1.
毎日毎日執務に追われて、今日も気が付けばもう夜。
ロザリアは補佐官室で時計を見上げ、ため息をついた。
連日の残業。
なんとか区切りをつけたところで、執務服を着替え、聖殿を出る頃には、もう21時だ。
それから屋敷について、軽く食事をして、入浴すれば、かるく23時をまわる。
やっと自由時間になっても、平日は朝8時半には聖殿に出仕していなければならないから、十分な睡眠をとろうと思えば、ほどなくベッドに入るしかない。
朝起きて、執務をして、帰って、寝るだけの毎日。
たまの休みと言えば、お茶会があったり、パーティがあったりして、ほとんどが潰れてしまう。
そもそも、この職場とプライベートがいっしょくたになっている状態では、全くのオフ、というもの自体が存在しないと言っていい。
その繰り返しの生活が補佐官になってからずっと続いているのだから、ため息の一つも出ようというものだろう。
忙しいのはキライではない。
やりがいのある仕事にも満足している。
ただ、ほんの少しだけ。
なにか日常と違う素敵な出来事が突然舞い降りてきたりはしないかと、時々、ふと思うのだ。
女王の在位には決まりがない。
崩壊する宇宙を食い止めるためにサクリアの消費が激しかった先代女王は、数年で退位することになった。
若いうちに聖地を出た先代女王とディアはすでに、新しい人生を歩んでいると聞いている。
きっともう恋人もいて、もしかすると結婚なんかもしているのかもしれない。
けれど、記録によれば、死ぬまで在位していた女王もいるし、それこそ50、60まで勤め上げた女王も数多くいるのだ。
当然、アンジェリークと宇宙を共に支えると約束した身としては、彼女の在位が終わるまでは聖地に留まることになるだろう。
そうすれば、ずっとこんな状態が続くのかもしれない…。
ロザリアは補佐官室の鍵を閉めると、再びため息をついた。
明日は久しぶりに何もない土の曜日。
でも、これほど疲れていれば、きっとなにもせずに一日が終わってしまうだろう。
せいぜい掃除をして、読書をする程度。
それはそれで充実しているのだけれど、なんとなく寂しい。
この時間、当然のように聖殿は真っ暗だ。
一応警備はしかれているが、この平穏な時期には、時々巡回がある程度で、とても人の気配がするようなものではない。
静寂のなか、聖殿の門をくぐり、小径を進む。
なかば機械的に足を動かして、いつもの家路を辿っていたところで、ロザリアは不意に足を止めた。
近道として通っている小道の片隅に、なにかが転がっている。
一見すると、丸く、大きな岩のように思えたが、よく見ればそれは人間らしい。
ようするに、何者かが、膝を抱えて蹲り、丸くなっているのだ。
ロザリアは思いがけないモノに、眉を寄せたが、その尋常でない様子にすぐに気が付いた。
人影は蹲ったまま、小刻みに震えている。
ロザリアは思わず、駈け出していた。
近づいた途端、雲が切れ、月の明かりにその人影の姿が浮かび上がる。
金の長い髪。 細身の身体。
ロザリアは声をかけるために、目線を合わせようと地面に膝をついて、その人の顔を覗き込んだ。
「え? あなた…。」
一瞬、よくわからなかった。
その人の服装も雰囲気も普段の姿とはまるで違っていたから。
けれど、目の下の特徴のあるホクロと、毎日のように顔を合わせているおかげで、なんとなく覚えてしまった香りで、気がついた。
横っ腹を抑えて蹲るその人は、ロザリアの同僚、夢の守護聖オリヴィエだったのだ。
「あ、あんた、ロザリア…。」
蹲るオリヴィエはじっと横腹を抑えている。
月明かりでもわかる、額に浮かんだ脂汗と妙に青ざめた顔。
体調が悪いのは一目瞭然だ。
「どうなさったんですの?」
背中をさするように掌をおくと、オリヴィエは一瞬体をこわばらせて、大きく息を吐いた。
「ちょっと良くないものを食べちゃったのかも。 …しばらくすればよくなると思うから、このままほっといて。」
絞り出すようにそう言ったオリヴィエに、ロザリアの頭の血が上る。
「病人を放っておくなんてできるはずありませんでしょう?!
わたくしの屋敷ならすぐそこですわ。 そこまで参りましょう。
さあ、手をこちらに。」
ロザリアはオリヴィエの背中に手を回し、抱え上げるように立たせた。
少し抵抗するように、体をよじったオリヴィエだったが、結局はロザリアに寄り掛かるようにして、なんとか立ち上がる。
ずきずきした痛みはさっきからずっと止まる気配もない。
実際のところ、オリヴィエも、このままここにいてもどうしようもない気がしていたのだ。
情けないけれど、ここは天の助けにすがるしかない。
重い体を引きずるようにして歩くオリヴィエを、ロザリアは支えながら誘導していった。
オリヴィエにしてみれば、ロザリアの細い体に重みをかけるのは気が引けたが、今は遠慮できるような状態ではない。
足を踏み出そうと力を入れるだけで、グッと腹部に圧がかかるような痛みがくるのだ。
オリヴィエが彼女に寄りかかるようにして、少しずつ足を進めていくと、本当にすぐにロザリアの屋敷に着いた。
この時間だからか、屋敷には誰も姿もない。
主人の帰りを待って点いていた玄関のランプだけが、ぼんやりと二人を出迎えた。
「さあ、こちらへどうぞ。」
ロザリアにバスルームへと案内されたオリヴィエは正直、ホッとしていた。
しばらく座り込んでじっとしていると、次第に痛みが和らいでくるのがわかる。
金の曜日の夜という気安さから、オリヴィエはいつものように下界へ降りて、ちょっとよくない場所へと遊びに出かけていた。
脂粉と紫煙の香りと嬌声の混じる、いわゆる盛り場。
たいして上等ではない酒と体に良くないジャンクフードを片手に、手近にひっかけた女と夜を楽しむ。
そんないつもの週末の夜だったのに。
突然、猛烈に体の奥が痛み出した。
胃が喉元までせり上がってくるような笑えないほどの痛み。
店の人間たちも心配して、病院へ行くように勧めてくれたが、この地でのオリヴィエは異邦人だ。
なんの証明も持たず、素性もわからない、となれば、騒ぎになることは必定。
そんなことになったら…考えただけでも恐ろしい。
慌てて、店を飛び出し、聖地へと舞い戻ってみたものの、途中でどうにも動けなくなった。
少しやり過ごせばなんとかなるかもしれない、と、その場に蹲ってはみたものの、今度は立ち上がるのも辛くなってきたのだ。
猛烈な腹部の痛みは、今にも破裂しそうなほどで、背中はひやりとするのに、額に汗がにじんでくる。
こんなところで醜態をさらすのはたまらない。
そう思っていたところにロザリアが現れたのだ。
声をかけてきた彼女を、オリヴィエは追い払いたかった。
堅物で自己中な鼻持ちならないお嬢様。
女王試験のころから、オリヴィエがロザリアに対して抱いていたイメージは、およそそんなところだ。
こんなところを見られたら、大騒ぎされたうえ、説教の一つでも食らうはず。
ましてや下界に行っていたなんてことが知れたら…。
ジュリアスに告げ口でもされて、処分を受けるかもしれない。
それに、ロザリアの性格ならば、苦しんでいるオリヴィエを見ても、眉ひとつ動かさず、放っておくだろうとも思った。
「あら、そうですの。ごきげんよう。」 などと言って、すたすたと去っていく姿が容易に思い浮かんだくらいだ。
ところが。
見捨てるどころか、ロザリアはオリヴィエを心配して、屋敷にまで招いてくれた。
身体が重く、ロザリアに寄りかかるようにして歩いたオリヴィエを一生懸命支え、ここまで連れてきてくれた。
イメージとは程遠い、ロザリアの姿。
意外すぎて、戸惑ってしまう。
とりあえず、痛みが治まったのを確認して、オリヴィエはバスルームを出た。
廊下にともるわずかな明かりを頼りに、ロザリアを探してみる。
守護聖の屋敷に比べれば、補佐官の屋敷は随分こじんまりとした印象だ。
もちろん造りは豪奢だし、立派なのは間違いないが、正直広くはない。
LDKとせいぜいあと二部屋。
おそらく一人で暮らすことを前提にしているのだろう。
使用人も通いしかいないのか、まるで人気がない。
今まで気にしたことはなかったが、女王や守護聖とは明らかに扱いが違うことがわかって、何か切なくなった。
主星の家ではばあやさんもいたくらいのお嬢様なのに、今はこの家にたった一人きり。
寂しくはないのだろうか。
玄関近くの一番大きなドアを開けてみると、そこはLDKだった。
豪華なソファやセンターテーブル、優美な曲線を描くチェスト。
貴族らしい趣味の家具ばかりだが、不思議と厭らしさは感じない。
ごてごてとした飾りもなく、いたってシンプル。
けれど、全て洗練された上質のモノだ。
ファッションやインテリアを見れば、だいだいの人間性がわかる、とオリヴィエは常々思っている。
今、この部屋から受ける印象が正しければ、ロザリアはとても真っ直ぐな育ちをしていると言えるだろう。
「あら、オリヴィエ。 少しは良くなりまして?」
キッチンへ抜けるアーチからロザリアが顔を出した。
「もう大丈夫。 ありがと。」
オリヴィエがウインクと共に声をかけると、ロザリアはまたキッチンへと引っ込み、今度はトレーを手にして戻ってきた。
トレーの上には大きめのマグカップが二つ。
ホカホカとした湯気が流れている。
「どうぞお座りになって。」
ロザリアに促されるまま、オリヴィエは中央のソファに座った。
身体を包み込むクッションの良さは、やはり上質な羽毛で、座り心地もいい。
それにいつの間にか、すっかり痛みも落ち着いていて、身体を動かすのにも問題はなさそうだ。
オリヴィエはゆったりと足を組んだ。
「よろしければ、どうぞ。」
湯気の立つマグカップからは甘い香りが流れてくる。
オリヴィエはカップを手に取ると、こくり、と一口飲み込んだ。
「へえ、美味しいね。」
ほど良い温かさとほんのりした甘さ。
痛みでこわばっていた体がゆっくりとほどけていくような優しい味だ。
「ロイヤルミルクティーにはちみつを入れたものなんですの。
紅茶の葉は本当に少しだけですから、ホットミルクと言ったほうがいいかもしれませんわね。
わたくしが子供のころ、体調が悪いとばあやが作ってくれましたの。」
優しくほほ笑むロザリアに、オリヴィエもほほ笑み返した。
たしかに身体だけでなく、心まで温まるような気がする。
それにわざわざロザリアが自分のために淹れてくれたことが純粋に嬉しい。
「お体は?」
「ホントに大丈夫。 助かったよ。 あんたが来なかったら、倒れてたかも。」
「まあ。イヤイヤついていらしたように見えていましたのに。」
コロコロと笑うロザリアは、楽なドレスに着替え、すっかりくつろぎモードのようだ。
いつもはアップにしている髪もカチューシャで止めたきり、ゆるく下ろしたまま。
化粧も落としているのか、笑顔はあどけない。
オリヴィエはそんな素顔のロザリアを初めて見たような気がして、内心驚いていた。
「あの魚がマズかったと思うんだよね。」
「魚?」
「そう。 生で食べるのが最近の流行だとか言われてさ。」
「ええ、それなら聞いたことがありますわ。
どこかの惑星では生のまま食べるのが主流で、近頃は三ツ星レストランでも生のままで出されることがある、って。」
「あ、じゃあ、流行はホントなんだ。」
「でも、やはり危険なようですわ。 寄生虫がいたりすることもあるそうですのよ。」
「やっぱり…。」
ホットミルクティを飲みながら、たわいもない会話を続ける。
考えてみれば、オリヴィエには、ロザリアとこうして二人で会話を交わした記憶がなかった。
女王試験のころも、お互いになんとなく苦手意識があったのか、接点を持たずにいて。
彼女が補佐官になってからも、執務以外で話すことはなかった。
補佐官と守護聖という、単なる職場の仲間。
それがこんなにも楽しい時間を持てるなんて。
今の状況に、ロザリアも同じように驚いていた。
オリヴィエは会話も巧みで話題も豊富なのか、とにかく話していて楽しいのだ。
チャラチャラと軽薄なばかりではなく、鋭い部分もあり、頭の回転も速い。
気が強い、と評されるロザリアは、男性に対しても可愛らしいことが言えず、会話の途中で相手を白けさせてしまうことがあった。
けれどオリヴィエはそんなロザリアに嫌な顔一つしなければ、かえって面白がってくれている。
疲れ切っていたはずなのに、ロザリアの眠気はすっかりどこかに飛んで行ってしまっていた。
執務の中のささやかな出来事や、守護聖の噂話、と、話題はあとからあとから湧いてくる。
けれど、さすがに時計が23時の鐘を鳴らしたところで、オリヴィエが立ち上がった。
「ね、このお礼に、今度ご飯でもおごらせて?」
玄関まで見送りに出たロザリアに、オリヴィエは大きなウインクをしてみせた。
「口止め料も兼ねてさ。 だから、嫌とは言わないでよね。」
言外に今日のことは秘密にしてほしいと匂わせると、ロザリアは心得たようにくすっと笑った。
「では、とびきりのごちそうをお願いしますわ。
わたくし、味にはうるさいほうですのよ。」
「ん。期待してて。」
暗黙の了解。
不思議と気持ちが伝わっているのが、お互いに心地よかった。
オリヴィエが帰った後、ロザリアはシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ。
身体は疲れているはずなのに、なんだか気持ちが高ぶって眠れない。
彼は本当に誘ってくれるのだろうか。
それともただの社交辞令だろうか。
女王候補として厳しく育てられてきたロザリアは、飛空都市に来るまで、ほとんど男性と接したことがなかった。
そのせいで守護聖達ともなかなか打ち解けられなかったことが、アンジェリークの後塵を拝した一因でもある。
素敵な恋をしたい、と思いながらも、思っているだけだった現状に、ふと舞い降りた不可思議な気持ち。
「あんな方だなんて、知りませんでしたわ。」
お気楽でマイペースで、派手な格好をして。
そんな一面しか知らずにいた。
「ご飯でも、ですって。」
声に出してみると、妙に気恥ずかしくて、ロザリアは布団にもぐりこんだ。
どうか、もう一度、オリヴィエと話す機会がありますように。
祈りながらいつの間にか眠りについていた。