1.
「じゃ、ね。 おやすみ。」
門の前で、軽く額へキス。
別れの挨拶はいつも同じだ。
「ええ。おやすみなさい。」
ニッコリと笑って、家の中に入る前に、もう一度、目を合わせてから軽く手を振り、ドアを閉める。
それが休日のデートの最後。
ロザリアがドアを閉めるまで、オリヴィエは絶対に目を離さない。
意外にも彼はとても紳士的なのだ。
外見は派手でチャラチャラしているように見えても、守護聖で一番常識的で大人な彼。
ドアに背を預けて、彼が去っていく気配を感じていたロザリアは、大きく息を吐いた。
なんだかとても気まずくて・・・でも、どうしたらいいのかわからない。
少し前まで、時々はお互いの家でゆっくり過ごすデートもあったし、どこかへ出かけても、最後は送り届けてくれた彼に屋敷の中でお茶を振る舞っていたものだった。
ところが、今は、彼は決してロザリアの屋敷の中へは足を踏み入れない。
彼の屋敷で会う時も、必ず使用人がいる日だけだ。
オリヴィエは意識的にロザリアと二人きりになることを避けている。
「ふう・・・・。」
バスに浸かりながら、自然にロザリアの口からこぼれるため息。
彼がなぜそうするのか、ロザリアもわかっている。
数か月前の、あの日の出来事。
あれがすべての原因なのだ。
アンジェリークが女王に就任してから、聖地には四季がある。
あれはまだ春というには少し風が冷たい時。
オシャレなオリヴィエに合わせようと、季節を先取りして、ロザリアは薄いシフォンのブラウスを選んだ。
透け感のある素材は春らしくて、淡いブルーにブークレのストライプが織り込まれた清楚感もいい。
新しい服をオリヴィエに見せたくて、まだ少し早いとわかっていたのに、ロザリアはそのブラウスを着てしまっていた。
もちろんスカートもブラウスに合わせた軽い素材の膝丈プリーツ。
少し丈が短い気もしたが、アンジェリークがいつも来ている私服に比べれば、まだ長いくらいで、特に派手でもない。
セレスティアを散策している間、軽やかな服装と同じように心も弾んでいて。
普段はしないようなこと。
例えば、ロザリアから彼に腕を組んだり、一つのアイスクリームを二人で食べたり。
それはそれは楽しいデートだった。
昼間はまだ高かった気温も、夜が近づくとグッと冷え込んでくる。
セレスティアを出て、いつものようにロザリアの屋敷でお茶を飲んでいた時、急な寒気にロザリアはぶるっと体を震わせた。
「寒いの?」
目ざとく、そのロザリアの様子に気が付いたオリヴィエが問いかけてきた。
彼は夜の冷え込みを予想していたのか、シルクのシャツにきちんとニットのジャケットを着ている。
ロザリアは小さく頷いた。
「ええ。 少し肌寒くなってきたみたいですわ。
薄着過ぎたかしら。」
困ったように笑ったとたん、向かい合っていたオリヴィエが立ち上がり、ロザリアの隣へと移動してきた。
広めのソファは二人で腰かけても狭さはまるで感じないが、突然縮まった距離感にロザリアのドキドキは止まらない。
二人でいることも、このくらいの距離も、特別なことではないのに…。
いつまでも慣れないのだ。
オリヴィエはごく自然な動作で、上着を脱ぐと、それをロザリアの肩にふわりと掛けてくれた。
今まで彼の身を包んでいたせいか、上着にはオリヴィエの香りが残っていて。
まるで彼に包み込まれているような気持ちにさせられる。
「ありがとうございます。」
鼓動が激しくなりすぎて、息が苦しくなったロザリアはただそれだけしか言えずに俯いていた。
すると、
「ロザリア。」
急にオリヴィエの声が耳元で聞こえたかと思うと、顎をとらえられ、唇が重なった。
キスはもう当たり前の行為だ。
触れ合わせて、角度を変えて、チュッと吸い上げられて。
遊びのような繰り返しの後、オリヴィエの舌がロザリアの口中に差し込まれてきた。
「ん。」
大人のキスはようやく覚えたところ。
まだ慣れない感覚に、ロザリアはどう答えればいいのかわからないまま、オリヴィエのシャツにしがみついた。
グッとオリヴィエの手がロザリアの腰を抱き、逃がさないとでも言うように、頭の後ろを掌で包み込まれる。
日ごとに熱くなるキスの温度。
オリヴィエの熱をロザリアも感じていないわけではなかった。
女王候補時代から数えれば、ロザリアとオリヴィエの関係はかなり長い。
はっきりと恋人として意識し始めてからも一年以上になる。
オリヴィエがロザリアとの関係をさらに進めたい、と思っていることをロザリア自身も感じていた。
「あ。」
激しいキスの中、ロザリアは自分の身体が仰向けに押し倒されたことに気が付く。
背中に触れるクッション。
彼の長い髪が頬に触れる感触。
キスはずっと続いていて、彼の舌が歯や顎をなぞっていくたびに、抑えきれない吐息が漏れてしまう。
ロザリアの頭を押さえていたオリヴィエの手がいつの間にか頬に降りていて、またさらに首筋にまで辿りついてきて。
細い指が首筋や鎖骨を愛おしげに撫でてくる。
すっと胸元に冷たい風が触れて、ロザリアは息を飲んだ。
キスの合間にロザリアのブラウスのボタンはいくつか外されていて、下着の位置までほんのわずかな部分まで、大きく開けられている。
腰を抱いていたはずのオリヴィエの手も、下へと降りて、ロザリアの膝を撫でていた。
長いキスが途切れたかと思った瞬間、オリヴィエの唇がロザリアの鎖骨に落ち、そのままふくらみを滑っていく。
ちゅっという音とともに、強く吸い上げられた痛み。
それまで誰にも触れさせたことのなかった場所へ彼が触れようとしているのを感じる。
こみ上げる羞恥心と戦いながらも、覚悟を決めて、ギュッと目を閉じた瞬間。
ふと、ロザリアはあることを思いだした。
無理をしたオシャレのせいなのだが…。
今日は困る。 今日は…。
さらにボタンを外そうとするオリヴィエの手を、気が付けば、ロザリアは強く押しのけていた。
「イヤ! ダメですわ!」
ロザリアは声を張り上げると、彼の手から逃れ、身体をソファの片隅に寄せた。
はだけたブラウスを両手でがっちりと掻き合わせ、青ざめた顔をしているロザリア。
「え? あ…。」
明らかな拒絶に、オリヴィエは戸惑った。
決して強引に事を進めようとしたつもりはない。
むしろ時間をかけて、今日までのタイミングを計ってきたつもりだ。
さっきまでの甘いムードやキスの温度。
今なら、ロザリアも受け入れてくれていると思ったのに、身体に触れることさえも許してもらえないなんて。
オリヴィエのダークブルーの瞳に、傷ついた色が浮かぶ。
一瞬の沈黙の後、目が合ったとたんに泣き出したロザリアを、オリヴィエは「ごめん・・・。」と、そっと胸に抱き寄せた。
ぽろぽろと涙をこぼすロザリアは、オリヴィエの謝罪に、首を横に振るばかりで、言葉が出ない。
『違う』と言いたいのに、口から出るのは嗚咽ばかりで。
自分でもどうしたらいいのかわからなくて、ますます涙ばかりが出てくる。
「嫌なことしてゴメン…。」
オリヴィエは髪を撫でながら、謝り続けてくれた。
優しい手。 いたわりの声。
ロザリアが落ち着くまで、オリヴィエは優しく腕の中で抱きしめてくれていて。
かえってロザリアは何も言えなくなってしまったのだ。
彼の手を押しとどめてしまった、本当の理由を。
なんとなくぎくしゃくしたままではあったけれど、表面上は変わらずに、平日はランチやお茶を過ごし、週末にはデートをした。
このまま、いつかはこの気まずさも消えるかもしれない、とロザリアが思い始めた頃の、ある月の曜日のこと。
女王アンジェリークが朝からやたらとソワソワして、ロザリアの顔ばかり覗き込んでくる。
書類のサインも不揃いなうえに、はみ出しがちで、とうとう、全然関係のない場所にまで、文字を書き込む始末だ。
「ちょっと、あんた、いい加減になさい!」
ついイライラと声を荒げたロザリアに、アンジェリークは首を縮めた。
「ごめんなさい…。」
「もう! もしも修正のきかない書類だったらどうするつもりですの?
また、各所に行って頭を下げて回るのは、わたくしなんですからね!」
大げさに怒って見せれば、アンジェリークはしょげたように大人しく俯いている。
こんな殊勝な態度は珍しい。
いい機会だ、と、ロザリアがさらに言いつのろうとすると。
「ね、やっぱりイライラしてるの?」
「え?」
それはあれだけ失敗を繰り返されれば、イライラもするだろう。
けれど、アンジェリークの言いたいことはどうやら少し意味が違うらしい。
「ロザリア、最近、あの、うーんと。」
「なんですの?」
「…オリヴィエとは上手く行ってる? 一昨日の土の曜日とか一緒だった?」
アンジェリークの瞳は心配に満ちていて、とても真剣だ。
冗談やからかいで聞いているのではない。
ロザリアは振り上げかけた怒りの拳を下ろして、ため息をついた。
「別に…。これといって変わったことはありませんわ。
一昨日…も夕方までセレスティアのアクアリウムで過ごしていましたし。」
二人とも肌が弱いから、夏場、戸外で一日過ごすことは少ない。
去年はお互いの屋敷でゆっくり過ごしたこともあったが、今年はまだ一度もそういうデートはしていないのだ。
なるべく涼しい個所を選んで、二人で見て回るようなデートばかりが続いている。
「夜、は?」
まだアンジェリークは食い下がってきた。
「夜は別々に過ごしましたわ。
…そんなにずっと一緒にいるわけではないですもの。 あんた達の方がおかしいのよ。」
アンジェリークとその恋人は、休みになれば一日中べったりだ。
金の曜日の夜から日の曜日の夜まで。
ほぼ48時間、片時も離れない。…もちろん、一つのベッドで夜を過ごしている。
「好きならずっと一緒にいたいのって、普通だもん。
そうじゃなくて。
今はわたしのことはどうでもいいの。
・・・その前の土の曜日は? その前は?」
「え? だいたいいつも同じですわ。
行く場所が変わるくらいで…。」
暗くなる前には門の前で額のキスを受ける。
オリヴィエの金の髪がキラキラと夕日に映えて、まぶしいくらいで。
本当はもっとずっと一緒にいたいのに…何も言えなくて。
「あのね、言おうか、どうしようか迷ったんだけど、さすがにもう一か月にもなるし、このままじゃロザリアがかわいそうだから。
わたしのこと、親友だと思って、ちゃんと聞いて。」
アンジェリークはぐっと瞳に力を込め、ロザリアの両腕をつかんだ。
思わぬ強い力にロザリアが狼狽していると。
「ここ何回か、土の曜日の夜、セレスティアでオリヴィエを見かけたの。
メイクもしてないし、服装も普通のTシャツとジーンズで全然別人みたいだったけど、間違いなく、アレはオリヴィエだったわ。」
「…そうですの。 たまの夜遊びくらい、べつに怒りませんわよ。」
本当はほんの少し寂しいけれど。
「もう! それだけなら別に何も言わないわよ!
…女の子と一緒だったの。 毎回、同じ女の子よ?
すごく仲もよさそうだったし…。 まさか、そんなことないと思うけど、浮気、とかじゃないかと思って。」
アンジェリークの手にさらに力がこもる。
浮気?
…土の曜日の夜にわざわざ変装めいた格好で会いに行くなんて、そちらのほうがよほど本気なのかもしれない。
お子様デートしかできない、つまらないロザリアなんかよりもずっと。
同じ夜を過ごすことのできる、大人の女性の方が彼にふさわしい。
「あのね、一度オリヴィエにちゃんと聞いてみたら?
…もしも浮気なら、わたしも一緒に復讐を手伝うから! 」
アンジェリークは、まだなにかを滔々と話している。
けれど、その声はほとんど耳に入らず、ロザリアは呆然と立ち尽くしていた。