Someday

3.

次の日から、フローラは毎日のようにマンションを尋ねてきた。
玄関前をうろうろしている彼女に気付いたルヴァは、どうしても声をかけずにいられない。
「暑いのに、中へ入ったらどうですか~?」
そう言うとフローラは首を横に振った。大きなつばの帽子がルヴァの目の前で揺れる。

ロザリアもよく帽子をかぶっていた。
森の湖で風に飛ばされた帽子を釣竿でとったこともあったっけ。

ルヴァの顔に自然に笑みが浮かんだ。
「そうですか~。では、この間とは逆に私がアンジュのことを聞いてもいいでしょうかね?ほら、そこのカフェで。ね?」
アスファルトの照り返しは晩夏になってもまだきつい。
薔薇色に染まっている頬の色がほんの少し濃くなると、フローラは静かに頷いた。
並んで歩きだそうとしたときに、ドアが開いて、アンジュが出てきた。
フローラに気付くと、一瞬、アンジュの顔に苦悩の色がよぎる。
アンジュはその場に立ちつくした二人を一瞥すると、そのまま通り過ぎた。

「待って、アンジュ。」
呼びとめるフローラの言葉が耳に入らないとでもいうようにアンジュは走り出した。
すぐに角を曲がったアンジュの姿が二人の視界から消える。
追いかけても無駄なことはわかっているのだろう。
ため息をついたフローラをルヴァはカフェへと連れていった。


向かい合っていると、ここが聖地のような錯覚を起こしそうになる。
「ルヴァ。」
そう言って、微笑んだ、綺麗な青紫の髪。
ここにいるのはロザリアではないのに、そうであってほしいと願ってしまう。
視線に気づいたフローラが顔を上げる。
ロザリアよりくすんだブルーにルヴァの胸がギュッと痛くなった。
「アンジュは何か言っていまして?」
「いいえ。とくにはなにも。話したいと思ってはいるんですけれどねぇ。」
アンジュとは結局あれから何も話していないのだ。
ウェイトレスがフローラがオーダーしたものを運んでくる。
氷の詰まったカフェオレ。
やはり別人なのだ、と、ルヴァは自分のカップを持ちあげた。

ロザリアはコーヒーを飲まなかった。
暑い日でも、彼女が好んだのはあたたかい紅茶。
同じように熱い緑茶を飲むルヴァとロザリアを、オリヴィエが笑いながら眺めていた、あの時。

こうして、フローラと過ごす時、ロザリアとの違いを一つづつ知るのだろう。
そして、彼女がロザリアではないことを思い知るのだ。
ここが聖地ではないということを知るように。
空になったカフェオレのグラスが、きらりとまぶしい光を反射した。


フローラが来るようになって、アンジュはルヴァをあからさまに無視するようになっていた。
どうしても話したい、と思ったルヴァは、何度もイライザの部屋の前でアンジュの帰りを待った。
階段の下で揺れる金の髪が、ルヴァに気付いて一瞬立ち止まる。
目の前に立ったアンジュは乱暴にルヴァの体を押しやると、そのまま部屋に入ろうとした。
いつもならそのまま通り過ぎるのを見送るルヴァが、今日は一歩近づく。

「あ・・・。」
思わずよろめいたルヴァは大きな尻もちをついて、床に座り込んだ。
しんとした階段ホールにモノのぶつかる鈍い音がして、アンジュもさすがに無視できなかったらしい。
お尻をさすりながら、なんとか立ち上がろうとするルヴァにアンジュが手を差し伸べた。
ルヴァが掴んだ手は、思ったよりもずっと細くしなやかで、アンジュが女の子なのだと、改めて思う。

「ごめん…。」
アンジュがポツリと言った。
「もう、ほっといてよ。」
「できません。なぜ、私を避けるんですか?理由があるなら教えてくれませんかね?」
ルヴァは言い聞かせるようにアンジュの肩に手を置いた。
「あなたは私を助けてくれました。今度は私があなたの力になれたら、と思っているんですよ。」
もしかしたら、こうしてアンジュに触れるのは初めてかもしれない。
小さな肩。
「だって。」
アンジュらしくない聞き取れないほどの小さな声。聞き返そうとするルヴァをアンジュはじっと睨みつけた。

「お姉様の方が『ロザリア』に似てるよ。ボクよりもずっと。」
独り言のように言ったアンジュは肩に置かれた手を振り払って、部屋のドアを抜けた。
目の前で閉じられたドアに鍵の降りる音。
繰り返すルヴァの呼びかけに答えは無く。
やがてあきらめてルヴァが去っていくのを、アンジュはドアの向こうで静かに感じていた。


夜とともに流れてくるのは優しい調べ。
誘われるように2階へ上がったルヴァは開いたままのドアにノックをすると、部屋の中に入った。
アンジュはバイトに行っている。
さっきからずっと考えているのは、アンジュがロザリアを知っていたこと。
彼女がこの世を去ってから、生まれてきたはずなのに。

「来ると思ってたよ。」
イライザはふりむかずにピアノを弾いている。
くたびれたソファの上に明るい月明かりが射しこんでいた。
黄色い月はそろそろ夏が終わろうとしていることを教えてくれる。
ルヴァがそっと窓を開けると、ビルの谷間からわずかな風が流れてきた。
「今日もお姉さんと会ってたのかい?」
フローラは毎日のようにマンションにやって来ている。
他人に関心が薄い芸術家肌の住人達の中で、相手をするのは必然的にルヴァというわけで。
イライザがそれに気付かないはずがない。
ルヴァは苦笑いを浮かべながら、ピアノに触れた。
イライザの奏でる優しい音が振動となって、ダイレクトに胸に響いてくる。
「ええ。アンジュのことを少しでも教えてあげたいと思うんですよ~。」
「それだけ?」
間髪をいれずに返ってきた言葉にルヴァは詰まってしまった。

・・・それだけ、なんてウソはつけない。
フローラを通して、ロザリアを見ていることは自分でもよくわかっている。
そして、フローラを知れば知るほど、ロザリアとの違いに心が慣れていく自分がいることも。
イライザのピアノはとても綺麗で、月明かりはあまりも美しくて、心まで透けてしまいそうになる。
だからつい口から出てしまった。

「思い出は、いつから思い出になるんでしょうか?」
つぶやいた言葉にイライザは顔を上げた。
「止まっていたら、未来へは進めないよ。思い出って、過去だろう?それなら今こうしていることも、明日には思い出になる。
ようは、あんたが、それを思い出にするかどうかってことなんじゃないのかい?」
突然曲が変わる。
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、タイトルが思い出せない。
「あんたはアンジュの王子様なんだ。ずっと小さいころからアンジュはあんたを待っていたんだよ。」


ルヴァが部屋に戻ると、月が雲に隠れていくのが見えた。
金色の月明かりが部屋の中を通り過ぎて、やがて消えていく。
その時、部屋の片隅で何かがきらりと光った。
ルヴァが光の先を目で追うと、ビニールのクローゼットの上に置いてあった箱がほんの少し開いていて、その中の何かに光が反射している。
ルヴァは開いた蓋を閉じようと、背伸びをして、箱に手を乗せた。
すると、もともと危ういバランスを保っていた箱の蓋はルヴァの力で下へと崩れ落ちていく。
ルヴァが声を上げる間もなく、中のものがいくつか一緒に落ちてしまった。

ふわり、と空を飛ぶように一枚の写真が床に落ちる。
拾い上げたルヴァの視線がその写真にくぎ付けになった。
ポケットに入れたままの財布を無意識に手で押さえると、心臓が痛くなりそうなほど早くなる鼓動。
ルヴァは写真をテーブルに置くと、財布からも1枚の写真を取り出した。
さっき拾った方は明らかに色が褪せ、長い年月が過ぎていることを表して入るものの、2枚は全く同じものだった。


「ホラ、撮ってやるって言ってんだろ。」
新女王アンジェリーク・リモージュの即位式の後のパーティで、自ら志願してカメラマンをしていたゼフェルがルヴァの背中をつついた。
女王候補の時とも補佐官の時とも違う、あでやかなドレス姿のロザリアにルヴァはすっかり目を奪われて、声をかけることもできない。
淡いブルーのドレスは彼女の美しさを十分過ぎるほどに引き立てている。
それがオリヴィエのデザインだということは、もちろん知っていたけれど。
おろおろしているルヴァに舌打ちしたゼフェルがロザリアを誘うと、ロザリアは微笑みながら軽くドレスの裾をつまんで頷いた。

「綺麗に撮ってくださませね。」
「はあ?見たままにしか写せねーよ。」
「じゃあ、問題ありませんわ。」
少し顎を上げて、自信たっぷりに言う姿も本当に綺麗で輝いている。
「ち。テメーで言うなってーの。…もうちょっと近づけよ。」
言われて、ロザリアがルヴァの隣に並ぶ。
わずかに赤らんだ頬をアルコールのせいだ、と言い訳しながら、ルヴァはほんの少し距離を詰めた。

「これくらいですの?」
おお、と返事をしたゼフェルがシャッターをきる。
隣に立つロザリアから漂う薔薇の香り。
自分が地味な顔でよかった、とこれほど思ったことはない。
もし、感情の出やすい顔をしていたら、とても写真を撮ることなんてできはしなかっただろう。
そのあと、ゼフェルからもらった写真をルヴァはずっと大切に持っていた。
2人きりで写っているたった1枚の写真を。


色褪せた写真をルヴァは裏返してみた。
年月のせいかくすんでしまったブルーのインク。
『心からの感謝と敬愛を込めて ルヴァと』
見覚えのある、整った文字が目に飛び込んでくる。
いけないと思いながらもルヴァはクローゼットの上の箱を下ろした。
蓋を開けると、数冊のファイルと1冊のノートが入っている。
ファイルをパラパラとめくると、中身は全て楽譜だった。
なぜかため息が漏れる。

次にルヴァはノートを手に取った。
ノートの表紙は白だったのだろう。
ややすすけた表紙は色あせた金のエンボスで飾られており、変色した紙の色が、長い年月を経ていることを示していた。
固い表紙の後の薄紙をめくると、1枚目はなにも書かれていない。
見開きのページからはじまった文章は、ロザリアの日記だった。

『聖地を出て、再びオリヴィエと出会えたことは奇跡としか思えません。』
喜びの感情なのか、綺麗な文字が震えていた。
再会した二人がどのように過ごしたのか、ロザリアのあふれそうな想いが綴られている。
幸せな日々を読むルヴァの心に呼び起こされたのは、ただ、暖かい想い。
あの時願った通り、ロザリアは幸せに過ごしていてくれたのだ。
オリヴィエと二人で。

『わたくしが去った後、聖地でなにが起きたのか、オリヴィエから初めて聞きました。』
そう書かれていたのは、日記の中ほどだった。
記述は、ほぼルヴァの記憶と変わらない。
石のこと、装置のこと、サクリアを吸い取った過程、その結果起きたオリヴィエの退任。
ルヴァにとっては全て、昨日のことのように鮮明な記憶だ。
長い昔語りの後に書かれていた一言。
『危険を冒してくれたオリヴィエの勇気をわたくしは誇りに思います。』
確かにあの時、オリヴィエは迷わなかった。
ロザリアのために命をかけることを。
もし少しでもオリヴィエがためらったなら、全てを冗談にして、自分がやるつもりでいた。
今、ノートを見てわかったこと。オリヴィエが迷うことなど、ありえなかった。
二人の想いはこれほどにも強いものだったのだから。


結婚式の準備が始まると、日記は覚書のようになることもあり、たまにオリヴィエに対する愚痴やケンカの様子も書かれていた。
ルヴァは吸い寄せられるようにノートを読み続けていく。
まるで今ここにロザリアがいて、ルヴァに話をしてくれているような、そんな気持ち。
あたりはいつもの喧騒がうそのように、ルヴァが紙をめくるかすかな音だけがしていた。

最後の記述は結婚式の一週間前。
『もし、オリヴィエに再会できなければ、今頃わたくしはどうしていたのでしょう。
オリヴィエのいなかった10年の月日が随分遠いことのように思えます。
わたくしを支えて下さった、多くの方に感謝の言葉を伝えました。
チャーリーとはこれからも一緒に仕事をすることがあるでしょう。受けた御恩は必ずお返しいたします。』
少しの空白がある。
書きだしの滲んだペン先にロザリアのためらいが現れていた。

『本当はルヴァ。あなたに一番に感謝の気持ちを伝えたい。』
突然書かれた自分の名前にルヴァは目を見開いた。
『わたくしの幸せは全て、あなたが下さいました。
想いを伝えることができたのも、こうしてオリヴィエと結ばれることができたのも、ルヴァのおかげです。
もう会うことはできないけれど、心からの感謝と敬愛を。
ルヴァに幸せが訪れることを祈ります。』

隣のページの紙は他の部分と少し変色の色合いが違っている。
おそらく写真はここに貼ってあったものなのだろう。糊のせいか紙がパリパリと音を立てる。
ルヴァは写真をそのページにはさみ込むと、ノートを閉じた。

「ロザリア。あなたこそ、私にたくさんの幸せをくれたんですよ…。」
活字だけだった自分の世界に、恋のときめきや愛を教えてくれた。
ロザリアと過ごした全ての日々がどれほどルヴァの世界を変えたことだろう。
いつの間にか朝の光が窓に挿しこんでいる。
ルヴァはノートをテーブルに置くと、クローゼットからネクタイを取り出したのだった。


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