Fall

13.


薬が効いてきたのかもしれない。
ロザリアはさっきまでよりも楽になった呼吸に気が付いて、一度大きく息を吐いた。
相変わらず頭はぼーっとしているし、唇もカサカサになっている。
きっとひどい顔をしているのだろう。
泣きはらした目や、真っ赤になった鼻。
二週続けてこうなれば、さすがにアンジェリークも呆れたのか何も言わなかった。


先週の日の曜日、倒れたロザリアを見舞ってくれたアンジェリークに、ロザリアはようやくすべてを話すことができた。
思いがけなく近づいて、いつの間にか好きになっていたこと。
求められるまま、捧げてしまったこと。
それからもオリヴィエは決定的な言葉をなにもくれないこと。
恋人じゃない、と遠回しに告げられたこと。

「・・・遊ばれたのね。」
アンジェリークの一言に、ロザリアは言い返せなかった。
重いため息とその後の沈黙。
実際、アンジェリークに呆れられても仕方ないことをしてしまったのだ。
「オリヴィエは見た目以上に遊んでると思うのよね。
 なんてったって、あのオスカーと一緒になって下界に行ったりしてるんだもん。
 何してるか、なーんて、ロザリアだってわかってるわよね?
 そうは見えない分だけ、オスカーよりもたちが悪いのかもしれないわ。」
オリヴィエが女性のことをよく知っているのはロザリアもわかっている。
キスもなにもかも、とても手慣れていて巧みだ。
ベッドの中での彼の様子を思いだして、赤面して…すぐに落ち込んだ。

「バージンが珍しかったのかも。 
 ホラ、やっぱり遊び慣れてる子ばっかり相手してたら、時には初心な子にも手を出したくなるんじゃない?
 男なんて好きじゃなくたって、いくらでもできるし。
 なんてったって、手近っていうのは大きいわよね。 ヤりたいときにすぐできるんだもの。」
言い返せない。
むしろそれがアタリのような気がしていた。
ロザリアはたいして面白いことが言えるわけでもないし、アンジェリークのように、一緒にいて楽しいわけでもない。
生真面目すぎて、異性に好かれるタイプじゃないことは自分が一番よくわかっている。

「それとも飽きちゃったのかな。
 ヤるまでが楽しい、っていう男の人、結構いるわよね。」
アンジェリークの一言一言が、ロザリアの胸に重く突き刺さる。
遊ばれた、なんて思いたくない。
むしろオリヴィエには感謝したいくらいだ
ロザリアにとって、この数か月間はとても楽しかった。
人生初めてのときめきや悦びをたくさん教えてもらった。
だから。

「もういいの。 わたくし、いい思い出をいただきましたもの。」
今までの全てが何であっても。
もう二度と戻らないとしても。
楽しかったことだけ胸にしまっておけば、それでいい。
俯いたロザリアを、アンジェリークが冷やかに見下ろした。

重たい沈黙のあと。
「なんか、それって、よくないと思うわ。
 っていうか、わたしはすごーーーくイヤ!!!!」
「え?」
「ねえ、これで終わりにしちゃって、ロザリアはホントにイイの?
 だって、ホントにオリヴィエがどう思ってたのか、全然わからないのよ?
 本当に遊びだったとしたって、ちゃんと聞いたほうがいいと思う。
 うやむやなまま終わったら、次の恋に踏み出せないもの。」

次なんて、今はとても考えられないし、傷つくのは怖い。
もう誰かを好きになるなんて、しばらくはないだろう。

「それに、ロザリアは自分の気持ちを言ったの?
 聞いてたら、オリヴィエが『好き』って言ってくれない、『付き合って』って言ってくれない
 オリヴィエが、ばっかりじゃない。
 ロザリアからは言わなくて、オリヴィエからは言ってほしいなんて、他人任せすぎるわ。
 いつものロザリアじゃないみたい。」

アンジェリークを見れば、彼女は少し怒っているような気がした。
普段はまるで能天気で、おっちょこちょいなアンジェリークだけれど、ふとした時の強さは、やはり敵わない。
ロザリアには思いもつかない事を教えてくれる。
女王で、それ以上に大切な親友。


それから一週間、ロザリアはなんとかオリヴィエと話すことはできないかと機会を伺った。
けれど、彼はロザリアを避け、目を合わせてもくれない。
仕方なく、昨日の金の曜日、ロザリアはオリヴィエの家の前で、彼を待ち伏せることにした。
一言言えば、それでいいのだから、と決意して。
ところが、彼は一向に帰ってこなかった。
今まで、ロザリアと過ごしていた金の曜日。
もう早速、別の女性のところに行ってしまったのだろうか。
風が上着のすそを揺らすたびに、良くないことばかりが頭に浮かんでしまう。
初めからロザリアだって、何人もいる、女性の中の一人だったのかもしれない。
考えれば考えるほど、悪い想像しかできなくて、何度も帰ろうと思ったけれど。

『自分の気持ちを言ったの?』
そのたびにアンジェリークの声が聞こえてきて、このまま帰れないと思いなおした。
彼にとって、ロザリアが遊びの対象でしかなくても。
ロザリアはオリヴィエを好きなのだ。
それをちゃんと伝えたい。 …もっとヒドイフラれ方をすることになっても、その方がきっと後悔しない。

まだ肌寒い空の下、ロザリアは彼の姿を待ち続けた。
けれど、結局、夜が明け始めても、オリヴィエは帰ってこない。
さすがにこれ以上ここにいては人目についてしまう、と、仕方なく自宅に戻ったところで、緊張の糸が切れたロザリアは、また熱を出してしまったのだ。
病み上がりで無理をした自分が悪いのは十分わかっている。
けれど、どうにも動けずに、アンジェリークに助けを求めた。
滅多に聖殿から出られないアンジェリークが、久々にルヴァの屋敷へ出向くデートの日だったのに。

「気にしないで。わたし達、親友でしょ?」
急な呼び出しにもアンジェリークは快く応じてくれた。
申し訳なくて薬だけもらって、帰ってもらったが…。
今頃、ルヴァと仲良くしているだろうか。
二人のぽんぽんと小気味良いリズムで交わされる会話を思いだして、少し切なくなった。
言いたいことが言えるのは、愛されているという自信があるからだ。
おしゃべりはできても、肝心なことは何一つ言えなかった、ロザリアとは違う。
突然落ちた恋は去っていくのも突然。
好きだと伝えるよりも前に、もう、終わっていた。



またうとうとしていたらしい。
気が付けば、何かが視界をよぎっていた。
ふわふわと揺れる金の髪。
きっとアンジェリークが心配して、見舞いに来てくれたのだろう。

「アンジェ…?」
かすれた声で名前を呼ぶと、人影が近づいてくる。
「ごめんなさい。 お水をとっていただけるかしら。 喉が渇いてしまって。」
ガラスの触れ合う音、水の注がれる音。
そして、カツカツという靴音。
ふと、ロザリアは違和感を感じた。
アンジェリークの靴は、こんな音だっただろうか…。
寝すぎたのか、頭が重くて、よろよろとベッドから起き上がったロザリアは、コップをもってベッドの縁に座っている人影に目を見開いた。
金の髪は同じだけれど。

「はい。 ゆっくり飲みなよ。」
コップを差し出したのは、オリヴィエだ。
なぜ、彼がココに?
瞬きを繰り返して呆然としているロザリアの手を取ったオリヴィエは、その手にコップを握らせた。
ロザリアの白く細い指はまだ熱っぽく、頬も赤い。
少しやせてしまったようにも見えるロザリアの姿に、オリヴィエの胸が痛んだ。

「さ、飲んで。」
再び言うと、ロザリアはさらに目を丸くして、オリヴィエを見つめた。
青い瞳が何か言いたげに、潤んでくると、ためらうように開きかけた唇。
それでも、よほど喉が渇いていたのか、ロザリアはコップをぎゅっと握った後、機械人形のように、ごくごくと水を飲み干した。

「少しは楽になったみたいだね。」
オリヴィエのキレイな手がロザリアの額に触れる。
言われてみて、ロザリアは、朝よりもずいぶん体が楽なことに気が付いた。
ルヴァの薬のおかげだろう。

オリヴィエは黙ったまま、ロザリアをじっと見つめている。
ロザリアは不意に自分の姿が恥ずかしくなった。
夜着のまま、髪も梳かさず、昨日もシャワーを浴びていない。
しかしなぜ、急にオリヴィエはここへやって来たのだろう。
言いたいこと、聞きたいことがたくさんで、まだぼんやりした頭ではうまく処理できない。

「どうして、ここに?」
かろうじて口にできたのはその一言。
するとオリヴィエはくすっと楽しそうに笑みをこぼした。
「陛下にね、言われたんだよ。」
「アンジェに?」

ロザリアは驚くほどガッカリしていた。
もしかして会いに来てくれたのではないか、と期待していた。
彼が自分の意思でロザリアに会いに来てくれたのなら、体目当てでもなんでも嬉しいのに。
けれど。
「…ごめんなさい。 アンジェが何か言ったんですのね。
 あなたのせいではないのに。」
アンジェリークがオリヴィエに何を言ったのかは、だいたいわかる。
きっとロザリアのために怒ってくれたのだろう。

「本当にごめんなさい。
 もう大丈夫ですから。 お帰りになって。
 アンジェにはわたくしから言っておきますわ。」
ここへ来なければ、休みはナシだ、とでも脅したのか。
衣装代を実費で請求するとでも言ったのか。
そうでもなければ、彼がここへ来るはずなどない。 …来る理由もない。
じわり、と瞳が潤みそうになって、ロザリアはシーツを握りしめた。
熱はまだ体に残っていて、額には汗がにじんでいるのに、握った拳は白くなるほど冷え切っている。


「ごめん。」
謝られたことで余計に悲しくなる。
何か言えば、泣き出してしまいそうで、ロザリアは黙ってうつむいていた。
きっとすぐにオリヴィエは出ていくだろう。
それまでは取り乱したりしたくない。
ところがロザリアの予想に反して、オリヴィエはさらにロザリアに近づいてくる。
ぎしっと軋んだマットレスに、ロザリアは身を硬くした。

「ロザリア。」
優しい声。
このベッドで愛し合った時にも何度も聞いた。
呼ばれるだけで、胸がぎゅっと苦しくて。
返事もしないというのはロザリアの信条に反するけれど、今だけは許してほしい。
口を開けば、一緒に涙がこぼれてしまいそうなのだ。
代わりに軽く頷いて、ロザリアはじっと自分の手を見ていた。
すると。
柔らかな金の髪が視界いっぱいに広がり、ふわり、とロザリアの体を暖かな腕が包み込んだ。
驚きで息が止まる。


「好きだよ。」

身体を硬くしたまま、ピクリとも動かないロザリアを、オリヴィエはもう一度、しっかりと抱きしめた。
たった一週間触れていなかっただけなのに、こうして一度触れてしまえば、もう抑制できないほど愛おしさがあふれてくる。
彼女の香りと柔らかさ。
少しの熱っぽさが余計に欲望を刺激する。
さらに力を込めて抱きしめると、ようやくロザリアが身じろぎした。

「え、あの、なにを・・・?」
補佐官のロザリアは、舌を巻くほど頭の回転も速く、こちらが負かされるほど弁も立つのに、なぜ、自分のことになるとこうも鈍感なんだろう。
キョトンとオリヴィエを見上げてきた青い瞳に、思わず苦笑が漏れてしまう。

「好きだよ。 ああ、好きなんて言葉じゃ足りないね。
 大好き。 私にはあんただけ。 だれにも渡したくない。
 これでわかった?」

またぎゅっと抱きしめると、ロザリアが今度ははっきりと抵抗するように、オリヴィエの胸を押してくる。
無視し続けようとも思ったが、意外にも抵抗は長い。
荒くなる息が苦しそうで、仕方なくオリヴィエは力を緩めた。
どうせ逃げられないし、逃がすつもりもない。
そっと身体を離し、頬に落ちてきた彼女の髪を耳にかけなおした。

目が合うとすぐ、
「オリヴィエ、その傷は?」
ロザリアの瞳が心配そうに揺れるのを見て、オリヴィエはほほ笑んだ。
「ああ。 …アロエがね、こう、ぴゅーっと飛んできてさ。」
自分の顔を自らの指先でなぞると、頬の真ん中に違和感がある。
すっとまっすぐに伸びる赤い傷跡。
シャワーを浴びた時に気が付いたが、大したことはないと今の今まで忘れていた。

「お顔ですのよ? あの、あなたにとっては、とても、大切なことなのでは・・・?」
オリヴィエが美に対して人並み以上に気を使っているのを知っているからこそ、ロザリアはこんなに気にしてくれているのだろう。
たしかに目立たなくはない。 いや、目立っている。
けれど。
「こんなの大したことないよ。 むしろ目が覚めた、ってカンジ。」
アロエとサラミの砲撃には正直参ったけれど、あの二人に言われなければ、きっとずっと誤解したままだった。
ロザリアを、失ってしまうところだった。
そのことの恐怖に比べたら、この程度の傷なんて、一生残ったって構わない。

「でも…。 傷が残ったら大変ですわ。」
「心配してくれるの?
 じゃあさ、ここにキスして。
 早く治るようにおまじない。」

冗談交じりの言葉だったのに、ロザリアは真剣な顔で頷くと、そっとオリヴィエの頬に唇を寄せてきた。
本当に触れるだけの優しいキスだったけれど。
ロザリアからもらうキスは初めての時と同じように特別で、嬉しさがこみ上げてくる。
いつの間にか二人はベッドの上で寄り添うように、抱き合っていた。


「私さ、あんたはルヴァが好きなんだと思ってたんだよ。
 二人で会ってるとことか見ちゃってさ。」
「それは! …事情があるんですの。
 ルヴァには、別に好きな方が…。」
言い淀むロザリアの髪を撫でる。
「ん。 もう知ってる。
 まさか陛下とルヴァがね~。 なんか意外だけど、結構しっくりきてたよ。」
ロザリアは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに頬を染めた。
「ええ。とても素敵な二人ですわ。 わたくしもあんな恋人同志になりたいと思っていますの。」

はにかむように微笑むロザリアがとても愛おしくて。
オリヴィエはごく当たり前に、彼女に唇を寄せていた。

「私と、恋人になってくれる?
 あの二人よりももっと素敵な恋人になりたいんだ。」

こくんと、頷いたロザリアと、もう一度しっかり目と目を合わせた。
青い瞳の中には、オリヴィエだけが映っている。
とたんに愛おしい気持ちがあふれてきて、抑えきれなくなった。

「好きだよ。 ロザリア。」
「好きですわ。 オリヴィエ。」

なにか日常と違う素敵な出来事が突然舞い降りてきたりはしないかと、ただ願っていたあの頃。
平凡で普通な日々はとても穏やかで楽だったけれど、今はもうあのころに戻りたいとは思えない。
戻れるとも思わない。
だって。
恋に「落ちて」しまったから。

再び始まった長い口づけに、ロザリアはギュッとオリヴィエの背中を抱きしめていたのだった。

  
Fin


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