3.
門の前で会って、近道を通って、家について。
そこから、また新しく始まったのは、ロザリアの家でお茶を一杯だけ飲むこと。
「どうぞ。おあがりになって。」
無邪気にほほ笑むロザリアには、やはりまるで警戒心などなさそうだ。
そして、いつも通りにオリヴィエがソファに腰を下ろすと、ロザリアは奥のキッチンへと消えていく。
初めての日、手伝おうとしたオリヴィエを、ロザリアは
「あの、片付いていない日もありますの。 ですから、この先は…。」
と、恥ずかしそうに止めた。
彼女の肩越しに見えたキッチンはとても綺麗に見えたが、確かに一人では手の回らない日もあるのだろう。
あまり無理強いして、追い出されても困る。
それからオリヴィエは素直に待つことにしていた。
やがて陶器の触れ合う音と紅茶の香りが漂ってきて、お茶を運んできたロザリアが向かいに腰を下ろす。
本当にささやかな時間。
その日、オリヴィエは、ルヴァにきいた遠い惑星の風習について話していた。
「ルヴァってば、途中でその本を探し始めたんだけど、見つからなくてさ。
ま、探してるついでに他の本に気が行っちゃったみたいで、途中からは返事もしてくれなくなったんだよ。」
「いつものことですわね。」
「つい最近見たばかりの本ですから~、なんて言って、机の上をあさったところまでは良かったんだけどね。
あ~あ、その『着物』っていうの、見てみたかったよ。
すごく個性的な模様なんだってさ。」
するとロザリアが思い出したように小さく声を上げた。
「もしかして…。 ちょっと失礼しますわ。」
パッと立ち上がり、部屋を出たロザリアはすぐに腕の中に本を抱いて戻ってきた。
真紅のビロードの装丁が美しい、立派な本だ。
「どうしましょう。わたくし、ルヴァから借りたままになっていたんですわ。」
読み終えて、返すつもりでいたのに、つい忘れてしまっていたらしい。
オリヴィエの話した『着物』という言葉でそのことを思い出したというのだ。
「明日、返しに行って来なければ。」
本を手に、ふうと大きなため息をついたロザリアは、ルヴァに怒られるとでも思っているのか、少し不安そうだ。
まさかあの温厚なルヴァがそんなことで怒ることはないだろうが…。
「思い出してよかったですわ。 ありがとう。」
にっこりと笑うロザリアに、オリヴィエは少しつまらなかった。
明日は土の曜日。
特にロザリアに予定がないことは知っているから、わざわざルヴァの家まで本を返しに行く、ということなのだろう。
休みの日に、わざわざ、二人っきりで会う。
しかもルヴァの家に行って。
今、自分とこうして過ごしているのと同じようなひと時をルヴァとも持つのだろうか。
もしかするともっと親し気に。
…面白くない。
それを彼女に言うこともできず、つい本を睨み付けたオリヴィエは、自分自身が情けなくなった。
別れ際、玄関まで見送りに出てくれたロザリアに、オリヴィエは静かに顔を近づけた。
最初の夜から、オリヴィエは欠かさず額へのキスをロザリアに送り続けている。
唇が触れた途端に、ほんのりと頬が染まるのがかわいらしくて、やめられないのだ。
ロザリアも嫌がる様子はないから、挨拶の一つとして受け入れてくれているのだろう。
でも。
オリヴィエはいつものように顔を近づけた後、ふいに下を向いた。
そして、額よりも下、彼女のふんわりとした柔らかな頬に唇を触れさせる。
「おやすみ。」
ビックリしているロザリアを置いて、ドアを開けた瞬間。
後ろから強く服の裾を引っ張られてよろめいた。
「おやすみなさいませ。」
オリヴィエの頬にも柔らかな何かが触れ…。
それがロザリアの唇だとわかる前に、ドアから押し出された。
「?!」
後ろでバタン、とドアの閉じる音。
一瞬呆然としたオリヴィエは、すぐにくすくすと笑いだした。
驚かされるのは不本意だけれど、こんなビックリは悪くない。
それに、たぶん、自分よりも確実に顔を真っ赤にして、うろたえているに違いないロザリアを想像するのは楽しい。
ドアの向こうで彼女の動く気配が全くしないから、きっと自分のしたことに呆然としているのだろう。
あの生真面目な彼女がしてくれたキス。
たとえ頬だとしても期待してもいいような気がする。
キスに驚いた時よりもドキドキとなり始めた心臓は、期待する気持ちの表れに違いない。
ずいぶんと遊んできたつもりだったのに、まだこんなことで動揺する自分を可愛いと思ってもいいだろうか。
月明かりの帰り道。
オリヴィエはなんども彼女の唇の触れた頬に手を当てながら、笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。
翌日。
身支度を整えたロザリアは、本を手にルヴァの屋敷へと向かっていた。
すっかり遅くなった返却を詫びるために、朝からクッキーを焼き、プレゼント用にラッピングもした。
ああ見えて、ルヴァは甘いものが好きなのだ。
もっとも彼の好きなものは少し変わっていて、ロザリアが作ることはできないのだが。
呼び鈴を押しても屋敷はしんと静まり返っている。
ロザリアはしばらくたって、2回目を押した。
そして、3回目。
ゆうに10分待って、4回目を押そうとしたところで、のんびりとルヴァが現れた。
「ああ~、貴女でしたか~。 いらっしゃい。」
「ごきげんよう。 お休みのところごめんなさい。」
「いいえ~。 何か御用ですか?」
いつもにこにこしているルヴァは、女王候補のころからロザリアと親しくしている守護聖の一人だ。
お互い本が好きで努力家なところが何となく似ている気がして、一緒にいても気疲れしない。
いい意味で教師と生徒のような関係が続いているのだ。
ロザリアは申し訳なさそうに手にしていた紙袋を差し出すと、頭を下げた。
「この御本、借りていたことをすっかり忘れていましたの。
本当にごめんなさい。」
頭を下げたままのロザリアから紙袋を受け取ったルヴァは、本を取り出してぺらぺらとページを繰っている。
そして、急に「ああ!」と大声を上げた。
「貴女がお持ちだったんですね~。 いえ、この前、この本を探していたのですが、見つからなくて。
どこへしまい込んだのかと考えていたところだったんですよ~。」
オリヴィエから聞いた通りのことを言われて、ロザリアは頬を赤くした。
全くの失態。
それでもロザリアを責める様子がかけらもないルヴァにありがたいと素直に思う。
「お詫びと言ってはなんですけれど、クッキーを焼いてきましたの。
どうぞお受け取り下さいませんか?」
「いえいえ~、かえって申し訳ないですねえ。
…ああ、よかったら一緒にお茶でもいかがですか? 貴女のくれたお茶請けもありますし。」
ルヴァはさもいい思い付きだ、という顔でロザリアの返事を待っている。
ロザリアにしたところで、何の用事もない土の曜日だ。
ニッコリと頷き返し、奥へ向かうルヴァの後に続いていった。
今までも何度も訪れているルヴァの私邸。
廊下ですら補佐官の屋敷の何倍もの広さがあり、突き当りにあるニッチのような空間や廊下の片隅には不思議な置物が置かれている。
ルヴァの言うところの「辺境の惑星」の品々らしいのだが、とにかく日に日に数が増えていると思うのは、気のせいではないだろう。
アンティーク、と言えば聞こえがいいが、古めかしい、というほうがぴったりだ。
しんと静まり返った中にいると、妙にリアルな人形が怖いくらいで。
なぜこんなにも全く人の気配がないのか。
ロザリアが不気味に思っていると、ルヴァは立派なオークの一枚扉の前でぴたりと足を止め、ドアを開けた。
「ああ、こちらでちょっと待っていてくださいね~。
お茶の準備をしてきますから。
あ、緑茶でいいですか? いい葉があるんです。」
どこかウキウキした様子のルヴァはパタパタとスリッパの音を響かせて、奥へと消えてしまった。
緑茶に対して妙な情熱があるのか、使用人にすべてを任せるつもりはないらしい。
それでも、奥からようやく人の気配がしてきて、ロザリアはなんとなく安心していた。
たとえルヴァであっても、この屋敷に二人きり、というのは落ち着かない気がしていたからだ。
一人取り残された客間は、静かすぎて、見慣れた壁の隅にかけられた細長い絵も妙に怖い。
ぼんやりとした薄い色彩なのに、生気のない女性がまるで幽霊のようで…。
そう思うとあちこちにある木彫りの目の細い人形や、金属製の被り物までが恐ろしくなってくる。
「おまたせしましたね~。」
穏やかな声に、ロザリアはほっとした。
女王候補のころから、ルヴァはロザリアの兄のような存在だ。
博識なルヴァとの会話は、子供のころ屋敷に来てくれていた家庭教師との会話に似ている。
話が長すぎる、とルヴァを揶揄する者もいるが、ロザリアはそうは思わなかった。
確かに脱線することは多いが、無駄なことは一つもない。
今日も、ロザリアは緑茶をすすりながら、おせんべいを食べ、ルヴァの話を聞きながらのんびりとした気持ちで過ごしていた。
だからルヴァがお茶のお代りをもってきて、
「とてもいいことがあったようですね。 今日の貴女は…。え~、上手く言えませんが、以前と少し違っているようです。」
と言った時、ロザリアは心底驚いた。
「いいこと?」
目の前にちらっとオリヴィエの顔が浮かんできて、でも、それを慌てて打ち消した。
「そんな…。 なにもありませんわ。」
「そうですか?」
「ええ。」
確かに変わったことならある。
オリヴィエとの帰り道。 そして、その後の二人きりのお茶の時間。
でも、それは、今ココで、ルヴァとしていることと大して変りがない。
むしろ時間はオリヴィエとのほうがはるかに短いだろう。
でも、なにか…気になるのも本当だ。
「あの、ルヴァ。」
「なんですか~?」
「ちょっとご相談してもよろしいかしら。」
「はあ。」
ロザリアを視線を宙にさまよわせ、小首をかしげている。
一度何かを言おうとして、口をつぐみ、そして、小さく息を吸い込んだ。
「わたくしの知人のことなんですけれど。」
よくある前置きとともにロザリアは話し始める。
「最近、ある方とお知り合いになったそうなんですの。
時々会って、話をしたり、お茶を飲んだり。
その人と一緒にいると、とても時間が早く過ぎてしまうんですって。
そして、さっきお別れしたばかりなのに、またすぐに会いたくなって。
話をしていても、なんだか落ち着かないのに、話をしていないともっと落ち着かなくて。
…ほかの女性と一緒にいるところを見ると、ひどく気分が落ち込んだり。
どうしてそんなふうになるのか、自分でもよくわからないらしいんですの。」
言いながら、ロザリアはどんどん自分が何を言っているのかわからなくなっていた。
きっと聞かされているルヴァはもっとわからないだろう。
上手く説明できない。
でもオリヴィエに対する今の気持ちは、まさにそんな感じなのだ。
わからないことだらけで、不安で、でも、もっと彼に近づきたいと思ってしまう。
矛盾だらけな感情が入り混じっている。
「あ~、ロザリア。 私もそういうことはあまり得意ではないのですがね。」
ルヴァは身体を小刻みにゆすっては、ウロウロと視線をさまよわせている。
照れた時や本当に困った時に見せる、ルヴァの癖。
そんなルヴァを見たのは久しぶりで、思わずロザリアはじいっと見入ってしまった。
「たぶん、それは恋、ではないでしょうか?」
わずかに頬を赤らめて、ルヴァがポツリとつぶやく。
「こい?」
ロザリアは、ルヴァの言葉をおうむ返しして、さらに首をかしげた。
こい、とは何だろう?
ピンとこない様子のロザリアにルヴァはさらにもじもじしながら、
「ええとですね、その知人の方は、ある人、という方のことを、好き、なんではないか、ということです。」
「えっ!」
こい、とは恋のこと。
ようやくルヴァの言わんとしていることを理解したロザリアは、瞳をまんまるにしてルヴァをじっと見つめた。
ルヴァもまた、それ以上、なにを言えばいいのかわからないまま、じっと固まっている。
カチコチと部屋を満たすのは、古い時計の振り子の音だけ。
やがて。
金縛りが解けたかのように、ロザリアが、ふうと、ため息をついた。
「恋…。」
言われて初めて、ロザリアは今までの不思議な感情が、すとんと腑に落ちた気がした。
もちろんその言葉自体を知らなかったわけではない。
けれど、ロザリアが思い浮かべる恋物語は、もっと運命的で。
出会った瞬間、二人の間には特別な感情が生まれ、ともに困難に立ち向かいながら、最後には生涯を誓い合うというものだった。
ロザリアとオリヴィエは出会ってから、もう数年が経とうとしている。
二度の女王試験があり、皇帝の侵略、アルカディアでの出来事、聖獣宇宙の危機。
そんないくつもの出来事が過ぎた間も、二人の間は「ただの女王補佐官と守護聖」だったのだ。
今更、オリヴィエに恋をする?
そんなことがあるのだろうか。
でもこの気持ちを説明する言葉は他には見つからない。
「本当にそう思いまして?」
ロザリアはルヴァをじっと見つめた。
真剣な青い瞳は、嘘を許さない女神にも似た光を宿している。
キレイだけれど、険しい。
けれど、ルヴァはそんな真剣なロザリアにも、いつものようにふんわりとした笑みを浮かべているだけだ。
そして、
「ええ。 私はそう思いますよ~。 それは恋です。 恋に間違いありません。
貴女もそう思いませんか~。 」
逆にルヴァに突っ込まれて、ロザリアはぐっと言葉を飲み込んだ。
頭の中でぐるぐると『恋』という文字が踊っている。
けれど。
…考えたところで恋愛経験値の低いロザリアにわかるはずもない。
結局そのあと、当たり障りのない世間話を交わして、ロザリアはルヴァの屋敷を辞した。