4.
家に戻り、いつもと同じように一人分の夕食を簡単に済ませたところで、チャイムが鳴った。
土の曜日のこんな時間に人が尋ねてくるなんて、初めてではないだろうか。
咄嗟に、ロザリアはルヴァだと思った。
彼の家に何か忘れ物でもして、届けてくれたのかもしれない。
「なにかありまして?」
そのままの格好で何げなくドアを開けたロザリアは、意外な人の姿に目を丸くした。
「はあい。 ロザリア。」
目の前でにっこりと笑って手を振っているのはオリヴィエだ。
どこかに出かけていたのか、洒落たフリルのシルクシャツと、ブラックのタイトなパンツ。
まるでファッション雑誌から抜け出してきたような艶やかなスタイル。
身につけられているアクセサリーも、数は多いけれど、嫌味がない。
いつもの執務服とも、仕事帰りとも違うオリヴィエの姿に、ロザリアの胸がわずかにときめく。
同時に
『それは恋、ではないでしょうか?』
ルヴァの言葉も浮かんできて、ロザリアは自分でもおかしいほど動揺していた。
「…ロザリア?」
固まったままのロザリアに、オリヴィエが声をかけた。
ぎょっとして見開いたままの瞳に青紫の睫毛が上下し、ゆっくりとオリヴィエをとらえる。
目が合った瞬間、ほんのりと染まった頬が可愛らしくて、オリヴィエは今すぐにそこに口づけたい衝動に駆られた。
「え、あ、あの、なんでもありませんの。
あなたこそ、どうかなさいまして?」
ロザリアは不思議そうに首をかしげているが、無理もない。
オリヴィエが執務の帰り道でもなく、ロザリアの屋敷を訪ねたのは今日が初めてだ。
しかも、なんの約束を取り付けることもなく、本当にいきなりやって来たのだから。
「あのね、今日、出かけた先においしそうなケーキ屋さんがあってさ。
お土産に買ってきたんだ。 よかったら一緒に食べない?」
オリヴィエはケーキの箱をロザリアの目の前で軽く振って見せた。
ぶらりと出かけたセレスティアに、オープンしていたパティスリー。
そのショーケースに並んでいたケーキの一つに目が留まった。
彼女が好きだと言っていた、シャルロットポワール。
気が付いたら、ケーキを買っていて、ここまで来てしまっていたのだ。
「まあ、嬉しいですわ。 ちょうど甘いものが食べたいと思っていましたの。」
ロザリアは顔を輝かせて、オリヴィエを招き入れた。
「どうぞ。おあがりになって。 お茶を用意しますわね。」
いそいそとキッチンに向かって行く後ろ姿。
その動作があまりにも無警戒で、オリヴィエは内心嘆息していた。
本当に彼女は無防備すぎる。
もしも、客がオリヴィエでなくても、彼女はこんなふうに簡単に屋敷に招き入れるのだろうか。
やっぱり心配でたまらない。
「…ご飯中だった?」
LDKに通されたオリヴィエは、室内に漂う食べ物の匂いに気が付いた。
オリーブオイルと生クリーム、ハーブの香り。
食欲をそそる香りに、オリヴィエも空腹を意識する。
すると、お茶の準備をしているロザリアの返事がキッチンの奥から聞こえてきた。
「ええ。 今、ちょうど済ませたところですの。 そう言えば、オリヴィエは?」
「私は屋敷で準備してくれてると思うからさ。」
「そうでしたわね。 守護聖の屋敷にはシェフがいたのですわね。」
「私は別にいらないんだけどね。 昔は全部一人でやってたし。」
「しかたありませんわ。 ジュリアスやクラヴィスのように、一人ではお茶も淹れられそうもない守護聖もいるんですもの。」
「それもそうか。」
話しているうちにロザリアが紅茶を淹れて、リビングに戻ってきた。
トレーにポットとカップが二つ。
いつも使っているそのセットは、すでにオリヴィエにも見慣れたものだ。
「まあ、シャルロットポワール?」
箱を開けたオリヴィエの手元を覗き込んでいたロザリアが嬉しそうに声をあげた。
ロザリアの一番好きなケーキ。
けれど、ここ最近は全く食べる機会がなくなっていた。
アンジェリークが好きなのは、チョコやキャラメルを使ったケーキばかりで、どうしても日々のおやつはそちらを優先してしまうからだ。
補佐官として、女王優先なのは当たり前。
それに友達としても、アンジェリークが喜ぶ方が嬉しい。
だから、ついロザリアは自分の好みを後回しにしてしまっていた。
「嬉しいですわ。
シャルロットポワールは、わたくしが子供のころ、シェフの得意のお菓子でしたの。
洋ナシの季節は限られていますでしょう?
少しでも長い期間食べられるように、コンポートにして保存してくれてもいましたわ。」
お皿にケーキを移し、ロザリアはフォークを刺した。
しゃく、っと音がするほど瑞々しさの残る洋ナシの果肉と、柔らかなババロア。
そしてわずかに硬さのあるビスキュイ。
少しぬるくなってしまっていても、ケーキはとても美味しくて。
ロザリアは瞬く間に半分ほどを口の中に収めていた。
「そんなに一気に食べるほど気に入ってくれたみたいでよかったよ。」
オリヴィエが言うと、ロザリアは顔を赤らめている。
淑女として育てられたせいなのか、ロザリアはこういう冗談に少し疎い。
あまり親しくないころはただ堅物だとしか思えなかったそんな部分も、慣れてみれば逆に素直で可愛らしく思えてくる。
全く・・・困ったものだ。
「ええ。 とても。 わざわざありがとうございます。」
にっこりとほほ笑むロザリアに、オリヴィエも微笑みを返した。
「あんたもシェフを雇ったらいいのに。」
ケーキを食べ終えると、ロザリアは自然な動作で、皿をトレーに片づけている。
オリヴィエには彼女の家事に慣れた様子が気になった。
女王候補のころのロザリアには、生家からばあやさんが付いてきていて、それこそお茶一杯淹れるのも、髪を結う事さえもやらせていたと聞いていた。
それなのに、ここでの彼女には、まともな使用人すらいない。
「いいえ。 必要ありませんわ。
わたくし一人ですもの。 特に困ることもありませんし。
それに、平日はメイドが来てくれて、掃除も洗濯も食事の準備もしてくれますのよ。」
「でもさ、いろいろ不便でしょ?」
重ねて問うと、ロザリアは少し困ったような顔をした。
「…ここへ来てすぐは…。 実は本当に困っていましたわ。
わたくし、あの年まで、自分の世話すらなに一つできない人間だったんですの。
着る服も食べる物も、全て用意された中で暮らしてきただけで…。
お恥ずかしいことに、自分の髪を結う事すらできなくて。」
ふう、とついたため息。
「なぜ、補佐官になんてなってしまったのかしら。
生家に戻り、今まで通りの暮らしを続ければよかった、と何度も後悔しましたわ。
傅かれているのが当然だと思って育ってきたのですもの。
でも、不思議なもので、毎日の暮らしを続けているうちに、いつの間にか一通りのことを覚えていきましたの。
お茶を淹れる手順、掃除や服の選び方。
簡単な食事の作り方。 三つ編みもできるようになりましたわ。
この頃では、むしろ今の暮らしを与えられたことを感謝していますの。」
「感謝?」
「ええ。 あのままのわたくしだったら、きっとずっと何もできないままでしたわ。
今はそれが、とても恥ずかしいことだと思いますの。」
ゆったりとほほ笑み、オリヴィエを見つめる青い瞳。
彼女の言葉が嘘でも虚勢でもないことがよくわかる。
「それに一人の方が楽しいこともありますのよ。
たとえば、ベッドに寝転んで本を読むこともできますし、休みの日には一日パジャマのままで過ごしたり。」
「あんたでも、そんなことするんだ。」
オリヴィエがからかうように言うと、ロザリアはくすくすと笑った。
「生家ではいつも人の目がありましたから、できませんでしたの。
今度はベッドの中でお菓子を食べてみようと思っていますわ。」
「それは止めた方がいいよ。
お菓子の粉が零れて、寝心地が悪くなるんだ。 シーツがざらざらしてね。」
「まあ、どうして知ってますの?」
「そりゃ、何回もやったことがあるからさ。
ベッドで飲み物も危険だよ。 零した布団を干すと、いろいろ勘繰られるしね。」
「嫌ですわ。」
ころころとロザリアが笑う。
彼女がこんなに優しく笑うなんて、知らなかった。
きっと、知ろうともしていなかった。
オリヴィエの中のロザリアは、ずっと女王候補の時のまま。
キレイだけれど、高飛車で傲慢で、執務は完璧にこなせても、特に付き合いたくはない相手。
それなのに。
いつの間に彼女は、こんなに変わっていたんだろう。
「あのさ、最初にした約束、覚えてる?」
「え?」
「ご飯奢る、って言ったの。 アレ、まだだったじゃない?
ホントに遅くなっちゃったけど、今度の土の曜日とかどうかな?」
「覚えていてくださったんですの?」
「もちろん。 あんたが忙しそうだからなかなか言い出しにくくてさ。
でも、最近は執務も落ち着いてるみたいだし、時間あるでしょ?」
今日だって、ルヴァと会う余裕があったのだから、忙しいとは言わせない。
「ええ。大丈夫ですわ。 来週ですわね。」
パッと顔を輝かせるロザリアは、本当に素直だ。
これで、来週の彼女の予定を縛ったなんて、少しも思っていないに違いない。
オリヴィエはテーブルの上の本に目を向けた。
途中でしおりの挟まれた古びた本。
きっとまた今日、ルヴァから借りたものだろう。
小さい男だと笑われるかもしれないが、なんとなく、ロザリアがルヴァのところへ行くのが気になってしまうのだ。
出来れば行かせたくない。
「じゃあね。また。」
いつもの玄関先の別れの挨拶。
オリヴィエは静かにロザリアの頬に唇を寄せた。
額から頬へキスの場所を変えた時、ロザリアはそれを自然に受け入れてくれた。
では、その次は。
彼女は許してくれるだろうか。
オリヴィエの唇がさらに下へと動く。
ふと唇に触れた柔らかな感触。
ロザリアは驚きのあまり、動けなかった。
ほんの一瞬、軽く触れただけだけれど、それは間違いなく、キス、で。
そして、それはロザリアにとっては初めてのキス。
「おやすみ。」
混乱した頭で、ロザリアはオリヴィエをじっと見つめた。
見開いたままの目に映るオリヴィエは全くいつも通りの笑顔。
動揺しているのは自分だけなのだと、ロザリアは思った。
彼にとって、この程度のキスは、額や頬と変わらない。
親愛のキスで特別なものではないのだ。
たまたまそれが唇になっただけ。
「お、おやすみなさいませ。」
これはキスじゃない。
ただの挨拶だ。
恥ずかしさと、それ以上になぜか胸が苦しくて、ロザリアは俯いたまま、オリヴィエを見送った。