あかのいと

1.


重いガラス張りの回転ドアから吐き出されるように外に出ると、
「いい天気だねえ」
オリヴィエは眩しすぎる太陽を避けるように額に手をかざし、目を細めた。
透き通るような青い空。 爽やかな風。
夏から秋へと移ろう季節の変わり目の朝は、薄手のジャケットがちょうどいい気候だ。
もう少し気温が上がれば袖をまくることにはなるだろうが、今はこれでいい。

すうっと吹き抜ける風がいつになく涼しく感じる首周りに手をやって、「あ」と声が漏れた。
「そう言えば結んでるんだっけ」
慣れない感覚に戸惑いながらも、その涼しさが心地よくて、つい口笛なんかを吹いてみたりしてしまう。
聖地なら浮いてしまう仕草でも、ここでは特に目立たない。

このごろの聖地はなんだか重い空気が立ち込めていて、息が詰まる。
おそらく『何か』が起きようとしているのだろうけれど、その『何か』をまだ知らされていない状況。
女王補佐官やジュリアスが隠そうとしているから、あえて聞き出そうとは思わないけれど。
彼らのピリピリした様子が聖地全体まで覆っているようで…。

他の鈍い守護聖達はともかく、そういう事象に敏感なオリヴィエとしてはあまりいい気のするものではない。
だから、主星への出張を言い渡された時、内心、いい気分転換になると思った。
ついでに休暇を取って、下界でちょっと羽を伸ばすのも悪くない。
それなら、いっそ全く違う自分になり切ってしまおうか。
悪戯心がムクムクと湧いてきて、つい凝ったシチュエーションを考えてしまった。

フリーのジャーナリストで、現在、取材旅行中。
これなら堅苦しいネクタイもいらないし、ラフなファッションでも許されそうな気がする。
ノーメイクのまま、長い髪を一つにまとめ、メッシュを隠すようにソフトな中折れ帽をかぶる。
淡いカラーシャツにフォーマル過ぎないジャケット。
ごつめの黒ぶちメガネをかけると、それだけで少し知的に見えるから不思議だ。

名前も身分も偽って、守護聖ではない自分になって過ごす休日は、どんな出来事が待っているのだろう。

さっさと出張の目的を終わらせたオリヴィエは、残りの日程をどう過ごそうかと考えながら、下界の街並みを楽しんでいた。
歴史を感じさせる石造りの建物の中、活気にあふれた人々が行きかう街はエネルギーにあふれている。
流行のファッションや食べ物。
オリヴィエの目に映るすべてのものが新鮮で楽しい。
つい鼻歌交じりで歩いていると、不意に鋭い声が耳に飛び込んできた。


「ちょっと! お金!」
なにげなく足を止めたオリヴィエが声のする方へと視線を向けると、なにやらもめ事の真っ最中のようだ。
片手に小さなブーケを持つ少女と、その少女の腕をがっちりつかんだ子ども。
姉弟、と言われれば納得できるかもしれないが、二人の雰囲気は明らかに簡単なケンカというものには見えない。

「お金! お金払ってよ!」
その言葉にオリヴィエはわずかに眉を寄せた。
きつい瞳で睨み付ける子どもは、観光地によくいる造花売りだろう。
デート途中の恋人や若い男女に声をかけ、花を買ってもらうことで、わずかな日銭を稼ぐ。
観光地ではよくある子どもを使った商売だ。
少女の腕をつかんでいるのとは反対側の手には、華やかな柄のペーパーに包まれた小さなブーケが入った籠がぶら下がっている。
服装こそそれほどみすぼらしくはないが、痩せた手足が、その子どもの境遇を如実に表していた。

女王陛下の庇護があっても、争いも貧困もなくなることはない。

「お金…今は持っていませんの」
少女の声には明らかな困惑が見てとれた。
「この花代くらいは持ってるだろ?」
子供は掴んだ手を緩めることなく問い詰める。
「たったの200だぜ? まさかそれっぽっちも持ってないっていうのかよ!」
「…ごめんなさい」
少女は申し訳なさそうに睫毛を伏せ、手にしていた花を子供に返そうとしている。
けれど、子供は花を受け取ろうとはせずに、さらに声を荒げて、地団太を踏んだ。
「あんたが受け取ったのに、今更返すとかないだろ! 金、金を払ってくれよ!」
「本当にごめんなさい」
責める子供とただ謝るだけの少女。

初めは足を止めていた周囲の人々も、次第に歩き出し、もとの日常の流れが戻ってくる。
それだけ、この程度の小さないざこざは、街にありふれた光景なのだ。

「本当にお金がありませんの」
繰り返す少女に、子どもも疲労を感じたのか、押し黙ってしまった。
少女が本当にお金を持っていない様子なのはわかっていても、これだけ粘った手前、あっさり開放することもできない。
どうすればいいのか、きっと子ども自身途方に暮れているのだろう。
けれど、この騒ぎが続けば、いずれはよくない輩が寄ってきて、少女にとって不利な状況になることは間違いない。
観光地でこの手の商売をする子どもには、たいていバックがついているということを、オリヴィエはよく知っていた。

「200だっけ?」
オリヴィエは花籠に硬貨を落とすと、子どもの頭をポンと叩く。
突然の出来事にギョッとした子どもが咄嗟に少女から手を離したすきに、オリヴィエは少女の身体を自分の方へと引き寄せた。
少女を取られた子供は一瞬、しまった、という表情を浮かべたが、すぐに
「な、なにすんだよ!」
と、食って掛かってくる。
「こいつが花を手に取ったのに、金を払わないから…!」
「それなら、今、籠に入れたよ。」
オリヴィエがにっこりと笑って籠を指さすと、子供は慌てて籠を漁り、2枚の硬貨を取り出した。
「これでこのコは解放してくれるでしょ?」
子どもは少しホッとしたような顔で、こくんと首を縦にすると、すぐに人ごみの中へと駈け出していった。
きっと彼も本当はこんないざこざを望んではいなかったのだろう。
ただ…生きていくためには仕方がない。


オリヴィエは子供の背中を見送った後、改めて少女に向き直った。
特に引き止めていたわけでもないのに、少女はオリヴィエが引き寄せたところに、そのまま立っている。
お礼の言葉くらいはもらおうか、と、初めて彼女の顔を見たオリヴィエは、ハッと息をのんだ。
子どもと一緒にいるときは、彼女の全く体のサイズに合っていない、流行おくれの茶色のワンピースばかりが気になっていた。
今どき珍しいおさげ髪で、ぺたんこのパンプスも野暮ったい。
だから、てっきり田舎から出てきたばかりの少女が、訳も分からず、花売りの子どもから花を受け取ってしまったのだろう、と、思い込んでいた。
オリヴィエ自身、出生地の惑星から初めて主星に出てきた時、その煌びやかさに圧倒され、ずいぶん、ひどい目にもあったから。

けれど、
「ありがとうございました」
凛と涼やかな声を紡ぐ、形の良い唇。
真っ直ぐにオリヴィエを見つめる、サファイヤのような青い瞳。
少女は、美しいものを見慣れたオリヴィエでさえも、驚くほどの美貌を持っていた。

「あの子が差し出したお花をてっきりプレゼントだと思って受け取ってしまったんですの。
 …お金が必要だなんて、思いませんでしたわ。」
彼女の説明はおよそオリヴィエの予想通りだった。
世間知らずな少女だからこその勘違い。
唯一、違っていたのは、彼女は花をプレゼントされることに慣れているからこそ、受け取ってしまったのだという事。
彼女にとって、花は『買う』ものではなく『もらう』ものなのだ。

「なにかお礼をしたいと思いますけれど、今はなにもありませんの。
 あ、このお花はお返しいたしますわ。」
少女は手にしていた花をオリヴィエに差し出す。
オリヴィエはくすりと笑みを浮かべると、その花を彼女へと押し戻した。

「いいって。 私が持ってるより、あんたが持ってる方がキレイに見えるし。」
素朴な造花のブーケだが、彼女が持っていると、本当に美しい花のように見える。
「今日の出会いの記念に、なんてキザすぎるかな?」
オリヴィエの軽口に、少女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔になった。
「ありがとうございます。」
すっとスカートのすそを摘まみ、膝を折る礼をする少女の所作は、優雅で気品にあふれている。
どこかのプリンセスと言われても納得してしまうだろう。

オリヴィエの中に、またムクムクと好奇心が湧いてきた。
彼女はいったい、何者で、なぜ、ここにいるのだろう。
変装というにはあまりに杜撰な格好といい、お金を持たずに出ていることといい、突発的な行動なのだろうが、家出、という可能性もある。
いずれにしても、一人にするにはあまりに危険だ。
オリヴィエは少し考えた後、生真面目な様子でじっと対している彼女に優しく笑いかけた。

「ねえ、あんた、この後ってヒマ?」
「え?」
怪訝そうに眉を寄せる少女に、オリヴィエは畳み掛けた。
「さっきのお礼って言ったらなんだけど、この後、ちょっと私に付き合ってくれない?
 気楽な一人旅なんだけど、実はちょっと退屈しててさ。
 誰かとこの街を廻りたいな、って思ってたんだ。」

NOと言わせない喋りには自信がある。
それに、さっきの出来事が彼女には負い目にもなっているはずだ。
案の定、彼女はすぐに断ることができずに考えるようなそぶりを見せた。

「一人じゃカフェも入りにくいし、この町の素敵なところを語り合うこともできないでしょ?
 予定が無いなら、お願い。 付き合ってくれるなら、なにかご馳走くらいはするからさ。」
軽く拝むような仕草で手を合わせると、しばらくたって、ようやく彼女は頷いた。
「わかりましたわ。 わたくしでよければ、お付き合いさせてくださいませ。
 でも、わたくしもこの町のことは全く知りませんの。 ご案内はできませんけれど、よろしいかしら?」

決断してしまえば、楽になったのだろう。
彼女は青い瞳をまっすぐにオリヴィエに向けてくる。
澄んだ瞳に映る自分の姿が楽しくて、オリヴィエは伊達メガネの縁をくいっと手の甲で持ち上げた。
「ありがと。 じゃ、行こうか」
声をかけながら歩き出すと、きちんとついてくる足音が聞こえる。
オリヴィエは少し歩調を緩めて、彼女の隣に並ぶと、楽し気に笑いかけた。


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