1.
「よう、ヴィクトール。」
ノックされた、と、思った瞬間、聞こえてきたのは、甘いバリトン。
すぐにカツカツと小気味のいい、軍靴の音が目の前で止まる。
現れたのは、世の女性たちのほとんどが恋に落ちる、と本人自身が豪語する神鳥宇宙の炎の守護聖オスカーだ。
慣れないデスクワークに悪戦苦闘していたヴィクトールは、その思わぬ訪問者に目を丸くした。
「これはオスカー様。 わざわざこちらまで、いったいどうしたというのですか? 何か火急の用件でも?」
すぐに席を立ち、腰を折る礼をとる。
年齢から言えば、ヴィクトールの方がはるかに上だが、長い間、オスカーはヴィクトールにとって雲の上の存在だった。
立場がそう変わらなくなった今でも、立ち位置というのは急に変わるものではない。
この刷り込みも、長い間身を置いていた縦社会の名残だろう。
「いや、宇宙は安定そのものだぜ。
それもこれも、こちらの宇宙の女王陛下のお力が安定しているおかげだろう。
…ヴィクトールの支えが、よほど力強いと見える。」
ニヤリとからかうような笑みを浮かべたオスカーに、ヴィクトールは苦笑を返した。
聖獣宇宙の女王コレットとヴィクトールとの関係は、すでに両宇宙で周知の事実になっている。
今更、照れることもないが、さすがにこちらで、それを堂々と言ってくる者は少ない。
始めの内こそ、レオナードやチャーリーに『若い彼女』などと囃されたが…。
ヴィクトールをからかっても面白くない、と知られてしまった今は、大抵のことはスルーされてしまうのが聖獣宇宙の日常なのだ。
「いえ、俺などの支えなど必要ないほど、陛下は素晴らしいお方です。」
「謙遜する必要はないぜ。
あの女王候補のお嬢ちゃんが変わったのは、間違いなく、ヴィクトール、お前の力さ。」
自分に自信が持てず、どこか儚げだった女王候補のころとは違い、今のコレットは女王として神鳥女王にも遜色ない。
もともとの女王の資質もあるには違いないが、自分が一役買っているのだとしたら。
…これほど嬉しいことはない。
大切な女性の助けになれているのだから。
「ところでヴィクトール。 今度の日の曜日は空いているか?」
「は? 日の曜日、ですか?」
急なオスカーの問いかけに、ヴィクトールは彼の顔をまじまじと見た。
まさかデートの誘いでもないだろうが…。
オスカーは少し困ったような、微妙な表情を浮かべている。
彼のこんな顔は…そう、少し前に、カフェで偶然出くわしたときに一度だけ見た。
先日、ヴィクトールがセレスティアに買い物に出た日、たまたまカフェでロザリアに会った。
本当に偶然の出会いで、なんとなく流れで二人でお茶を飲んでいたところに、オスカーが現れたのだ。
詳しい説明はともかく、その時、オスカーとロザリアの微妙な関係に、ヴィクトールは図らずも気づく羽目になった。
そして、余計なおせっかいとは思いながらも、オスカーに忠告めいたセリフまでかけて。
その後、二人がどうなったのかはわからない。
正直、今の今までヴィクトールはすっかり忘れていた。
「実はヴィクトールを見込んで頼みがある。」
真剣なオスカーの瞳に、ヴィクトールも目で頷く。
オスカーの表情から察するに、極めて重大な案件であることは間違いない。
ところが、その後、オスカーの口から飛び出した言葉にヴィクトールは絶句した。
「今度の日の曜日に、ロザリアをセレスティアまで連れ出してもらいたい。
希望としては、このカフェに、だ。」
オスカーが取り出したのは、セレスティアのニュースポットが掲載されている、いわゆるタウン誌。
大きく見開きで紹介されているのは、店で葉のブレンドまで行っているという紅茶の専門店だった。
「…ロザリア様は紅茶がお好きでしたな。」
ヴィクトールは先日のカフェで、ロザリアが紅茶を注文していたことを思いだした。
しかもそういえば、女王試験のころのお茶会も、ほとんどが紅茶だった気がする。
「ああ。 だから、ぜひ、ここまで連れてきてもらいたいんだ。」
オスカーの言いたいことはよくわかる。
紅茶好きなロザリアならば、この店をとても気に入るだろう。
けれど。
「オスカー様がご自分でお誘いになられたらよろしいのでは?
なぜ、俺が?」
至極まっとうな返答を返したヴィクトールに、オスカーは一瞬、明らかに困った顔をした。
ほんの一瞬で、ヴィクトールだからこそ気が付いたのかもしれない。
すぐにオスカーはいつもの気障な笑みで肩をすくめた。
「声をかけたさ。
だが、彼女は俺の誘いなんて、まるで冗談にしかとってくれないんだぜ。
『他の女性をお誘いになられたらいかがですの? なにもわたくしでなくても、お連れでしたらいくらでもいらっしゃるでしょう?』
なんてセリフであしらわれるだけだ。
いくら、君がいい、と口説いても、全く相手にもしてくれない。
挙句の果てには、しつこいとばかりに、補佐官室にも出入り禁止を食らっちまった。」
ヴィクトールの脳裏に、きりりと眉を吊り上げた美貌の補佐官の姿が浮かんだ。
彼女とて、先日のセレスティアでの様子を見れば、本当はオスカーの誘いが嬉しいはずだ。
でも、それを素直に受け入れることができない気持ちもよくわかる。
聖地一のプレイボーイ。 全宇宙の女性の恋人。
そう公言してはばからなかったオスカーの本気を、ロザリアは信じることができないのだろう。
「オスカー様のお気持ちもわかりますが…。」
断りの言葉を続けようとしたヴィクトールをオスカーが遮った。
「彼女に贈りたいものがある。
だが、俺が買って、プレゼントしても受け取ってもらえないだろう。
偶然、店まで連れて行って、そのまま、という形にしたいんだ。
日の曜日までは取り置きを頼んである。
…頼まれてくれないか?」
以前にも同じようにロザリアへとピアスを贈ろうとしたが、
『こんな高価なものを受け取る理由がありませんわ。』と、突き返されたと言う。
特別な理由を口にしないオスカーも悪いのだが、ロザリアも意地になっているのだろう。
素直になれないのは若者の特権でもあり、損な部分でもある。
言葉だけ聞けば、情けない。
けれど、ヴィクトールは、オスカーを笑う気にはなれなかった。
むしろ、真剣で純粋な想いに、何とか力になりたいとすら思ってしまう。
そもそも軍人あがりの男なんて、突き詰めてみれば皆こんなものなのだ。
自分とは似ても似つかない伊達男のオスカーであっても、本気の恋には不器用なもの。
「わかりました。 必ずお連れします。」
「頼むぜ。」
詳しい時間や店の打ち合わせをして、オスカーはヴィクトールの執務室を後にした。
少し照れくさそうな笑みはヴィクトールから見てもとても魅力的で。
そのまま彼女に本心を告げれば、決して悪くはならないだろうと改めて感じる。
それにしても。
机の上の書類に再び意識を向けようとしたヴィクトールは、ついこみ上げる笑いを抑えることができなかった。
本当にあの二人はよく似ている。
とても情の深いところと、不器用で素直じゃないところが。
ヴィクトールがオスカーの頼みを聞き入れたのは、実は大きな理由があった。
神鳥補佐官のロザリアが、ヴィクトールの元を訪ねてきたのは、つい昨日のこと。
「ヴィクトール、今度の日の曜日に、少しお時間をいただきたいのですけれど。」
ロザリアはまさにバラのような笑顔を浮かべて、ヴィクトールにそう告げた。
断られる、ということをまるで想定していないような口ぶりが彼女らしい。
実際、彼女に誘われて断る男は少ないのだろうし、誘われたくてうずうずしている男たちの姿がさっと何人も思い浮かぶほどだ。
それでも少し遠慮がちなのは、ヴィクトールに恋人がいることを考慮しているのかもしれない。
「はい。 構いませんが。
コレットもその日はある惑星からの使者との会食が予定されていまして、俺は一日暇です。」
苦笑しながら正直に告げる。
するとロザリアは途端に嬉しそうに顔を輝かせた。
「セレスティアにご一緒していただきたいんですの。
…あの、プレゼントを選ぶのを手伝っていただきたくて…。」
ほんのりと頬を染め、恥ずかしげに小首をかしげているロザリア。
初心で妄想癖の強い男なら、自分へのプレゼントを買うつもりではないか、と勘繰ってしまいそうなほどの可愛らしさだ。
普段、凛としたロザリアだからこそ、こういう乙女らしい表情に妙に男の部分を意識させられてしまう。
じっとヴィクトールを見つめてくる青い瞳に、ジワリと上がる体温と脈打つ鼓動。
もちろん彼女にはそんな意図はないのだろう。
全く天然というのは恐ろしい。
「俺にそんな大役はふさわしくないと思いますが…。
プレゼント選びであれば、オリヴィエ様やチャーリー辺りが適役では?」
思わずそう反論すると、ロザリアはますます頬を赤らめて、わずかに睫毛を伏せた。
「オリヴィエは…すぐにからかって、真面目に選んでくれませんもの。
チャーリーもですわ。
それに、ヴィクトールに選んでいただくものが、きっと喜ばれると思いますの。」
「そうでしょうか? 俺のような無骨な男が選ぶ物がいいとは…。」
「ええ。 実用的できちんとしたものを選びたいんですもの。
軍にいたあなたにしか、お願いできませんわ。」
そこで、ようやくヴィクトールはピンと来た。
てっきり女性当てのプレゼントだと思っていたが。
「失礼ながら、ロザリア様。
そのプレゼントはどなたに贈られるものなのですか?」
ヴィクトールの問いかけに、ロザリアは一瞬顔を上げて、また俯いた。
耳まで赤くして、つぶやいた言葉は。
「あの、オスカーに、手袋を、と思っていますの。
深い意味はありませんのよ。
この間の夜、わたくしが帰宅しようとしたら、たまたまオスカーに出くわして、家まで送っていただきましたの。
その時、彼の手がむき出しでとても寒そうで…。
わたくしも手が冷える性質ですから、気になったんですの。
お誕生日もクリスマスも過ぎてしまって、今更ですけれど…。」
本当は誕生日やクリスマスにプレゼントしたかったのだろう。
けれど、意地っ張りなロザリアは素直にオスカーにプレゼントすることができないのだ。
それにその2日間であれば、きっとオスカーの元にはたくさんのプレゼントが届く。
たくさんの中の一人にはなりたくない、という、女心。
だからこんな何でもない時期に、あえてプレゼントを贈ろうと考えたに違いない。
ヴィクトールのような朴念仁でも、痛いほどわかるロザリアの純粋な想い。
「わかりました。
俺でよければ、お付き合いします。」
そう答えたのは、ロザリアを慕うコレットも、きっとヴィクトールにそうするように勧めると思ったからだ。
ロザリアの幸せを、自分のことのように喜ぶコレットの姿が目に浮かぶ。
本当にごく当たり前に、ロザリアの申し出を受け入れたことが、今となっては恐ろしいほどの偶然といえる。
この偶然もまた、二人の運命なのかもしれない。
ヴィクトールとコレットが結ばれたように。
デスクの引き出しを開けたヴィクトールは、そこにある黄色いリボンを認めると、小さく微笑み、執務を再開したのだった。
約束の日の曜日。
時間ぴったりに現れたヴィクトールは、待ち合わせの場所に立つロザリアに目を見張った。
いつもはまとめている長い青紫の髪がゆるく波打って背中に流れている。
それだけでもずいぶん印象が違うというのに、素材の良さが一目でわかる純白のコートにロングブーツ。
コートの裾からチラチラと覗く千鳥格子のフレアスカートにすらりとした黒いタイツ。
そのスカートからブーツの間の脚のラインが絶対領域と呼ばれていることをヴィクトールは知らないが、妙に気になるのは確かだ。
もちろんそそられるはずなどないのに、本能的に色気を感じてしまい、目のやり場に困ってしまった。
よく見れば、周りの人々も皆、遠巻きに彼女を見ていることがわかる。
声をかけようか迷っている男たち、純粋に美貌に見惚れる女の子たち。
その視線の中をかいくぐり、ロザリアに声をかけるのは、戦地で敵に突進するよりもはるかに神経を削られる。
案の定、ヴィクトールに気が付いたロザリアが
「時間ぴったりですのね。 さすがヴィクトールですわ。」
と声をかけてきた瞬間、いろんな思惑の視線が突き刺さり、思わずため息が出たほどだ。
ロザリアは相変わらず無邪気にヴィクトールに微笑みかけてくる。
「さあ、参りましょう。 いくつか気になるお店がありますのよ。」
言いながら、ごく自然に、ロザリアはヴィクトールの隣に並んだ。
軍人として要人の警備にも当たったことのあるヴィクトールは、これが上流階級では当然の所作なのだと知っている。
レディファーストを旨とする世界では、男性が女性を守るように並ぶ。
けれど、知らない人が見れば、仲睦まじくデートしているようにも見えるだろう。
ヴィクトールは、この先に出会うであろう彼にまた少し同情しながら、ロザリアの隣についていった。
オスカーとの約束の時間まで、あと少しというところで、ようやくロザリアは気に入った手袋を買った。
何度もヴィクトールに問いかけながら、試着させ、選んだ手袋は、赤みの強いレザー製のモノ。
裏地はカシミアになっていて、とても暖かく手触りがよい。
「やっぱりヴィクトールにお付き合いいただいてよかったですわ。」
プレゼント用にラッピングされた包みを抱え、ロザリアは嬉しそうにヴィクトールを見上げた。
「わたくしでしたら、きっと、あちらの細身なほうを選んでいましたもの。」
「いえ、自分だったら、いちいち手袋を外さずに、作業ができる方が楽だと思ったまでです。」
「そこが違うのですわ。 こちらの手袋は指が動かしやすいだなんて。
…少しでも長く使っていただきたいですもの。
あ、違いますのよ。
そういう意味ではなくて、はめたままでいたほうが、寒くないでしょう? それだけのことですわ。」
そう言って、慌てたようにロザリアは包みをバッグの中にしまう。
少しバッグが大ぶりな気がしたのは、このためだったのかとヴィクトールにも思い当たった。
「お疲れになったのではありませんか?
よろしければ、この先に、紅茶で人気のカフェがあるらしいのですが。」
ロザリアに気取られないように、例のカフェへと誘導する。
「まあ。 わたくしが紅茶を好きなこと、ご存知でしたの? 嬉しいですわ。」
ロザリアは真っ直ぐにヴィクトールの瞳を見ながら、にっこりとほほ笑んだ。
途端にヴィクトールも笑みを返したのは、ふと、コレットのことが思い浮かんだからだ。
女王候補のころ、内気でなかなか人の目を見て話すことができなかったコレットに、ヴィクトールは何度も繰り返し教えた。
『まずは相手の目を見て話すこと。 逃げていては自分の言いたいことは伝わらないぞ。』 と。
はじめのうちは、逸らすばかりだった緑の瞳が、だんだんとヴィクトールのそれと重なるようになって。
いつの間にか、気持ちまでが重なっていた。
女王になった今、玉座のコレットは堂々と相手に話しかけている。
本当に、年頃の少女たちはあっという間に成長していくものだ。
「コレットのことを、考えていらしたでしょう?」
不意にロザリアに問いかけられて、ヴィクトールは慌てた。
カフェへと歩く道中とはいえ、知らずに無言になっていて、ロザリアを不愉快にさせたかもしれない。
「あ、いえ、・・・すみません。」
頭を掻いたヴィクトールに、ロザリアはくすっと笑う。
「とても優しい顔をなさっていたからわかりましたわ。
ヴィクトールは本当にコレットを大切にしていますもの。
ヴィクトールのような方に思われているコレットはとても幸せですわね。」
「そ、そうでしょうか・・・。」
「ええ。 なによりも誠実ですわ。」
ロザリアに浮かんだ寂しげな笑みは、自身の想い人を考えているのだろう。
ロザリアの悩みはヴィクトールが思っているよりも、ずっと深いらしい。
二人が想い合っているのは、傍目には明らかなのに、本人たちは否定するという微妙な関係。
お互いあと一歩を踏み出そうとしないのは、ヴィクトールが聖地に来るよりも過去に、よほどのことがあったのかもしれない。
けれど、いつまでも過去に囚われているのだとしたら、お互いに不幸になるだけだ。
ヴィクトール自身、長い間、過去に囚われたまま生きてきたからこそ、よくわかる。
「失礼ながら、自分はコレットと一緒にいて、全くの安心だなんて考えたことはありません。」
「え?」
ロザリアが目を見開く。
「確かに、暖かな気持ちも大きな安心もあります。
愛おしいのも確かです。
ですが、それだけではありません。
もしも彼女を失ったら、という不安や他の誰にも親しくしてほしくないという嫉妬心や…。
そんなマイナスの気持ちも常に抱えています。」
「信じられませんわ。 だって…あなたもコレットも、とても想い合っているじゃありませんの。
不安なんてありませんでしょう?」
ヴィクトールは小さく笑みを浮かべた。
いくら大人びているとしても、ロザリアはまだ恋に戸惑う少女なのだ。
不安におびえて、前に踏み出せない。
「不安だからこそ、俺は常に彼女にとって必要な人間であり続けたいと思っているんです。
人の気持ちは変わっていく物です。
けれど、変わっていく彼女に合わせて、俺も変わっていければ、永遠に続いていくこともあるのではないかと。」
女王になり、強くなっていくコレットはこれからもどんどん成長していくだろう。
そんな彼女にふさわしい男でい続けるためには、ヴィクトール自身も成長し続けていればいい。
年が離れているとか、身分が違うとか、そんなことは二の次だ。
一人の男として、彼女にふさわしい男でいればいい。
「変化を恐れていては、人は成長できません。
…ロザリア様も気が付いていらっしゃるのではないですか?
俺は以前のあの方を知りませんが、今のあの方はとても一途で純粋に見えます。
大切なものができれば、人は変わります。 俺もそうでしたから、よくわかります。」
ロザリアは何かを考えるように黙り込んだまま、ヴィクトールに従うように歩いている。
目当てのカフェまではあと少し。
ヴィクトールもあえて声をかけずに、ロザリアを連れて歩いていった。