Someday

5.

「ああ、アンジュ~。おかえりなさい。」
確かにここはイライザの部屋。
アンジュは目の前でにこやかにほほ笑むルヴァと部屋のドアを何度も見比べた。

「ああ、お帰り。」
イライザの声がピアノ越しに聞こえて、アンジェはルヴァを睨みつけた。
部屋の奥にある大きな窓から柔らかな日差しが差し込んでいる。
冬に差し掛かった今くらいの時期だけに感じる日だまりの暖かさ。
そしてイライザが弾く耳をなでる心地よいメロディーにアンジュも、自然と肩を下ろした。

「なんで、あんたがここにいるのさ。」
口をついて出るのは、可愛くない言葉ばかり。
アンジュはルヴァから視線をそらすと、すぐ隣に置かれた段ボールに気付いた。
封をしていないせいで中身が少し見えている。
服と本。
難しそうな分厚い本はルヴァが以前読んでいたものだ。

「それ、なに?」
アンジュの指先が段ボール箱をまっすぐに指している。
荷物をまとめた、という雰囲気の段ボールから、導き出せる答えは一つ。
ルヴァは箱を自分の近くに寄せると、アンジュを見た。
「あのですね。私はあの部屋を出ようと思うんですよ。もともとあなたの部屋だったのに、私が占領してしまいましたからねぇ。」
「出る?」
アンジュの声音が少し硬い。
「引っ越すってこと?」
「今までお世話になりました~。本当に感謝していますよ。」
アンジュの胸がギュッと縮んで、言葉が出なくなった。
ずっと意地悪な態度をとって来たけれど。
会えなくなるなんて、考えたこともなかった。

微妙な沈黙にアンジュの心を察したイライザが、ため息交じりに言った。
「だからさ、アンジュも手伝ってやんなよ。3階まで運ぶだけなのに、もう疲れたって言って、ここから動かないんだよ。」
「えっ?!」
アンジュは大股でイライザまで近づいた。
窓から通り抜ける風で揺れたカーテンの影がアンジュに重なる。
「今なんて?」
「この人、空いてる部屋を貸せっていうから。ほら、3階の隅。卒業試験に落ちて出てったヤツの後だから、誰も入らなかっただろ?」
「すいませんね~~。無理を言ってしまって。私は別に音楽をやっているわけではないし、そういった迷信は信じていませんから。」
「まあ、そういうわけだから。・・・アンジュ、聞いてるのかい?」

アンジュは応えない。
揺れるカーテンの影で、うつむいたアンジュの表情はほとんど見えなくなってしまった。
立ち上がってアンジュの肩に触れたイライザがルヴァに向かって、手招きをする。
「ほら、あんたのせいだから。責任とりな。」
イライザはルヴァを軽く睨むと、すぐに微笑んで、部屋を出ていった。
残されたルヴァが仕方なくアンジュに近づくと、床にこぼれる雫。
「ホントに、出てっちゃうのかと思った…。」
涙の粒がピアノのために敷かれた分厚い絨毯に吸い込まれていく。
自然と持ち上げた自分の両手をルヴァは、はっとして、また下げた。

「ああ~、すいません。あなたを驚かせるつもりじゃなかったんですよ。ただ、ずっといるなら、ここに部屋を借りるべきだと思っただけで…。」
「ずっと、ここに?」
アンジュはまだうつむいている。
ルヴァはますますあわてたように手を上下させて、言葉を探した。
「ええと、その、しばらく、かもしれませんけど。・・・いけませんかねぇ。」
この沈黙が拒絶なのか肯定なのか。
わからないまま、ルヴァはおろおろとアンジュの周りを歩き回った。

「いけないわけないじゃん!」
ようやく上を向いてくれたアンジュに、ほっとしたのもつかの間。
思いっきり胸を押されたルヴァは、おもしろいように尻もちをついて倒れ込んだ。
「いたた・・・。」
ルヴァはお尻をさすりながら涙目になる。
「お返し。」
そう言って笑ったアンジュの顔はすっかり以前の通りで。
なぜ、それがこんなにも嬉しいのか、ルヴァは自分でもよくわからないまま、アンジュと新しい部屋の掃除を始めたのだった。


コンクリートのマンションの冬は予想よりも暖かかった。
雪の舞い散る景色にルヴァは窓ばかり眺めてしまう。
故郷でも、聖地でも見ることがなかった景色。
改めて、違う世界へ来たのだ、と実感する。

「ちょっと、どう思う?」
何千回と聞かされた課題曲を今ではルヴァもすっかり覚えてしまっていた。
「ええ。とってもいいと思いますよ~。」
ルヴァの返事にアンジュは肩を落として弓を下げる。
「あんたってさ、いつもそれしか言わないよね。」
「はあ、そうですかねぇ。本当にそう思っているだけなんですが。」
ふう、と大げさにため息をついてアンジュは再び弓を構えた。
ロザリアにも聞かされたことのある曲。
あの時は作曲者もタイトルさえ知らなかった。
ドアをノックする音がしてルヴァが扉を開けると、フローラが立っていた。

「もう、おやつはお済みになりまして?ケーキを買ってきましたのよ。」
「ケーキ!」
ぴたりとバイオリンの音が止まって、アンジュが近づいてくる。
「では、私が紅茶を淹れましょうかね。」
仲良くケーキの箱を覗き込む二人の声を聞きながら、ルヴァはキッチンへと向かった。
「お母さまから伝言よ。次はサロンで弾いてほしいって。」
「えー!おばさんたちばっかじゃん。ボク、見世物みたいでイヤだなー。」
アンジュがケーキ皿とフォークをとりにやってくる。
沸騰しかけたケトルの蓋がカタカタと音を立て始めた。
「仕送りとの引き換えだから仕方ないけどさ。」

両親を説得してくれたフローラのおかげで、アンジュはバイトをしなくても生活できるようになった。
『月に一度、仕送りを取りに行く代わりに、両親の前で演奏すること』
それが条件。
一度目に家に戻る時は相当渋っていたアンジュだったが、両親と話しあうことができたらしい。
晴れやかな顔で戻ってきて、ルヴァに言った。
「『後悔しないように生きる』っていうのがウチの家訓らしいよ?創業者の遺言らしいけど。」
ルヴァの脳裏によぎった、オリヴィエの顔。
「あの人らしいですよ。いつも自由にしてましたから。」
「ぷ!ウチの創業者を知ってるんだもんね。その人に感謝しなきゃ!」
それからアンジュのバイオリンの音が明るさを増した。
冬に射す一筋の光のような音。


その時、話し声を遮るように携帯の呼び出し音がなった。
電話に出たアンジュの顔が険しくなって、すぐに安堵に変わる。
「今、代わります。」
携帯をルヴァに差し出したアンジュが無愛想に一言、「警察」と言った。
フローラの顔が青ざめる。
そんなフローラにアンジュはくすりと笑うと耳に何かをささやいた。
ルヴァが携帯を耳にあてると、ざわざわとした背景から機械的な女性の声が飛び込んでくる。

「ルヴァさんですね。先日、お出しいただいていた遺失物届けですが、該当の物が出てきました。取りに来られますか?」
聖地を出たその日に失くしたトランク。
ずっと空港のロッカーに入れられていたらしい。
ルヴァは携帯を握りしめると、大きく息をすいこんだ。
「そちらで処分していただけませんかねぇ。」
アンジュが驚いた顔でケーキのファークを持ったまま、ルヴァを見つめている。
「ええ。身分証明書も再発行してもらいましたし、そこにあるのは…今の私にはもう必要のないものばかりなんですよ。」
今はもう、なにを持ってきたのかも忘れてしまった。
「はい、お願いします。」
電話を切ったルヴァの目の前にアンジュが立った。

「ホントにいいの?すごく探してたじゃん。大事なものが入ってたんじゃないの?」
ルヴァはアンジュに微笑みかけた。時折見せる遠くを見るような瞳。
「大事だと、思っていたんですよ。でもね、今はもういいんです。」
ルヴァは淹れたての紅茶のポットを手にすると、カップへと注ぎわける。
相変わらずのダージリンの香りが部屋に満ちていった。


しばらくたったある日。
ルヴァは届いた荷物を受け取ると、その箱をアンジュの部屋へと運んだ。
「なに、それ?」
大きなピンクのリボンのついた箱にアンジュが目を丸くした。
「合格祝いですよ。つまらないものですがね。」
「ボクに?」
頷いたルヴァから箱を受け取ったアンジュは、床に箱を下ろすと、リボンの端を引いた。
ピンクのリボンが嬉しいほど子供じゃないはずなのに、ドキドキが止まらない。
幾重にも結ばれたリボンが一瞬にしてほどけて広がった。
箱の中から出てきたのは蒼い星空のワンピース。

「これ…。ウチの…。」
ふんわりとスカートの広がるそのワンピースは、『BR&D』の定番のデザインだった。
「その生地はね、私にとっても、とても思い出深いものなんですよ。」
それ以上ルヴァはなにも言わなかった。
遠いグレイの瞳の奥はいつでもアンジュの入りこめない場所を見ているような気がする。
すぐに着替えたアンジュはルヴァの目の前でくるりと一回転してみせると、少し恥ずかしそうに笑った。

「スカート、久しぶりなんだけど。」
今日は月に一度、家に顔を見せに行く日なのだ。
合格通知とバイオリンを手にしたアンジュはスカートの裾を気にして引っ張ってばかりいる。
ひざ丈が気になるのか、足も落ち着かないようで、しきりにそわそわ動いていた。

「とてもよく似合っていますよ。ちゃんと女の子に見えます。」
「…それ、ケンカ売ってんの?」
「とんでもない!」
ぶるぶると首を振ったルヴァにアンジュがふと、真面目な表情になる。

「あのさ、ロザリアとどっちが似合ってる?」
アンジュの瞳がルヴァを見つめている。
一面に広がる青空のような薄いブルーの瞳。

「実は、私はロザリアがそのドレスを着たところを見たことがないんですよ。だから、比べられませんねぇ。」
顎に手を当てて、困ったように言うルヴァの頬をアンジュはかるくつねった。
「そういうときは、目の前にいる人の方に似合うっていうもんなの!まったく!」
さらに叩こうとするアンジュから逃げるようにルヴァが目をつぶる。
覚悟して待っていたルヴァは一向に来ない衝撃を不思議に思い、恐る恐る目を開けた。
バイオリンケースを抱えたアンジュはそんなルヴァを見て、にっこりと笑った。

「いつかボクの方が似合うって、言ってよね。」
そのまま、くるりと振り返ったアンジュはドアを抜けて、飛び出した。
少し隙間のあいたドアから、一瞬見えたアンジュの姿。
軽やかなローファーの足音がやがて消えていく。

いつか。
アンジュにロザリアの話をする日が来るだろう。
好きだった。
あの時、誰よりも好きだったのだ、と。
それはそんなに遠くないことのような気がする。

ルヴァの頭の上でピアノの音が流れ始めた。
あわてて時計を見たルヴァは、階段をかけ上がり自分の部屋に戻ると、本をつかんだ。
「また、遅刻してしまいますね~。イライザに怒られたらどうしましょうか~。」
頼み込んで、ようやく始めたピアノのレッスン。
覚えはよくても、思うように指を動かせないルヴァに、イライザは悪態をつきながらも丁寧に教えてくれている。
この間、レッスンを受けたところを頭に思い浮かべながら、ルヴァは階段を駆け降りたのだった。


FIN
Page Top