Fall

2.


それから数日が過ぎても、オリヴィエがロザリアの前に現れることはなかった。
実際、オリヴィエはなんどかロザリアの部屋の前まで来ていたのだが、あまりにも忙しそうな彼女の様子に声をかけそびれていたのだ。
ランチにでも、と行ってみれば、女王の間で陛下につきっきりで。
お茶の時間、と行ってみれば、やっぱり陛下と一緒で。
ディナーにしようと彼女の終わりを待ってみたけれど、どうやら途中で軽食を取るのが日課になっているらしく、いつまでたっても執務は終わらない。

改めてロザリアに注目してみて、初めてオリヴィエは補佐官の忙しさに気が付いた。
宇宙の運行以外にも聖地の行政や聖殿の雑事まで、補佐官の仕事は実に多岐にわたっている。
これに加えて、陛下のお守り、とくれば、一日が36時間は欲しいところだろう。
平日が無理なら土の曜日、と思えば、今週はお茶会で。
ゆっくりできるのは日の曜日だけだと思えば、その日に誘い出すのは悪いような気がする。
というよりも、一日くらいは休まなければ、過労で倒れてしまいそうだ。
結局、オリヴィエは一週間の間、ロザリアに声をかけることすらできずに過ごしてしまった。

ロザリアはロザリアで、待っていても何も言ってこないオリヴィエに落胆していた。
おごる、と言われていて、自分から誘うのは物欲しげで気が引ける。
数回、聖殿ですれ違った時も、オリヴィエは特に何も言う気配もなく、ロザリアの横を通り過ぎていった。
問いたくても、書類を抱えている身では、彼を追いかけることもできない。
土の曜日のお茶会も、オリヴィエは早々に帰ってしまい、全く話ができなかった。

やっぱりあの言葉はただの社交辞令だったのだ。
10日が過ぎて、ようやくロザリアはそう結論付けた。
あの夜は偶然、なにかが舞い降りた時間。
心が近づいたような気がしたのは、ただの気の迷い。
「そうですわよね。 今更…。」
何年もただの同僚にしか過ぎなかったオリヴィエが、急に近くなるなんて、ありえない話だったのだ。
きっともう彼は忘れているに違いない。
雑念を追い払うように、頭を振ったロザリアは、また執務に没頭していった。



あの夜から二週間。
やって来た金の曜日の夜、いつも通りの残業を終えたロザリアは、聖殿前の広場にたたずむ人影を見つけた。
美しさを司る守護聖にふさわしい、艶やかな姿のオリヴィエ。
執務服ではないけれど、彼はやはり誰にも真似のできないようなファッションをしている。
他の男性が着たら、嫌味に思えるような光沢のあるシルクのシャツも、ゆったりとした独特なパンツも。
自分の魅力を十二分にわかっていないと着こなせない服だろう。

キラキラと金の髪が月明かりに輝く姿に、ロザリアは見惚れた。
夜色の髪をしている自分はあんなふうにはならないし、なにより彼には独特のオーラがあるのだ。
ありきたりなワンピース姿の自分が少し恥ずかしくて、こっそりその場を通り抜けようとしたのに。
階段を下りた拍子に、こつん、と鳴ってしまったヒール。
ロザリアの気配に気が付いたオリヴィエは顔を上げると、笑みを浮かべた。

「毎日ご苦労様。」
艶っぽい、という言葉がまさにぴったりな笑顔。
月の神は女性だというけれど、オリヴィエならその女神にもたとえられそうだ。
「明日がお休みだから、少し頑張ってしまいましたわ。 あなたは?」
「散歩。 すごく月が綺麗だったからね。 …誰かと見たくなったんだ。」
「まあ、では今からお出かけですのね。」
言いながら、ロザリアは自分が少しがっかりしていることに気づいていた。
もしかして待っていてくれたのでは、と、ほんのちょっと期待していたから。
実際はただの偶然だったようだけど。

「あ、今から帰りなら、送ってくよ。 夜道は危ないから。」
そう言ったオリヴィエにロザリアは首を横に振った。
「いいえ、お約束があるのでしょう? 慣れていますもの。 大丈夫ですわ。」
軽く会釈しながらオリヴィエの横をすり抜け、ロザリアは歩き出した。
がっかりした気持ちを知られるのも嫌。
そして、一瞬だけ嬉しいと思ったのを知られるのも嫌だった。

けれどオリヴィエはロザリアの後をついてくる。
行き先が同じなのかと思い、気にしないようにしたが、彼はなぜかロザリアの隣に並ぶように歩いてくるのだ。
ロザリアが早足になれば、オリヴィエも足を速める。
それにロザリアが屋敷へ行くための近道の方にまで入り込んでくるのだ。
さすがにおかしいと、ロザリアは足を止め振り向いた。

「へえ。この道だと、ホントにすぐなんだね。」
オリヴィエの感心したような声に、
「ええ、わたくしが発見したんですの。 初めは草も多かったのですけれど、毎日通っていたらすっかり道になりましたわ。」
誇らしげに答えるロザリア。
オリヴィエは足元に伸びる踏みつけられた草に視線を向けた。
たしかに今や立派な獣道だ。
木々の隙間を縫うように聖殿からロザリアの家まで、ほぼまっすぐにつながるルート。
生真面目な顔をして、黙々とこの道を歩くロザリアを想像したオリヴィエは、なんだか面白くなってしまった。


「ね、あんたは何が好き?」
「え?!」
急な問いかけにロザリアは固まった。
「ご飯。 おごるって言ったけど、あんたの好きなものがわからなくて。」
「あ…。」

忘れられていたわけじゃなかった。
顔に集まる熱を知られないように、ロザリアは顔を背けたけれど、オリヴィエには彼女の赤くなった耳が見えている。
いつものオリヴィエならば、すかさずその耳に唇を寄せて、甘い囁きを落とすのだが。
なぜか今日はそうできなかった。
月明かりの下にぼんやりと浮かぶ青い髪が、溶けてしまいそうなほど可憐で儚く見えたせいかもしれない。
清らかで触れられない。
バカバカしいけれど、本当にそう思ってしまった。

「嫌いなものはマッシュルームとアンチョビですわ。」
きっぱりと言い切ったロザリアにオリヴィエはくすっと笑った。
真っ直ぐな言葉が彼女らしい。
今までオリヴィエが付き合ってきた女性たちは、こういう時、『何でもいいわ』とか『あなたの好きなものでいいわ』と答えたものだ。
けれど、『何でもいい』というわりに、彼女たちは必ず不満げだった。
それなら最初から好きなものを言えばいいのに、とオリヴィエはいつも思っていたのだ。

「ん。わかった。 嫌いなものがないように気をつけとくね。」
少し子供を諭すような口調になったのが気に入らないのか、ロザリアがオリヴィエを軽く睨み付ける。
「でも、絶対食べられないというほどではありませんわ。
 料理の中に入っている程度なら大丈夫ですし。」
懸命に言い訳めいたものを話すロザリア。
こういうところはまだ本当に子供っぽいというか、純粋なのだろう。

「私もキライなものあるから仕方ないよ。」
「え? なんですの?」
ロザリアはさっきまでの怒りを忘れたように小首をかしげている。
「サラミとアロエ。 どうもあの脂っぽさと食感がダメみたい。」
「まあ! そうなんですの? どちらも美味しいのに。」
「それを言うならアンチョビだって美味しいよ。」
「あ、あれは・・・!」

月明かりの下。
二人でしばらくの間、たわいもない会話を交わしたロザリアは、オリヴィエがやはり話し上手なのだと感心していた。
自分の話だけではなくて、ロザリアのこともきちんと聞いてくれる。
どちらかというとロザリアはこういった世間話のようなものが苦手だった。
アンジェリークと出会うまでは友人関係も実に寂しいものだったし、周囲の人間と言えば、お世辞や裏のある言葉ばかりで。
自然と上手く躱したり、早く会話を終わらせる術だけが身についてしまっていたのだ。

「じゃ、またね。」
オリヴィエがそう言って初めて、ロザリアはかなりの時間が過ぎていたことに気が付いた。
そういえば、オリヴィエはどこかに出かける途中だったはず。
「ご、ごめんなさい。 お引止めしてしまって。
 どなたかと会う約束がおありだったのでしょう? 遅れてしまったのではありませんの?」

「約束なんてしてないけど。」
不思議そうに言うオリヴィエに
「誰かと月を見る、って…。」
同じように不思議そうにするロザリア。
うろたえたロザリアにオリヴィエが優しく笑う。
金の髪が月の光に透けて、彼自身が輝いているように綺麗だ。
やはり見惚れてしまう。

「…ああ、それならもういいんだ。 ちゃんと会いたかった人に会えたから。」
それはどういう意味だろう。
もしかして、ロザリアを待っていてくれたのだろうか。 
…偶然などではなく。 会いたいと思って。
ぽかんとしたロザリアの額に、オリヴィエの唇が降りてくる。

「おやすみ。 …夢のサクリアを送ったから、きっと素敵な夢が見れるよ。」
額とはいえ、突然の口づけにびっくりして固まったロザリアを、オリヴィエはぐいぐいと玄関のドアへ押し込んだ。
パタン、と背中でドアの閉まる音。
ロザリアはしばらく立ち尽くした後、パッと額に両手を当てた。
「嘘…。」
額への口づけなんて、ただの親愛の情のあいさつ。
生家で父や母がしてくれたのと、同じ。
わかっているのに、その部分だけが妙に熱く感じるのだ。
人生で初めて感じる不思議なドキドキに、ロザリアはなかなか動き出すことができなかった。


ロザリアと別れたオリヴィエもまた、不思議な高揚感に包まれていた。
なぜか自然に早くなる足。
下手をすれば駈け出してしまいそうになる自分に苦笑するしかない。
月明かりの下で笑うロザリアはまるで月の精霊のように見えた。
青紫の髪は夜の色に溶け込み、青い瞳の輝きは星を宿していて。
純白の清楚なワンピースが天女の羽衣のように、手を伸ばせば、宙へと舞って行ってしまいそうな美しさだった。

「額で我慢するなんて、私らしくないね。」
まるで無防備なロザリアなら、唇を奪うことも簡単だっただろう。
けれど、それでは本当に一度きりになってしまう。
もっとロザリアを知りたい。 もっと、彼女にも自分を見てほしい。
こんな気持ちは、久しぶり。
オリヴィエは夜空に向かってぴゅうっと口笛を吹くと、わざとゆっくりと月明かりの下を歩いて帰った。



それから、ロザリアとオリヴィエは門の前で出会うことが多くなった。
「帰り? 送ってくよ。」
偶然会ったように、なにげなく声をかけてくるオリヴィエに、ロザリアは初めのうちは本当に偶然だと思っていた。
けれど、それが2回、3回と続き、10回目になろうかという頃。
さすがにそんなはずはないと気が付いた。

きっと彼は、ロザリアが終わるのをどこかで見ていて、声をかけてくれているのだ。
けれど、なぜ、オリヴィエがそんなことをするのか、ロザリアにはそれがわからない。
この平穏な聖地で女性の一人歩きが危険とは思えないし、今までだって一人で平気だったのだ。
ただ、門の下で会って、あの近道を通り、ロザリアの家の前で、ほんの少し話をする。
それだけのために、わざわざ待っていたりするだろうか。

頭の中は疑問でいっぱいだけれど、さすがにオリヴィエに聴くのもためらわれる。
「わたくしを待っていてくださるの?」 なんて、自意識過剰すぎるとしか思えない。
それに、聴いてしまえば、この奇妙な帰り道が終わってしまうかもしれないという気もした。
毎日のように続いたおかげで、ロザリアは最近、門の前にオリヴィエを探すようになってしまっている。
オリヴィエが出張で聖地にいないと知っている日でさえ、つい目であたりを探してしまい、自分に赤面した。
彼がいないことが寂しい。
鈍感なロザリアでも、その理由をぼんやりと気付き始めていた。



「あの、よろしければ、中でお茶でもいかがかしら?」
ロザリアは家の前で、オリヴィエに尋ねた。
彼に送り届けてもらうのも今日で何度目になるだろう。
とても数え切れるほどではない。
また門の前で話の続きをしようとして、ロザリアは考えたのだ。

夏の半ばだった初めての日から、季節は駆け足で過ぎていこうとしている。
今も頬をかすめる風は、夜だということを差し引いてもかなり冷たい。
ロザリア自身、わずかに身震いするほどだ。
これからも寒くなってくるのなら。
寒い季節になっても彼と帰るのなら。
話の続きを家の中でしなければ、二人とも風邪をひいてしまう。

「え…? いいの?」
オリヴィエは目の前でほほ笑んでいるロザリアに、どう反応すればいいのか、実のところ戸惑っていた。
この時間に、男性を自宅に招き入れるという意味。
もちろんオリヴィエには彼女にそんな意識がないことはわかっている。
わかっているけれど、オリヴィエとしては…意識せずにはいられない。

「ええ。だって、風が冷たいですもの。 お急ぎでなければ、ですけれど。」
無防備すぎるロザリアに、オリヴィエはため息をついた。
もしも誰にでもこんなふうに接しているのなら、これは大変なことになる。
それとも、もしかすると、オリヴィエを男として見ていないのだろうか。
…どちらにしてもあまり楽しくない想像であることは間違いなかった。

「じゃ、お邪魔しちゃおうかな。」
できるだけなにげなく見えるように、オリヴィエはウインクまで付け足した。
もしも、ここで断ったらロザリアは二度と誘ってくれないかもしれない。
それどころか、これからは門の前であっさりとお別れ、なんてこともありうる。
結局、オリヴィエは自分の欲求に素直に従うことにした。
彼女ともっと話したい、という、単純な欲望に。


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