D』
そのページの女の子たちが身につけている服は、ロザリアとオリヴィエが作ったブランドのものだった。

「可愛い子でもいた?」
ぽかんと口を開けているルヴァにアンジュが皮肉たっぷりの声を浴びせた。
飛んでいた意識が帰って来たとたんに、フォークが手からこぼれおちる。
金属と陶器のぶつかりあう甲高い音が響いた。

「あの、これは・・・?」
ルヴァの指差した先は、蒼いワンピース。
蒼いベースの上にキラキラと輝く金銀の星のような模様。あの時のドレスにとてもよく似ている。
「ああ、これね。ここのブランドの基本?ホラ、裏地とかにも使われてるし、ブラウスのラインとかにもあるでしょ?
冬ならマフラーとかにも使うし、傘とか、ベースになるようなモンには全部ついてるんだ。」
アンジュが指差したコートの写真にも確かにちらりと裏地としてのぞいているし、靴ひもやスカーフにもそのデザインが使われている。

「このデザイン、創業者が考えて、それからずっと使われてるんだよ。
もともとは辺境の惑星で織られてた伝統工芸に近いような布だったらしいんだけど、すごく高価でさ。
技術開発して、そっくりなプリントができるようになって、それからは普段着にも使われるようになったって。
今でも、クチュールの方では手織の本物の方を使ってるんだけどね。」
アンジュの解説にルヴァは頷きながら微笑んだ。
「あなたは随分詳しいんですねぇ。ファッションにも興味が?」
はっとしたアンジュが唇をかんだのがわかって、ルヴァは言葉をとめた。
一瞬、ぴりぴりとしたオーラがアンジュの体を包んで、すぐに霧散する。

「そんなわけないじゃん。ボクは服なんてほとんど持ってないんだからさ。」
シャツの首を軽くつまんで、足を組みかえたアンジュが苦笑する。
確かにアンジュはたいてい似たようなシャツとジーンズで過ごしていた。
「っていうか、このデザインを知らないヒトの方が少ないって。あんたこそ、ホントは宇宙人とかなんじゃないの?」
軽口をたたくアンジュはもういつものアンジュで。
「もう、早く食べちゃいなよ。」
雑誌を閉じて、テーブルの隅に肘で押しやると、アンジュはうんざりしたように言った。
ルヴァは急いで最後のトマトを口にほおりこむと、ナプキンで口をぬぐったのだった。


帰り道、スーパーに寄り、紅茶を買った。
紅茶をほとんど飲まなかったルヴァが唯一覚えたのが、ロザリアの好きだったダージリン。
アンジュが迷わずにダージリンの缶を選ぶのを見て、ルヴァはかすかに微笑んだ。
ふざけ合うようにマンションに歩いていくと、その前に青紫の影が立っているのが見えて、ルヴァの足が止まる。
ゆるくウェーブのついた長い髪。その横顔はやはりロザリアによく似ていた。
人の気配を感じたのか、女性が振り返る。
くすんだブルーの瞳が見開かれて、こちらへと走り寄ってきた。
「アンジュ!こんなところにいたのね?一緒に帰りましょう。」
女性は少し背伸びをしてアンジュを抱き寄せると、今にも泣きだしそうな声でそう言った。

近くで見れば、少し印象が違っている。
たとえば、ロザリアが凛と立つ一輪の薔薇とすれば、彼女は花瓶の中に誰かの手で活けられた薔薇。
そんな気がする。

「帰らないよ。」
アンジュが女性の手をほどいた。
困惑したように、ほどかれた自分の手を握る女性は、ただじっとアンジュを見つめている。
「ボクはもうあの家には帰らない。お姉様みたいに自分の人生を決められるのはイヤだ。」
「アンジュ・・・。バイオリンなら結婚しても続けられるわ。自分の夫や子供たちに聴かせてあげたらいいじゃないの。」
アンジュの表情が変わった。
「弾きたいのはそんなバイオリンじゃない!」
ぐっと握りしめられた拳が次第に色を失っていく。

「お姉様にはボクの気持ちはわからない。だから、もう放っておいて!」
走り出したアンジュの姿が重い鉄のドアの向こうに消える。
ルヴァはアンジュを追いかけることができなかった。
耳にした言葉を何度も反芻して、息をのむ。
今聞いたことが本当なら、アンジュは。
「あなたは妹とお知り合いなのですか?よろしければ、お話を聞かせて頂きたいのですけれど・・・。」
妹、とロザリアに似た声が言った。
ルヴァは促されるまま、近くのカフェにアンジュの姉と向かったのだった。


「お恥ずかしいところを見せてしまいましたわ。」
ロザリアに似た声がロザリアに似た言葉を言う。
ルヴァはただ頷いた。
「失礼ですけれど、あなた様はアンジュとどういった関係なのでしょうか?」
心配そうな声音も無理はない。年の離れた男と一緒に歩いていたのだ。ただならぬ関係なのでは、と不安なのだろう。
ルヴァは穏やかに首を横に振った。

「誤解されたのなら申し訳ありません。私は、え~、あの、マンションの住人なんですよ。バイオリンではないのですがね。
私は、その、人付き合いが苦手な方でして、アンジュはそんな私を気にかけてくれているようで、なにかと付き合ってくれているんです。」
「では、あなたと、その、特別な関係というわけでは・・・?」
「とんでもない!私はこんなおじさんですからね~。」
くすんだブルーの瞳に安堵の色が浮かぶ。
やむを得ずついたウソだが仕方がない。一緒に住んでいる、なんて言ったら、このかよわそうな女性は気を失ってしまいそうだから。
「本当に申し訳ありません。あの、失礼ついでにあの子の様子を聞かせていただけませんか?」
ぼんやりしたルヴァにいぶかしげな視線が投げられた。
「あの・・・?」
彼女はすこし微笑むと、思い出したように言った。
「そう言えば、申し遅れましたわ。わたくし、アンジュの姉でフローラと申します。」

ルヴァはフローラにアンジュの話を聞かせた。
バイオリンのこと、バイトのこと、日常の出来事。
話し下手なルヴァの説明は時にわかりづらかったけれど、フローラは頷きながら大人しく聞いていた。
話していると、いつのまにかやり込められてしまうこともあったロザリアとはやはり違う。
それでも、フローラを見ているとどうしてもロザリアを思い出して、ルヴァは心が温かくなった。
二度と会うことのない愛しい人が目の前にいるような気がして。

その時フローラがバッグからハンカチを取り出した。
星空のような深い蒼に金銀の星。
見覚えのあるそのデザインは、さっきアンジュから聞いたばかりのものだった。
「あなたはその柄がお好きなんですか?」
ロザリアに似た女性がロザリアの作ったブランドのものを持っている。
ルヴァの胸が不思議とざわめいた。
「ええ。好きというのかしら?申し上げにくいのですけれど、この『BR&D』という会社がわたくしとアンジュの家なんですの。」

似ているだけではない。
このフローラという女性はロザリアの血を引いているのだ。
そしてアンジュも。

「どうかなさいまして?」
青ざめたルヴァに心配そうな視線を向けて、フローラがハンカチを差し出した。
蒼い蒼い、ロザリアの瞳のような蒼色のハンカチ。
ルヴァはそれをギュッと握りしめた。


ルヴァがマンションの部屋に戻ると、アンジュがバイオリンケースを持って立っていた。
「ボク、今日からイライザの部屋に行くから。」
女の子だと知ってしまった以上、確かに同じ部屋に暮らすというのはよくないのかもしれない。
そう思ったルヴァの沈黙を、アンジュはどう理解したのだろう。
薄いブルーの瞳でルヴァを見据えると、その横をすり抜けるようにして出ていった。
重いドアが閉まると、階段を駆け上がるわずかな音が聞こえる。
それからイライザとアンジュの声がして、訪れる静寂。

ルヴァはぼんやり立っていた。
頭は盛んに動いているのに、なにも感じない。
汗が顎下から首筋へにじむと、ルヴァは無意識のうちにポケットからハンカチを取り出した。
「ロザリア…。」
ひざまずいたルヴァはしばらくそのまま動けなかった。


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