8.
穏やかに時間は流れていく。
聖地の年月で数年が過ぎ、いよいよティムカにも守護聖交代の時期が訪れた。
一通りの手続きを終え、一人、聖地の門をくぐる。
かつての仲間も大半が入れ替わり、ティムカが去った後は、メルがリーダーとして皆をまとめていくことになっている。
月日の経つのは早い。
振り返る暇もないほど、本当にあっという間だ。
そのまま、まっすぐにアルカディアに向かったティムカは、町はずれの小さな家のドアを叩いた。
「ティムカ!」
待ちきれずに飛び出してきた栗色の髪を抱きしめる。
見上げてくる緑の瞳を、ティムカは愛おしげに見つめ返すと、彼女の髪を耳にかけて囁いた。
「やっと、貴女のところに来ることができました。 お待たせしてしまいましたね、アンジェリーク。」
一足先に女王を退任したアンジェリークは、ティムカの任期が終わるまで、アルカディアで暮らしていた。
長い間、生き別れのような結末を迎えるしかなかった守護聖と女王の恋。
それをこのアルカディアが変えてくれたのだ。
聖地でもなく、下界でもない場所。
聖地と同じ時を刻む場所。
この地でお互いを待つことができるようになったのは、神鳥宇宙の先代女王と補佐官のおかげだった。
「自分たちのためだよ。 ね、ロザリア。」
「ええ。 このまま別れてしまうなんてできませんもの。」
あっけらかんと言うリモージュがどれほど非難されてきたか。
優雅に笑うロザリアがどれほどその矢面に立ってきたか。
あの時の聖地に関わった人間ならば皆、知っている。
自分たちのため。 そして、未来の恋人たちのため。
古い慣習を破り、愛を貫いたのだ。
そんな二人もやがて、お互いの恋人の守護聖と、それぞれの世界へ旅立って行った。
ロザリアとオリヴィエが立つ最後の日、ティムカはこっそりと二人を見送りに来た。
あの日のことを、ロザリアがずっと負い目に感じていたことを知っていたからだ。
「オリヴィエ様、ロザリア様、どうかお幸せに。 お二人には、とても、とても、感謝しています。」
胸に手を当てて、最大限の礼をする。
あの出来事できちんと振り切ることができたからこそ、今のティムカがいることを、ロザリアにわかってほしかった。
もう敷かれたレールの上をただ歩いているわけではない。
この道は自分で選び取った道なのだ、と。
わずかに見つめ合っただけで、二人には通じたのだろう。
「ティムカ。 あなたもお幸せに。」
涙ぐむロザリアをオリヴィエが優しく抱き寄せる。
二人の強い絆を心から感じて、ティムカもまた涙が出そうになった。
人との別れはいつでも寂しいけれど、そのたびに、ティムカを強くもしてくれた。
彼女たちも、先に聖地を立った懐かしい人々も、今はもう、この世にはいない。
「今日からはずっと一緒ね。」
アンジェリークのはしゃぐ声にティムカはほほ笑んだ。
待つことを許されても、一緒に暮らすことはできない。
休みの日にティムカから訪れ、わずかな時間を共に過ごすだけの、言ってみれば遠距離恋愛の日々だったのだ。
初めはレイチェルも同じ家で一緒に暮らしていた。
けれど、エルンストの退任とともに、彼女も去り、それからはアンジェリークもずっと一人。
寂しくて、不安なことももちろんあっただろう。
何度かすれ違いから、喧嘩をしたこともあった。
それらを全部乗り越えて、今の二人がある。
「アンジェリーク…。」
思わず腕を伸ばし、抱きしめたティムカに、アンジェリークも体を預ける。
長い口づけの後、ティムカは腕の中のアンジェリークに言った。
「お願いがあります。 一度だけ、白亜宮の惑星に行ってくれませんか?
最後に見ておきたい場所があるんです。」
アンジェリークはすぐに頷いた。
アンジェリーク自身も、一度見てみたいと思っていたのだ。
ティムカが生まれ、育ち、彼の心の中で決して譲れない一部を占める、その星を。
特別に申請して、白亜宮の惑星に向かう。
一度きり、との約束で、次元回廊と星の小道を使うことを許可してもらったのだ。
緊張した面持ちで歩くティムカに、アンジェリークが付いていく。
あの日と同じ場所に降り立った瞬間、ティムカの足はまるで動かなくなった。
目の前に広がる光景は、あの時とまるで違っている。
はるか遠くに臨む黄金色の波。
整った白い街並み。
荒れていた土地が、見事によみがえっていた。
「ティムカ…?」
隣に立つアンジェリークがティムカの手にそっと触れる。
暖かいその手のぬくもりに励まされて、ティムカはまっすぐに顔を上げた。
頬を通り過ぎる柔らかい風。
燦々と降り注ぐ太陽に照らされる、白く続く石畳。
足元には相変わらず砂があるけれど、それはつま先を軽く通り過ぎるだけで、さらさらと流れていく。
整備された都市の美しさ。
それでも、白亜宮の惑星の持つ、特有の美しさは少しも損なわれていない。
ティムカはアンジェリークと手をつなぎ、町の方へ進んだ。
人の声のする方へ足を向けると、たくさんの店が立ち並ぶ、賑やかな通りがあった。
「安いよ!」
「今日のお勧めはこれだよ!」
呼び声を耳にしながら、店を通り過ぎていく。
あの時では考えられなかった人々のエネルギーが、その通りには満ち溢れていた。
大通りを抜け、王宮跡に着く。
公園として整備された入り口から中に入ったティムカは、建物の前に立った。
ドームの形と白い壁はそのままだが、老朽化が進んでいるため、中には入れないようになっている。
張られたロープ越しに、記憶の中と変わらない、床の模様を見つけた。
弟や従者たちと駆け回った思い出。
こみ上げる気持ちは、ただ、懐かしい。
ゆっくりと、建物の周囲を巡り、中庭に出たティムカは、その場に立ち尽くした。
赤い花が咲いている。
母の愛した花が、花壇を埋め尽くすほど、一面に。
堪えようと思っていたのに、まぶしい赤に目の前がかすんだ。
頬に伝う、ぬくもり。
どうして、と、問うよりも前に、心の奥で声がした。
『ティムカ!やっぱり来てくれたんだね!』
メーデルが駆け寄ってきて、足に抱き付いてくる。
『どうだ?約束を守っただろう?』
サライがポンと掌を頭に乗せてくれる。
彼らからの、確かなメッセージ。
「ありがとうございます…。」
ティムカは立ち尽くしたまま、何度も呟いていた。
風が頬の涙を乾かすまで、何度も。
ティムカが落ち着いた頃、いつの間にか側を離れていたアンジェリークが戻ってきた。
彼女らしい心遣いで、ティムカを一人にしてくれたのだ。
「アンジェリーク。 どこへ行っていたんですか?」
気恥ずかしさで、そっけなく問いかけると、
「ふふ。 あそこでいろんなお土産を売っているんです。
この星の名産品とか。 こういうのも。」
柔らかく微笑む彼女の手には一冊の絵本。
ブルーでイメージされた絵本の表紙には、一匹の大きな竜が描かれていた。
「ねえ、見て。 ティムカ。
この星の昔ばなしなんだけど、あなたと同じ名前の王様が、ある日、水龍になって、天に昇るのよ。」
「ああ、そのお話なら知っています。」
サライにも言われたことがあった。
伝説の龍王。
天に昇った後も、この星を見守っている、という当たり前な結末の昔ばなしだ。
アンジェリークは楽しそうにページをめくっては、ティムカに見せている。
けれど、なんとなく絵で描かれている龍王も自分に似ている気がして、直視しにくい。
アンジェリークが小声で読んでいるのを、ティムカは隣で静かに聞いていた。
思えば、こんなに優しい時間も、なかなか持てなかった気がする。
「天に昇った龍王は、いつも故郷を見ていました。
懸命に生きる人々を、ずっと天から見守っていたのです。
ところが、ある時。
星に大きな災害が襲いかかりました。 炎が街を焼き、畑も水も奪い、人々を長く苦しめていたのです。
見かねた龍王は、再び、人の姿に戻ると、この星へ降り立ちました。」
「え?」
ティムカはアンジェリークの横から絵本を覗き込んだ。
ページをめくり、龍王が天に昇った後の話を読む。
『龍王は星の変わり果てた姿を嘆き、その力を使って、人々に水を与えました。』
「これは…。」
ページをめくる指が震える。
あの時、サライの話にはこんな続きはなかった。
天に昇ったところで終わっていたはずだ。
最後のページには、空に昇る龍とそれを見送る男女の姿が描かれている。
『人々に星の未来を託し、龍王は再び天へ昇って行きました。
今もきっと、天の上からこの星を見守り続けているでしょう。』
あの日以来、もちろん、この星に足を踏み入れたことはない。
それでも、気にかけていた。
サライが初代の代表となり、繁栄の礎を築いた。
メーデルがその遺志を継ぎ、2代目の代表となり、更なる発展の時代を迎えた。
そして、その後も、この星の人々は、見事な治世を続けている。
たった今、そのことを実感してきたばかりだ。
「…ダメですね。 こんなに泣いてばかりでは。 貴女に嫌われてしまいそうです。」
またジワリと浮かんだ涙を指でぬぐい、ティムカは笑みを浮かべた。
アンジェリークは小さく首を振ると、ティムカの腕に寄り添う。
「ティムカ、 私、 この星で暮らしてもいいのよ?」
住む場所はすでに決めているが、ずっとアンジェリークも考えていたのだ。
彼は本当はここへ帰りたいのではないか、と。
もしもティムカが望むなら、それはアンジェリークの望みにもなる。
けれど、今度はティムカが首を振った。
「いいえ。
二人で決めたでしょう?
貴女が産み、私達が育てた、あの聖獣の宇宙で共に生きていこう、と。」
アンジェリークを見つめる黒曜石の瞳にはもう涙はない。
ティムカは花壇に咲いていた赤い花を一本折り取ると、アンジェリークの髪にさした。
栗色の髪に赤い花が美しく映える。
「とても、綺麗です。」
ほほ笑むティムカに、頬を染めたアンジェリークも微笑みかえす。
「この花を植えてもいいですか? 二人の家に。」
いつかこの赤い花が二人の家を鮮やかに彩ったら。
子供たちの髪にも花を差すのだ。
遠い昔、ティムカの母がそうしてくれたように。
再びアンジェリークと手をつなぎ、王宮を後にしたティムカの髪を風が優しくさらう。
『頑張れよ』と、暖かい手を置かれたような気がして、ティムカは眩しい空を仰いだ。
きっと、この星を訪れることは二度とないだろう。
それでも、忘れることはない。
どれほど遠く離れていても、この星が、ティムカにとっての、永遠の『故郷』なのだから。
Fin