雪融けの夢はきっとあなたと
こちらの作品は「氷の女王」の続編になっています。
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(……ああ、遂にこの時が来てしまいましたのね)
『その言葉』を聞いた瞬間、女は心にふと、そんな言葉を呟いていた。
神鳥の宇宙の中枢、『聖地』と呼ばれるその場所に在る、巨大な建物――神鳥の聖殿。
その最奥に位置する、一際広いその一室に、女の姿は在った。
身体の稜線が際立つ、だが同時に、女の華やかさをも際立たせる、マーメイドラインのドレス。
高く結い上げた青紫色の巻き髪には、レースをふんだんに使ったヘッドドレスが華を添えている。
部屋の脇には、先端に神鳥を象徴する意匠が施された錫杖。
――女は、神鳥の宇宙の女王だった。
女は、人ひとりも寝られそうな大きさの机の上で、書類相手にさらさらと羽根ペンを走らせていた。
部屋の中に、他の人影は無い。
――……コンコン
ペンを走らせる音さえ聞こえる静寂を、突如遮るドアのノック音。
女は顔を上げ、ペンの手を止めると、ドアに視線を向けて、問う。
「はい、何方ですの?」
「アタシだよ。オリヴィエ。……今、良いかい?」
ドアの外から聞こえたその声に、女は数瞬逡巡した後、答えた。
「……どうぞ、お入りになって」
その声の後、部屋に入って来たのは、華やかな衣装と化粧を纏う、一見女性とも見える長身の男だった。
「は~い、ロザリア。元気してる~? ……訳無いか。相変わらずだね~、オシゴト」
ロザリアと呼んだ女の机にうず高く積まれた書類の束に、オリヴィエと名乗ったその男は苦笑いを漏らす。
「これが女王の仕事ですから、当然の事ですわ。……それで? 執務時間中にアポなし訪問までして来る用件は一体何ですの?」
「相変わらずつれないねぇ~。こっちは何時だって、アンタの顔が見たいってのにさぁ」
大仰に肩を竦めて見せる男に、女は浅く息を吐いて、
「執務時間外ならともかく、時間中に仕事以外で貴方に付き合う理由は有りませんわ。茶化しにいらしたのなら帰って下さる?」
「はいはい、分かった。分かったよ。勿論、用が有るから来たのさ」
そう言うと、男は持っていた紙束を女に翳す。
「アンタに頼まれてた事の、結果が出たんだよ。早く知りたいんじゃないかと思って、こうして持って来た訳なんだけど」
「……そうでしたの」
端正な眉を緩く八の字に曲げ、女は返す。
「ごめんなさいね、オリヴィエ。頼んでおいて今更ですけれど、貴方には面倒を掛けてしまいましたわね。守護聖の仕事も有りますのに」
「他ならぬアンタの頼みだからね。断る理由なんか無いさ――だけど」
オリヴィエはそこで言葉を切って、
「良いのかい? 本当に」
『何が』とは言わない。
だが心配げに自分を見つめるアメジストの瞳に、女は苦く笑って、
「何度も答えた事ですわ、オリヴィエ。これが私の選択です」
「それも何度も聞いたよ。だけどねえ――」
「――それとも」
女はオリヴィエの言葉を遮って、
「自分勝手な女とお思いになって? 私の事を」
「…………別に?」
数瞬の沈黙の後、オリヴィエはゆっくりと左右に頭を振って、
「アンタ『だけが』、そうだとは思わないよ。……少なくとも、アタシはね」
「……そう」
女は素気無く答えたものの、その顔は明らかに安堵の表情を浮かべていた。
「正直、アタシはお勧めしないけどね。けど、アンタはこうと決めたら梃子でも動かない頑固者だ。……行くんだろう?」
「ええ、行きますわ」
女は即答する。
「これは、私にとってのケジメでも有りますもの。何を言われようと、受け止める覚悟は出来ておりますわ」
「ふぅん……」
女の言葉に、オリヴィエは若干口をへの字に曲げて、
「……ま、それはそれとして。上手く行くモンかねえ? アンタの言う通りに、さ」
「それはそれ、これはこれ、ですわ」
若干肩を竦め、女は言う。
「私はただ、可能性を提示するだけ。それで『あちら』がどう選ぶかは、最早私の与り知らぬ事ですわ」
「……そうかい」
オリヴィエはただ、それだけを返した。
「じゃあ、アタシが言う事は何も無いね」
「……オリヴィエ?」
「お行きよ、アンタの思うままに。聖地の事は、アタシがどうとでもしとくからさ」
「ええ……有難う、オリヴィエ」
女の机の上に置かれた紙束には、金髪の巻き毛が印象的な一人の女性の写真が、クリップで留められていた。
神鳥の宇宙、第一惑星である【主星】――そこに在る、閑静な住宅街の一角は、その日、大変な騒ぎになっていた。
「あのう……何か遭ったんですか?」
住宅街を通る道を塞ぐように出来ていた、黒山の人だかり。
そこに一人の女性が通り掛かる。
20代後半と思しき、金色の巻き毛を緩く纏めた小柄なその女性は、トートバッグを肩に掛け、どうやら何処かからの帰りの様であった。
家路についたその先で、どうやら自宅の周辺で何か遭ったらしいと察した女性は、人だかりの中に見付けた知り合いに声を掛ける。
「あ、ああ、アンジェちゃん。いま帰りかい?」
声を掛けられた中年の女は、女性の姿を認めると、あわあわとした調子で、
「ええ、そうですけど……どうかしたんですか? この人だかり」
「どうしたもこうしたもないよ!」
アンジェと呼ばれた女性の言葉に、女は突然声を荒げて、
「見てみなよ、アンタの家の前!」
「……えっ」
女の視線につられるように、女性は視線を向け――そしてこぼれる短い声。
一軒の戸建ての住宅――女性の自宅の前には、重厚な黒塗りの大型車が停められていた。
見るからに高級と分かるそれが在るだけでも、この状態の理由を察した女性だったが、彼女の視線は、ある一点に釘付けになる。
「そんな……どうして」
「……アンジェちゃん?」
「何で……今になって」
「アンジェちゃん? 一体どうしたんだい!?」
女の呼び止める声を背に受け、女性は弾かれる様に駆け出していた。
人だかりの中を掻き分ける様に、自宅の中へ。
――その高級車のフロントグリルには、翼を広げた鳥を象ったエンブレムが付けられていた。
「お母さん!」
玄関のドアを開け、女性が叫ぶ様に声を上げれば、まろぶように初老の女性が現れた。
その顔色は一目見ただけでも分かる蒼白で、蟀谷からは冷や汗さえ流れている。
「ア、アンジェかい? ……お帰り」
「……うん。ただいま」
「ア、アンジェ……その……っ」
「……分かってるわ。言わなくて良い」
おろおろと言う初老の女性――母親に、女性は一つ頷いて、
「……来てるの? 『彼女』が」
「え、ええ……午後、突然やって来て……貴女は出掛けてるからって言ったんだけど……帰るまで待つからって」
其処まで言った後、母親ははた、と気づいた様に、
「ア、アンジェ? どうして分かったの? 来たのが女の方だって」
「何となく……ね」
女性はただ、それだけを返して、
「『彼女』は、今どこに?」
「一応、リビングにお通ししてるけど……」
「分かった。後は私に任せて。……出来れば、二人で話をしたいんだけど」
「え、ええ……それは構わないけれど……大丈夫なのかい?」
気遣わしげに言う母親に、女性は苦く笑って、
「正直自信は無いけど……大丈夫。少なくとも、『あの時』みたいな事にはならない筈だから」
そして女性は肩に掛けていたバッグを母親に預けると、「……くっ」と意を決した様にリビングへと足を進めた。
リビングのドアを開けると、其処には果たして女性が想像していた通りの姿が在った。
「……っ」
ジクリ、と胸が痛む。
女性は無意識か、胸元の服をギュッと掴んでいた。
リビングのソファの上には、一人の姿。
女性にとってそれは、遠い昔に写した写真を切り取り、そのまま其処に置いた様な――
優雅に笑うその姿――少女の名は、ロザリア・デ・カタルヘナ。
神鳥の宇宙の女王であり、嘗てその座を巡って競い合ったライバルであり、親友『だった』。
「お久し振りですわね、アンジェリーク」
「ロ――」
記憶に残る声音そのままのその言葉に、女性は思わず口を上らせ――そして慌ててそれを振り切る様に、頭を左右に振る。
(私は神鳥の宇宙第256代女王、ロザリア・デ・カタルヘナ。この宇宙の万物を統べる者。貴女ごときが気安い口を聞いていい相手ではありませんのよ?)
「……お久し振りです。女王陛下」
記憶の端に在った淑女の所作と共にそう言えば、何故かロザリアは今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。
それがどうにも腹だたしく、女性は僅かに瞳を眇め、言葉を重ねる。
「こんな片田舎の一般庶民の家に、一体何の御用でしょう。貴女は、こんな所に来る様な身分では無い筈ですが?」
チクリ、と、棘で刺す様な口調だった。
だがそんな女性の言葉にも、ロザリアは泣きそうな笑みを深め、「……そうですわね」とだけを返すのみである。
「貴女の言う通りですわ。此処は確かに、私にとっては縁の無い場所です」
「なら、どうして」
「私はただ――」
――其処でロザリアは言葉を切り、
「――……ただ、私も『独り言』を言いたい時も有る、と言う事です」
そうして切り出したロザリアの『独り言』に、女性はただ、絶句するのみだった――
――ジュリアスが、守護聖を退任する事になりました。
新たな候補も決まり、今は引き継ぎの最中ですが、それもあとひと月もすれば終わる。
そうなれば、彼は聖地を去る事になるでしょう。
ですが彼は、人生の殆どを聖地で過ごし、下界とは違う時の流れを生きて来ました。
例え実家に戻った所で、ご両親や知った親戚がご存命の可能性は低い。
もしかしたら、代替わりがされているかも知れません。
だとすれば、彼は孤独な余生を送る事になるでしょうね。
…………せめて一人でも彼を理解し、支える方が居れば、少しはそれが和らぐのでしょうが。
神鳥の宇宙の中枢、『聖地』と呼ばれるその場所に在る、巨大な建物――神鳥の聖殿。
その最奥に位置する、一際広いその一室に、その姿は在った。
身体の稜線が際立つ、だが同時に、女の華やかさをも際立たせる、マーメイドラインのドレス。
高く結い上げた青紫色の巻き髪には、レースをふんだんに使ったヘッドドレスが華を添えている。
部屋の脇には、先端に神鳥を象徴する意匠が施された錫杖。
――女は、神鳥の宇宙の女王だった。
女は、人ひとりも寝られそうな大きさの机の上で、書類相手にさらさらと羽根ペンを走らせていた。
部屋の中に、他の人影は無い。
――……コンコン
ペンを走らせる音さえ聞こえる静寂を、突如遮るドアのノック音。
女は顔を上げ、ペンの手を止めると、ドアに視線を向けて、問う。
「はい、何方ですの?」
「アタシだよ、ロザリア。……入っても良いかい?」
ドアの外から聞こえたその声に、女は数瞬逡巡した後、答えた。
「……どうぞ、お入りになって」
その声の後、部屋に入って来たのは、華やかな衣装と化粧を纏う、一見女性とも見える長身の男だった。
「オリヴィエ」
ロザリアと呼ばれた女が、男の名を呼ぶ。
男――オリヴィエは、かつかつとヒールを響かせ、ロザリアの目の前に辿り着くと、唐突に言った。
「見届けて来たよ」
「……そうですの」
端的なその言葉に、数瞬の沈黙の後、ロザリアは答える。
「ご苦労様でしたわね、オリヴィエ」
――その日、聖地から一人の元守護聖が去って行った。
それは、先代今代と、長きに渡って聖地を支えた光の守護聖であり、即位したロザリアが、初めて臨んだ守護聖の交替式だった。
粛々と式を終わらせた後、下界への見送りをオリヴィエに託したロザリアは、早速通常業務へと戻っていたのだった。
「ホントだよ。アンタの頼みじゃなきゃ、あいつの見送りなんて願い下げなんだけど」
其処でオリヴィエは悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「アンタの『企み』、上手く行ったみたい。アタシも、最後の最後であの堅物のビックリ顔を拝める事になるなんて、思いもしなかったよ」
「もう……オリヴィエったら」
肩を竦めるオリヴィエの言葉に、ロザリアは苦笑しかない。
「だけどさ、ロザリア」
「何ですの?」
「終わった後で言うのも何だけどさ。本当に良かったのかい? これで」
その言葉に、ロザリアは苦笑を深くして、
「……あの方の御心は、結局最後まで私に向く事は有りませんでしたわ。あんな事をしたのですから、当然と言えば当然ですけれど。だとするなら、これは何時かは必ずしなければならない事ですもの。……だから、良いのですわ」
「……そうかい」
オリヴィエはただ、それだけを返す。
「……有難う御座います、オリヴィエ」
「え?」
唐突な言葉に、オリヴィエは今度は小さく目を見開いた。
「貴方が居て下さったから――独りじゃ無かったから、私は心を決める事が出来たのですわ。一人きりのままだったら、私はきっと、死ぬまで引き摺っていた事でしょう。その事、感謝してもし切れませんわ」
「……何だ、そんな事かい」
オリヴィエはくしゃりと顔を歪めて、
「アタシはね、ロザリア。どんな形だろうと、アンタが『幸せ』で居てくれるなら、それで良い。……それ以外に望む事なんて、何も無いんだよ」
「っ……オリヴィエ……っ」
ロザリアの瞳から、大粒の涙がポロリと零れる。
そしてそれは段々と速度を増して行き、オリヴィエは呆れた様な、慈しむ様な笑みを浮かべ、その指先でそっと涙を拭った。
「あーあーもう……ボロボロ泣いちゃってさあ……」
「だって……だって……」
ロザリアはもう、同じ単語を紡ぐ事しか出来ない。
「アタシに感謝してくれるんだったらさ、どうか笑って居ておくれよ。アンタは泣き顔よりも、笑顔の方が何倍も素敵なんだから」
「ええ……ええ……っ」
頷きながらも、彼女が泣き止むまでには、もう少しだけ時間が掛かりそうだった。