Someday

4.

朝の空気は肌寒ささえ感じる。
もう、秋。
ルヴァはイライザの部屋のドアを開けると、ソファの上に寝転んでいるアンジュからタオルケットをひきはがした。
ごろり、とタオルケットをまきつけるようにアンジュがソファから転がり落ちる。
「もう時間?イライザってば、もう少し優しく起こしてよ。」
再びタオルケットをつかもうと伸ばしたアンジュの手から、今度ははっきりとそれを取り上げた。
突然の冷気にようやく目を開けたアンジュはまだぼんやりした顔をしている。

「行きたいところがあるんですけどねぇ。私一人では場所がわからないんですよ。連れていってくれませんか?」
すぐに意識を取り戻したアンジュがルヴァをじっと見ると、ルヴァはいつものようににこにことしている。
けれどお願いのセリフとは裏腹にルヴァの口調は有無を言わせない響きがあって、アンジュはため息をついた。
きっとアンジュが行くというまで、ルヴァはあきらめないに違いない。
それに、ルヴァの行きたいところ、にも興味があった。

「もう、わかった。すぐ降りてくから下で待ってて。」
それまで一言も口をきいてくれなかったアンジュが、思いのほかすぐにOKしてくれたことにルヴァは安堵した。
ここで30分は押し問答を繰り返すだろうと覚悟をしていたのだ。
嬉しい気持ちを隠しながら、ルヴァはドアに手をかけたところで振り返った。

「ああ、出来るだけ、地味な服装でお願いしますね~。」
「え?!どこ行くのさー。地味って、えー。」
ぶつぶつ言うアンジュを残して、ルヴァは先に下のホールに降りた。
手の中にあるのは、何度も見返したせいで折り目の破れかけた一枚のメモ。
やがて白いリボンタイのシャツと黒のパンツをはいたアンジュが降りてくると、ルヴァはメモを手渡した。

「ここへ行きたいんです。あなたならよく知っているでしょう?」
メモとルヴァをアンジュは交互に見つめた。
ルヴァはいつもと変わらない、穏やかな瞳をしている。
しばらくして、アンジュはなにも言わずに再び2階への階段を駆け上がった。
気を悪くしたのか、と気をもんだルヴァの前に現れたアンジュの手にはバイオリンケースがぶら下がっている。
「行こう。」
尋ねる間もなく、先に歩き出したアンジュの後をルヴァは懸命に追いかけた。


陽が昇りだしても、あのぎらぎらした暑さは感じない。
バスを降りた二人は静かな並木道の間を影を探すようにして歩いた。
しばらく行くと、視界が開いて、地平線まで続く平地が現れる。
整備された一面緑の芝生の合間に立つのは白い墓標。
アンジュは迷わずに一角を目指すと、その前に立った。
「ここだよ。あんたが来たかったところ。」

一つの墓標に刻まれているのは、二つの名。
何度も何度も、ルヴァはそれを目で追った。
永遠に寄りそう二人の姿。
ルヴァは墓石に手を添えて、ひざまずいた。
来る途中で買った薔薇の花束をアンジュが捧げると、薔薇の香りがふと漂い、ルヴァの目が熱くなる。

「ロザリア…。」
それ以上、言葉が出なかった。
ルヴァの右手が刻まれた名前に伸びる。
ぽたり、とこぼれた雫が墓標に小さなしみを作った。
少し後ろに立っていたアンジュはバイオリンケースを開けると、楽器を構えた。
「あのさ、ロザリア。あなたもバイオリンを弾いてたんでしょ。ボクのバイオリンを聴いてよ。」
アンジュが弓を引くと、協奏曲が流れ出す。

誰しも知るその曲をロザリアも好んで弾いた。
ルヴァが拍手をすると、ロザリアははにかんで淑女の礼をして答えた。
まっすぐな蒼い瞳にルヴァの心が波立つ。
「ルヴァもなにか音楽をされたらよろしいのに。わたくしがお教えしますわ。まずは音符を読めるようにならなくてはね。」
ロザリアの手書きの五線譜をルヴァは一生懸命勉強した。
そして、やっと音符が読めるようになったころにロザリアのバイオリンと合奏するピアノが現れたのだ。
ロザリアのバイオリンに寄りそうような音色。
オリヴィエがピアノを弾くことをルヴァは知らなかった。多分聖地の誰も知らなかっただろう。
それから二人の心が通いあって行く過程を、何よりもその演奏が教えてくれた。
アンジュのバイオリンの音色は辺り一面に広がって、ルヴァの嗚咽を隠してくれる。
第3楽章まで休みなく続くその間、ルヴァはあふれる涙を止めることができなかった。


マンションに戻ると、ルヴァはアンジュを部屋に呼んだ。
テーブルの上に置いたままのノートを見て、アンジュはため息をつく。
「見ちゃったんだ。」
「ええ。昨夜、偶然見つけてしまったんです。勝手に見てすみませんでした。」
アンジュの手がノートをめくると、1枚の写真を取り出した。
「ね、やっぱり、ここに写ってるの、あんたなの?」
アンジュの瞳はルヴァをまっすぐに見ている。
どちらと答えてほしいのか、ルヴァには分からなかった。
「はい。私です。」
風の流れが止まる。
アンジュは泣きそうな笑顔で写真を元のページに戻した。
「子供の頃、夏休みにかくれんぼをしたんだ。」

大きな屋敷の中はいくらでも隠れる場所があった。
大人しい姉のフローラとではできない遊びも、親せきの子供が集まる夏休みは好きなだけ楽しめる。
アンジュは邸中を走り回って、一番奥の部屋に入った。
たくさんの本や綺麗な絵のかけられたその部屋は、子供だけで入ってはいけないと言われている場所。
古いもの特有の匂いに囲まれて、アンジュは辺りを見回した。
バタバタと廊下を走る足音に押されるように、アンジュが本棚に背中をぶつけたはずみで1冊のノートが落ちる。
少し古びてはいるものの、綺麗なノート。
大切そうにしまわれていたことに対する好奇心でページをめくったアンジュの目に1枚の写真が飛び込んできた。
穏やかな瞳。恥ずかしげに微笑んだ顔。
成功している人間特有の自信過剰な大人たちに囲まれて育ったアンジュにとって、どの男性よりも輝いて見えた。
隣にいる女性はどこかで見たことがあるような気がするけれど、お姫様のように美しい。

「王子様なの?」
少し変わった衣装を着ているその男性に、アンジュはそう呼び掛けた。
お姫様の隣にいるのは王子様だと、姉が教えてくれたから。
びっしりと書かれた綺麗な文字を読もうと、アンジュはノートを握りしめる。
この人の名前はなんて言うのだろう。探そうとしてあきらめた。
まだあまり文字を読むのは得意ではない。
アンジュはノートを服の中にかくすと、自分の部屋へと走った。
部屋のクローゼットの中にある宝物のつまった箱の一番奥にノートをしまうと、元通りかくれんぼに戻った。
そして、いつか書かれている内容を読み、王子様ではないことを知っても、アンジュは写真もノートも元に戻せなかったのだ。

「ごめん。初めに空港で見た時、よく似てたから、声をかけたんだ。」
何度も繰り返し読んだノート。何度も見つめた写真。
声をかけずにはいられなかったのは、当たり前のこと。
ドアの向こうに消えようとするアンジュの背中にルヴァは言った。
「今日はありがとうございました。私一人では、きっとあそこには行けなかったと思うんです。」
「ううん。ボクこそありがとう。」
ドアのきしむ音が辺りに響くと、ルヴァは一人、空を眺めた。
いつの間に、こんなに雲が高くなったのだろう。
過ぎていく時間を、ルヴァは静かにかみしめていた。


マンションの前に立っているフローラを、ルヴァは初めてマンションへと招いた。
アンジュはイライザの部屋で寝泊まりはしているものの、荷物はそのままになっている。
買ったまま封を開けていなかったダージリン。
マニュアル通りにカップを暖めるルヴァをフローラは不思議そうに見つめていた。

「おかしいですかねえ?」
驚いた顔をしたままのフローラの前にルヴァがカップを置いた。
「紅茶を淹れるのは得意なんですよ。昔、丁寧に教えてくれた人がいましてね。」
何かを感じ取ったのか、フローラが目を伏せる。
湯気の立ち上るカップをルヴァは持ち上げた。
このところめっきり涼しくなった風で、窓辺のカーテンが波のように揺れている。

「アンジュはこんなところで…?」
部屋の殺風景な様子にフローラは戸惑ったようだ。辺りを見回しては不安な眼をしている。
お嬢様として育ったフローラはきっと素晴らしい調度品や洋服に囲まれているのだろう。
それはきっとアンジュも同じはずで。
アンジュがこの部屋で暮らしていることが信じられないといった様子だ。

「ええ。アンジュはここで一人で暮らしているんですよ。家賃はいらないようですが、食事や服は全て自分の力で賄っているんです。」
カップを置いたルヴァはフローラを見つめた。
ロザリアに似ている。
でも、似ているということと同じということは違うことを、今はもう十分わかっていた。

「私はね、あなたにもアンジュの夢を応援してほしいんですよ。理解してほしいとはいいません。
あなたたちは姉妹ですけれど、同じ人生を歩む必要はないんです。それぞれにふさわしい場所がある。そうではありませんか?」
フローラはなにも言わず、カップの紅茶を見つめている。
「あなたの幸せはあなただけのものなんです。アンジュにはアンジュの幸せがある。どうか彼女の生き方を見守ってほしいんです。
あなたにしかできない方法で応援してあげて下さい。」

フローラの口からため息が漏れる。
それは、あきらめというよりも自分のいたらなさへの嘆きに聞こえた。
「あなたはアンジュのことをよく理解していらっしゃるのね。」
ルヴァの目が一瞬細められた。何かを思い出すような遠い視線。
「ええ。よく似た人を知っているんですよ。まっすぐで、想いに一途で、意志の強い人でした。」

「わたくしはアンジュに普通の生き方を望んでいました。でもそれはアンジュの場所ではないのですね。」
紅茶に口をつけたフローラはその香りに微笑んだ。
丁寧に淹れられた紅茶の味は目の前のルヴァという人の深い味わいに似ている様な気がする。
「…あの子はこれからどうするのでしょう?ただ、バイトをしているだけなんでしょうか?」
「アンジュは音楽学校を受験するそうです。奨学生になれば授業料の免除がうけられるんです。きちんと考えていますよ。」
イライザからの受け売りだったが、アンジュなら出来るはずだ。
「そうですか…。わたくしはなにも知らなかったのですわね。」
うつむいたフローラにルヴァはハンカチを差し出した。
以前に借りた蒼い星空のようなハンカチ。
「あなたの優しさはきちんと伝わっていますよ。」
ハンカチを手にしたフローラは軽く目を抑えると、すぐに顔を上げた。
「わたくし、考えてみますわ。あの子にとってなにが幸せで、わたくしが手伝えることはなんなのかを。」

遠くなっていくフローラの青紫の髪が揺れている。
綺麗に巻かれた長い髪。
彼女は誰かに守られて生きていく、そんな場所がふさわしい。
そして、そのそばにいるのは、自分ではない。
ルヴァはフローラの残した淡い鈴蘭の香りに包まれながら、カップを片づけたのだった。


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