2.
「…オリヴィエ? オリヴィエ…。」
「え?」
名前を呼ぶ彼女の声に、オリヴィエは慌てて顔を上げた。
目の前には心配そうに彼を覗きこむ、ロザリアの青い瞳。
「あれ? ロザリア? え?」
オリヴィエはきょろきょろとあたりを見回すと、もう一度ロザリアへと視線を向けた。
傾き始めた日差しの中、夕焼けのオレンジをにじませる彼女の姿は、いつもとまるで違っている。
長い髪は結い上げられてはいるものの、緩やかにまとめられ、可愛らしい花飾りが付いていて。
化粧だってナチュラルで、申し訳なさそうに塗られている唇のグロスだけ。
そして何よりもその服が。
「浴衣…。」
「え?」
思わずつぶやいたオリヴィエにロザリアがさっと頬を染める。
「…オリヴィエが作ったんじゃありませんの。
どうしても今日の夏祭りに間に合わせたい、ってアンジェに押し切られて…。
あ、アンジェとルヴァならもう、とっくに二人で夜店の方へ行ってしまいましたわよ。」
「うん、そうだったね。」
オリヴィエはロザリアを見つめた。
彼女の浴衣は、まさにオリヴィエが想像した通り、いや、それ以上に彼女に似合っている。
悩みに悩んだが、伝統的な柄がどうしても気に入らず、わざわざ彼女のイメージのバラの柄を作らせた。
華やかなバラに伝統の縦じまを合わせ、優しい紫に染め上げた、おそらく宇宙に一枚しかない反物だ。
そのほかの小物も全部オリヴィエがセレクトして、ロザリアへとプレゼントした。
もっとも彼女ほどの美貌ならば、どんなものでも着こなしてしまうだろうけれど。
「オリヴィエ?」
凝視されていることに居心地の悪さを感じたのか、ロザリアが首をかしげている。
補佐官服に身を包み、玉座の傍らに立っているロザリアは凛とした大人の女性に見えるが、こうしていると、まだあどけない少女なのだと改めて実感させられる。
オリヴィエは彼女の手を取ると、くすっと笑った。
「じゃ、私達も行こうか。 ね、あんたはなにがしたい?」
「わたくしは…実はあまり知りませんの。 お祭りなんて、来たことがなくて。」
ロザリアが恥ずかしそうに眉を寄せる。
お嬢様育ちの彼女は時々、こういう世事に疎いところがある。 …そこもまた愛おしいのだが。
「とりあえず回ってみよっかね。」
ぎゅっと彼女の手を握ると、ロザリアが驚いたようにオリヴィエを見上げる。
もちろん普段ならこんなことはしない。
今日が夏祭りで、聖地ではない場所にいて…とても彼女が可愛いから。
きっと気持ちが抑えられずにいるのだ。
それに気づかないふりをして、オリヴィエは彼女の手を引くと、明るいほうへと歩き出して行った。
「あれは・・・?」
足を止めたロザリアの視線の先をたどると、『金魚すくい』ののぼりが立っていた。
「やってみる?」
オリヴィエはロザリアを水槽の前まで連れて行くと、そのまましゃがみ込んだ。
戸惑いながらも、ロザリアも周囲の人々がそうしているのに気が付いて、同じようにしゃがむ。
「ホラ、この金魚をあのポイってやつで掬うんだよ。」
ロザリアに説明しながら、オリヴィエは小銭と引き換えに店主からポイを受け取る。
水槽には明るいライトが煌々とあたり、ギラギラした光の中で金魚たちがたくさん泳いでいた。
夏らしい光景。
興味津々といった様子で辺りをきょろきょろと見回しているロザリアのすぐ横で、子供がポイを水槽に突っ込み、
「あ~、もう敗れたあ~。」と大きな声を上げた。
「オリヴィエ、あんな紙で金魚をとるなんて無理なんじゃありませんの?
子供を騙しているのでは?」
当然の疑問を口にするロザリアに、オリヴィエは軽いウインクを飛ばして、ポイをくるくると指で回した。
「ま、見てなって。」
オリヴィエもそれほど得意でもないが、たぶん一匹くらいなら掬える自信はある。
オリヴィエは一匹の黒い金魚に目をつけると、すうっと斜めにポイを沈め、その横腹をひっかけるように掬い上げた。
ぴちゃ、と一度、尾を振る金魚。
そのまますぐさま椀を金魚の下へと滑り込ませ、ぽちゃんと落とした。
「ね、できるでしょ?」
椀の中の金魚とオリヴィエを交互に見つめた後、一呼吸おいて、ロザリアが目を輝かせた。
「スゴイですわ! どうして紙が破れませんの? 何か秘密があるんですの?」
「ちょっとしたコツかな。 あんたもできるって。」
オリヴィエはもう一つ、店主からポイを受け取り、ロザリアへと手渡した。
「どうするんですの?」
「あのね、まっすぐに入れちゃうんじゃなくて…。」
オリヴィエは隣にしゃがんでいるロザリアの背中越しに腕を回し、ポイに手を添えた。
彼女の小さな手はオリヴィエの手の中にすっぽりと包み込まれている。
「こうやって、手首を回すんだよ。」
金魚を追いかけ、ポイを動かしながらオリヴィエが指示をしてもロザリアからの返事がない。
不思議に思って、水槽からロザリアの方へと視線を動かしたオリヴィエの目に、彼女の真っ赤になった耳が映る。
気が付けば、オリヴィエの唇は今にも彼女の頬に触れそうなほど近づいていて。
背中越しに回した腕は、まるで彼女を抱きしめるような形になっていて。
ふわりと感じる彼女の香りに、一気にオリヴィエまで熱が上がる。
「あ、ごめん。」
慌てて彼女から手を外した瞬間、ポイが水槽の中へと落ちてしまった。
「「あ・・・。」」
重なる、がっかりした声。
ぷかぷかと浮かんでいるポイの残骸とゆらゆら泳ぐ金魚。
「一匹も取れませんでしたわ。」
ロザリアは本当にがっかりしているようだ。
けれど、すぐに頭上から、店主が陽気に
「残念だったね~。 しかたない、綺麗なお嬢ちゃんには一匹サービスしちゃうよ。」
と、金魚を袋に入れて渡してくれた。
白地に赤の少し小ぶりでほっそりした金魚が、小さなビニール袋の中でくるくると動き回っている。
「よかったね。」
オリヴィエも自分の椀の中の金魚を袋に入れてもらうと、店主に丁寧に礼を言い、立ち上がった。
「一匹づつじゃ寂しいだろうからさ、帰ったら一緒の水槽に入れてあげようよ。」
オリヴィエが彼女の金魚も一緒に持ちながらそう言うと、ロザリアも頷く。
「そうですわね。 二匹の方がきっと楽しいですわ。」
「だよね。」
オリヴィエはロザリアの方へと手を伸ばし、彼女の手を握った。
「一人よりも二人の方がお祭りだって楽しいよね。
だからはぐれないようにしないと。」
繋いだ手を少し前後に揺すり、にっこりとロザリアに微笑む。
はぐれないように、なんて、ていのいい口実だ。
けれど、そうでも言わなければ…手を繋ぐこともできない。
「ええ。…はぐれないようにですわね。」
ロザリアの頬が赤く染まり、それを見られるのが恥ずかしいのか、彼女は少し俯いた。
焼きそば。フランクフルト。たこ焼き。それから、綿菓子。
定番の夜店を廻り、射的や輪投げで遊んでいると、あっという間に時間が過ぎて行く。
聖地とは違う空気の解放感なのか、二人ともいつもよりもはしゃいでいた。
補佐官として玉座の傍らに立っているときは、決してしないようなこと。
たとえば、立ったままラムネを直飲みしたり、型抜きの失敗で大きな声を出したり。
やがて、祭りの終わりを告げるように、人波が少しずつ去っていき、オリヴィエもその波に沿うように、祭りの会場から遠ざかり始めた。
楽しい時間はすぐに終わってしまう。
子供のころのような感傷に浸りながら、ロザリアの手を引いて歩く。
まだ残る祭りのざわめきの中、彼女の髪飾りの鈴の音が、りんりんとやけに響いて聞こえていた。
「陛下とはどういう約束をしてるの? ここで落ち合うの?」
ここへ来るのに使った星の小道の入り口まで来て、オリヴィエはようやく足を止めた。
本当に夢のような時間だった。
考えてみれば、純粋に二人きりでデートを楽しんだのは、女王試験の時以来かもしれない。
普段、お茶を飲んだり、それぞれの部屋を訪れることはあっても、それは補佐官と守護聖の域を出ないものに過ぎないから。
離すのが惜しくて、繋いだままの手。
ロザリアも離そうとしないことに、少しくらい、うぬぼれてもイイだろうか。
「先に戻っていいなら…そろそろ戻らないと。」
気持ちと裏腹な言葉を口に出すことで、あえて、自分自身にも言い聞かせる。
オリヴィエは黙ったままのロザリアを見つめた。
「…アンジェは…。 いえ、あの二人は、今日は聖地には戻りませんの。」
「え?!」
驚きのあまり、大きな声を出してしまい、オリヴィエは慌ててその後の言葉を飲み込み、小声で返した。
「は? 戻らないって、どういうこと?」
「ですから、今日は二人でこの世界で一夜を過ごすのですわ。
女王の力で、今夜の聖地とこの地の時間を同じにしておけば、問題ありませんでしょう?」
「問題ありませんでしょう?って…。
そりゃ、宇宙の運行には問題ないかもしれないけど…。」
けれど、実のところ、オリヴィエもそれ以上何も言うつもりはなかった。
アンジェリークとルヴァはお互いの立場があるとはいえ、公認の恋人同士だ。
週末の夜を共に過ごしていることも知っているし、今日一日を特別に過ごしたい、という気持ちもわかる。
「浴衣の着付けを一生懸命覚えてたのは、そのためだったんだね・・・。」
やけに熱心だった女王の姿を思いだして、オリヴィエはクスリと笑みをこぼした。
きっと、アンジェリークだけではなくて、ロザリアも知っていたからこそ、あんなに一生懸命だったのだ。
「じゃ、先に戻っていいんだね。 …行こうか。」
オリヴィエはロザリアの手を引くと、星の小道へと足を踏み出した。
ところが。
ロザリアはその場から動こうとしない。
「…どうしたのさ。」
オリヴィエがさらについ、と手を引くと、ロザリアは苛立ったように、大きく揺すり、つないでいた手を振りほどいた。
「わたくし!」
いきなりの大声。
オリヴィエはつないでいた手を宙にさまよわせ、目を丸くしてロザリアを見つめた。
両手を胸の前で組み、真っ赤な顔で瞳を潤ませているロザリア。
一瞬、怒っているのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「わたくし…今日は帰りたくありませんの。」
小さな声だったけれど、その言葉は一字一句はっきりとオリヴィエの耳に聞こえてきて。
まだ辺りに満ちていた祭りの喧騒を一気にかき消していく。
いつものように大人ぶって
「ダメだよ、みんなが心配する。」
そう言って、強引に帰ってしまおうか。
「今度はオールナイトのお祭りを探してみよっか。」なんて、冗談めかして。
それとも、
「…本当に帰さないよ?」
そう言って、連れて行ってしまうか。
頭の中で二つの選択肢がグルグルと廻っている。
今の彼女の言葉がどんな意味を持つのか、オリヴィエだってわからないわけではない。
恥ずかしがり屋で奥手なロザリアにしてみれば、今の告白はかなりの勇気が必要だっただろう。
顔ばかりか、よく見れば彼女の耳も首筋も指の先までも真っ赤。
女の子の方からこんなことを言わせてしまうなんて。
それもこれも…。
ロザリアへの気持ちをあいまいなまま誤魔化してきたオリヴィエの責任だ。
黙り込んだオリヴィエに、ロザリアは拒否されたと思ったのか、グッと唇を噛んで、もう一度口を開きかける。
傷ついたような瞳をしているのに、口だけは無理に笑おうとしていて。
泣きそうな笑顔とは、こういう顔を言うのだろう。
「ご、ごめんなさい。 わたくし…。」
睫毛を震わせたロザリアに、オリヴィエはその柔らかな身体を腕の中に閉じ込めようと手を伸ばした。