5.
翌週。
急に執務が立て込んできて、ロザリアは目の回るような忙しさに襲われていた。
安定していたはずの辺境の惑星の突然の乱れ。
式典の準備ミスによる予定変更。
一つの予定の狂いが雪だるま式に変更を呼び込んで、押しつぶされそうになってくる。
その日も0時近くになって、ようやく聖殿を出たロザリアは、人気のない階段下にため息をついた。
オリヴィエがいないことはわかっている。
ロザリアが忙しい時、彼は見計らったように、姿を見せなくなるのだ。
きっと気を使ってくれているのだろし、その優しさは彼らしいとも思うけれど。
階段を駆け下りたロザリアは、噴水の少し向こうに人影を見つけた。
ゆっくりと大股で歩いてくる、大きな影。
今日の月は細く、薄明かりでしかないけれど、その人影の持つ、緋色の髪は隠せない。
ロザリアが目を向けると、オスカーもまたロザリアに気が付いたのか、こちらへと近づいてきた。
「よう、ロザリア。 今まで執務か? 働き過ぎだぜ。」
「今日は特別ですわ。
別にあなたにまで同じように働いてほしいとも思っていませんし。」
「それもそうだな。」
オスカーは楽しそうに笑っている。
ふと彼が動いた瞬間、ロザリアの鼻先をアルコールの香りが掠めた。
「オスカー、あなた、どこへ行ってらしたの?」
つい咎めるようになったのは、いつもの癖だ。
子供のころから正義感が強すぎて、可愛げがないと言われてきた。
これでもアンジェリークと出会ってから、かなり和らいだと思うのだが、人間の本質というのは早々変わらないらしい。
ゼフェルのいうところの『女ジュリアス』の二つ名もいまだに返上できていないのが現状だ。
オスカーはふっと悪戯を見とがめられた子供のように、軽く微笑んで、ウインクした。
この甘い顔に騙される女性が一体どれほどいるのだろう。
逆に鼻白んだロザリアの顔に、誤魔化しきれないと悟ったのか、オスカーは肩をすくめた。
「ああ。 ちょっと下界へな。 悪いことはしてないから許してくれよ、補佐官殿。」
「許しなんてなくてもお出かけになるくせに。」
「はは、厳しいな。 オリヴィエも一緒だったんだ。 たまの息抜きさ。」
オスカーの言葉にドキリとした。
「オリヴィエも…?」
きょろきょろとしたロザリアに
「アイツはまだ飲んでるぜ。 ま、飲むだけじゃないかもしれんがな。」
オスカーはニヤリとイヤな感じの笑みを浮かべている。
その言葉の意味が分からないほど、ロザリアも子供ではなかった。
帰宅して、一人、部屋でぼんやりしていると、オスカーの言葉が浮かんでくる。
きっとオリヴィエは女性と一緒なのだろう。
よく考えてみれば、ロザリアはオリヴィエのことをほとんど知らない。
彼が執務の後、何をしているのか。 休みの日をどう過ごしているのか。
聖地という箱庭から早々出ることはできなくても、今夜のようにふらりと遊びに出ることもあるだろう。
その先で、彼が何をしているのか。 …ロザリアにだって想像はつく。
ロザリアは自分の唇に指を当ててみた。
先日のキス。
額から頬へ変わるまでは随分長い間かかったのに、頬から唇へはすぐだった。
頬とはいえロザリアからもキスを返したから、軽い女だと思われてしまったのだろうか。
当たり前のように唇を重ねてきたオリヴィエ。
彼がどんな気持ちでロザリアにそんなことをしたのか、まったくわからない。
ロザリアが本や映画で見たキスは、お互いをかけがえのない存在と知った二人が想いを打ち明け合って、ゆっくりと唇を重ねていた。
心までも重ねあうようなキス。
間違っても、不意打ちで、軽くするようなものではなかった。
ふう、と、意識しなくてもため息が零れる。
さっきバスを使ったばかりの身体は、まだ火照っていて、とても冷静ではいられない。
鏡の中の自分の顔は、もう少女とは言えないのに、中身はまるで子供のままだ。
こんなことで混乱して、どうしたらいいのかもわからないなんて。
オスカーの言葉が頭にちらつく。
今、オリヴィエは何をしているのだろう。
キスをして、抱き寄せて、それから…二人きりの特別な時間を持つのだろうか。
共に過ごしているであろう相手に対する、どろりとした黒い感情。
チリチリと胸を刺すこの痛みは、間違いなく嫉妬と呼ばれるものだ。
こんな感情が自分の中にあることを、今まで知らなかった。
なんとなくしか感じていなかった自分の気持ちが、ようやくはっきりと名前を持ったのがわかる。
オリヴィエが好き。
同僚としてでも、守護聖としてでもなく。
彼を一人の男性として、好きになってしまった。
「ルヴァのいう通りですわ。」
あの時、もうとっくにオリヴィエに恋していたのだろう。
きっとオリヴィエもロザリアを嫌ってはいないはずだ。
帰り道を待っていてくれたり、お茶をしてくれたり。 好きなケーキを買ってきてくれたり。
でも、オリヴィエの持つ感情がロザリアと同じ『好き』かどうかはわからない。
ロザリア自身、自分が恋愛慣れしていなくて、つまらない女だという事は自覚している。
気の利いた駆け引きもできないし、オリヴィエを喜ばせるようなことは、何一つできていないこともわかっている。
彼がこのところロザリアに構うのは、同僚としての友情? それとも、遊び?
二人でいても、オリヴィエは、見惚れるほどの余裕のある笑みを浮かべているだけで、キスもした時もその後も何の言葉もくれない。
もし、もう一つ階段を昇れば、何か変わるのだろうか。
キス以上のなにかを。
ふと唇の感触を思いだして、ロザリアは慌ててベッドにもぐりこんだ。
けれどもちろんすぐに寝付けるはずもなく。
「275、276、277…。」
数える羊の数だけが、布団の中で増えていった。
約束の土の曜日がやって来た。
昼なのに、わざわざバスを使ったロザリアは、ドレッサーの前で、少ない手持ちのメイク道具から、淡いピンクと白のアイシャドウを取り出した。
以前、アンジェリークにもらったけれど、一度も使わないままのアイシャドウ。
慣れない手つきで瞼に乗せてみたものの、実に微妙で、正直似合わない。
可愛らしいアンジェリークならピンクも似合うのだろうが、キツイ顔立ちのロザリアでは、なんだかピエロのようにしか見えないのだ。
その道の達人であるオリヴィエの前で、このメイクではかえって恥ずかしいことになるだろう。
再び洗顔して余計なメイクを落としたロザリアは、いつも通りのナチュラルメイクだけを施した。
ロザリアは気が付いていないが、実はその方が素肌の美しさが映えて、艶っぽさが増している。
グロスだけの唇は誘うようだし、軽くパウダーを乗せた肌はすぐにでも触れてみたくなるほど柔らかそうだ。
この日のために準備したネイビーのワンピースを着て、ロザリアはオリヴィエとの待ち合わせの場所に向かった。
「いいね。 すっごく似合ってる。」
約束の時間の少し前に着いていたオリヴィエは、駆け寄ってきたロザリアに、開口一番そう告げた。
手放しの賞賛に、ロザリアは恥ずかしそうに頬を赤らめ、体を縮ませている。
肩からふわりとしたAラインのワンピースは、普段のロザリアとはまるで違う優しい印象だ。
あえて体のラインを出さないのも、かえって、そのすらりとした体を引き立てているし、ミニ丈に合わせたタイツとアンクルブーツのせいで、綺麗な脚に目が吸い寄せられる。
青紫の髪に合うネイビーと同色のレースが幾段にも飾られた上質な素材。
ロザリア自身の美しさを邪魔しないシンプルさがちょうどいい。
「あの、オリヴィエも素敵、ですわ。」
「そう? ありがと。」
今日、オリヴィエはあえてシンプルなシャツとパンツにしていた。
ネックレスやブレスレットといったアクセサリーも飾りのない、金細工だけのもの。
メイクも薄目で髪のメッシュも落としている。
ロザリアがどんな服装で来ても、それなりに似合うように、と考えたのだが、今日の彼女のスタイルなら、それこそなんでも似合っただろう。
「じゃ、行こっか。」
オリヴィエが歩き出すと、ロザリアもその半歩後ろを並んで歩いてくる。
彼女らしい慎み深さなのだろうが、なんとなく物足りない。
オリヴィエはそっと彼女の手を取った。
「隣に来てよ。 話がしづらいからさ。」
ためらうロザリアの手を少し強めに引くと、諦めたように、ロザリアは足を速めて隣に並んだ。
すぐ下にある、彼女の髪が風に揺れるたびに甘い花の香りを撒き散らして、オリヴィエの鼓動を速める。
こうなれば、もう手を繋ぐ理由はないのだけれど、もちろん、オリヴィエがその手を離すことはなく。
二人は手を繋いだまま、店の中へと入っていった。
「飲みすぎてしまいましたわ。」
ロザリアは火照った頬に手を当てて呟いた。
通り抜ける夜風がやけにひんやり感じるのも、自分が熱くなっているせいだ。
さっきまでの時間がまるで夢のようで、地に足が付いていない気がする。
オリヴィエが案内してくれたレストランは、貴族育ちのロザリアでさえ、素直に素晴らしいと思える料理ばかりだった。
ついお酒も進んで、アペリティフ以外に二人でボトルを開け、オリヴィエはさらに追加でグラスをオーダーしていたほどだ。
最後のデザートまで、ずいぶんゆっくりしてしまった。
それだけ話が弾んで、楽しい時間を過ごせた、という事なのだけれど。
「なに? 意外って、顔してる。」
からかうようにダークブルーの目を細めたオリヴィエが笑う。
「いいえ。 … でも、少し。」
「ふふ、正直だね。 あの店を探すのに、こんなに時間がかかった、って言ったら、あんたは信じてくれる?」
「まあ、本当に?」
「さあ? 実は私も2回目なんだよ。 これはホント。
噂を聞いて、まずは一人で偵察に行ったんだけど、あんな店に一人で来てるって私だけでさ。
かなり気まずかったんだけど、どうしても自分で確認しときたくてね。
ちょっとでもあんたに喜んでほしかったから。」
オリヴィエの言葉はどこまでが本当で、どこまでが冗談なのか、よくわからない。
それでも嘘をつくようには見えないから、たぶん、今言ったことも本当なのだろう。
ささいな彼の一言でロザリアの鼓動は激しくなる。
思わせぶりな態度の奥に、少しはロザリアへの特別な気持ちが隠れていないかと、期待して。
自邸の玄関のドアの前で、ロザリアは足を止めた。
いつもなら送り届けてくれたオリヴィエをお茶に誘うのだが、今日は食事を済ませたばかりだ。
アルコールも嗜んでいるし、今更、お茶もないだろう。
かといって、初めての外出なのに、ここで「さようなら」というのも惜しい。
どうしたらいいだろう。
考えながらドアを開けたロザリアの腕を、急に力強く掴んだ手。
驚く間もなく、ロザリアは家の中に引きずり込まれていた。
「ん…。」
ふさがれた唇。
二度目のキスは、一度目とはまるで違う熱を帯びていて。
重ねられた唇の熱さに、戸惑うことしかできない。
オリヴィエはロザリアの背中を抱き寄せながら、角度を変え、何度も唇を重ねてくる。
息を継ぐ間もない、キスの嵐。
腰を抱えるオリヴィエの掌の熱。
静まり返った家の中に、響き渡るリップ音が、ロザリアの耳にも聞こえてきて。
あまりにも現実感のない感覚に、ロザリアは混乱していた。
「ぁ、や。」
息を継いだ瞬間を狙ったように、オリヴィエの舌がロザリアの口中に忍び込んできた。
初めての大人のキスは、わずかなアルコールの香りが漂っている。
突然すぎて、どう答えていいのかわからないまま、ロザリアはオリヴィエのなすがままに委ねた。
絡めとられた舌。 混ざり合う唾液。
歯の裏から上あごまでを舐められて、彼に全部を飲み込まれそうだ。
いつの間にか、足が震え、ロザリアはギュッとオリヴィエのシャツにしがみついていた。
もしもオリヴィエが少しでも力を抜いたら、そのまま倒れてしまっただろう。
息が苦しい。 でも止めたくない。
長いキスの後、ようやく唇が離れても、ロザリアは頭がぼんやりして、何も考えられなかった。
今のもキスなのか。
…今のが本当のキスなのか。
身体の力までキスで吸い取られてしまったみたいに、立っていることもできない。
そのままオリヴィエの胸の中に倒れ込んだロザリアを、彼は軽々と抱き上げた。